紅衣の麒麟   作:にわか

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原作「図南の翼」の話です。私はこの話が大好きなので(珠晶が十二国記の中で1番好きなので)書きたかったのですが、原作の話が完璧過ぎて主人公が介入できる余地がありませんでした。でも、どうしても書きたかったので、無理やり原作の僅かな空白の時間に主人公を介入させました。

あとがきに原作の文章を少し変えて追加した蛇足があります。



紅邂(こうかい)-図南の翼-

 

 

春分の季節を目の前にした乾の町は、夕刻を迎えてなお熱気に包まれていた。

 

狭い石畳の通りには、屋台の煙と油の匂いが立ち込め、値を競る商人の声が飛び交う。肩がぶつかり合うほどの混雑のなか、気を抜けばすぐに荷物を盗まれそうな、そんな喧騒が町を覆っていた。

 

珠晶は、人通りから少し外れた塀際に立っていた。背を伸ばしているつもりでも、通行人にとっては目に入らない高さの子供でしかない。着ているのは、町でよく見かける質素な民の服。目立たない装いは、必要な自衛だった。

 

(……今日は宿無しかしら)

 

昼から何軒も宿を回ったが、どこも取り合ってくれなかった。「子供だけでは泊められない」と冷たくあしらわれ、懇願しても無駄だった。銀貨を見せても信用は得られず、しつこくすれば不審者扱いされる。

 

旅の疲れはとうに足元へ染みていたし、孟極――白兎を奪われた空虚は胸の奥に居座ったままだった。それでも泣くような気分ではない。悔しさはある。けれどそれ以上に、今は宿も見つけられず、今晩の寝場所をどうするかという現実の方が重たかった。

 

不意に、背後から穏やかな声がした。

 

「あの……どうかしたの?」

 

びくりと肩が跳ねた。とっさに振り返ると、ひとりの旅人が立っていた。

 

夕陽の朱に染まる街角に立つその人は、鮮やかな深紅の髪をゆるく束ね、朱色の衣を軽く羽織っている。年は自分とそう変わらないようにも見えたが、どこか落ち着きがあり、端整な顔立ちには、妙に目を引く静けさがあった。

 

 

(……きれいな人。なんだか、人じゃないみたい)

 

赤い髪も、赤い瞳も、見慣れないはずなのに、不思議と街に溶け込んでいる。旅装は質素だが乱れてはおらず、姿勢もまっすぐで、まるで何かを見透かすような瞳をしていた。

 

けれど、その声も、その眼差しも、決して強くない。ただただ静かに、「困っているのを見たから声をかけた」という気配があった。

 

「君、しばらくその場にいたでしょ? 困っているようだったから声掛けたんだけど…違った?」

 

図星を突かれて、珠晶は一瞬だけ口をつぐんだ。

 

「……宿を探してたの。でも、子どもは断られるか、門前払いで」

 

旅人は何も言わずに、しばらく考えるような沈黙を挟んだ。

 

「……家は、どこ?」

 

その問いかけは穏やかだった。決して追及でも詮索でもなく、ただ彼女の立場を知ろうとしているように思えた。

 

珠晶は少し視線を反らしながら、それでも真っ直ぐに答えた。

 

「連檣よ」

 

赤髪の男は、短く目を見開いた。

 

だが驚きは一瞬だけで、すぐに表情を緩めて言った。

 

「そうか……。よければ、俺の泊まっている宿へおいで。部屋が空いていれば案内できると思う」

 

「……え?」

 

唐突な申し出に、珠晶は思わず相手を見上げた。だが彼の目には、下心も、気負いもなかった。ただ真っ直ぐな気遣いだけが滲んでいた。

 

「…ありがとう。」

 

珠晶がそう答えると、旅人は安心したように小さく微笑んだ。

 

「それじゃあ、こっちだ」

 

珠晶は戸惑いながらも、数歩後ろをついていく。言葉に強引さはなかったが、断り切れない何かがその背中にはあった。

 

案内されたのは、町の通りでも一際静かで格式のある宿だった。

門構えからして立派で、珠晶は思わず足を止めた。

 

「ちょっと、」

 

「大丈夫、君はここで待ってて」

 

旅人の少年は穏やかに珠晶に笑いかけると迷わず宿の中へと入って行った。

 

(……こんな宿に、泊まってるの?)

 

だが、男は慣れた様子で宿の者と話を始めた。男に宿の主人が頭を下げて応じている。

 

(……あの宿主、こんなに若い旅人に、ずいぶん丁寧)

 

珠晶は眉をひそめたまま、その様子を見ていた。

 

やがて男が戻ってくると、少し困ったような表情で言った。

 

「ごめんね、部屋がもう空いていないそうなんだ。

 ……君が気にしなければ、俺の部屋に寝床をもう一つ作ってくれるらしいんだけど、どうする?」

 

「もちろん、それで構わないわ。……ありがとう」

 

そう言った後、珠晶はふと首を傾げる。

 

「でも……あなたの連れは大丈夫なの? 怒られたりしない?」

 

その問いに、男は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。

 

「連れはいないよ。一人旅なんだ」

 

「一人旅……?」

 

珠晶は訝しげに男を見上げた。

 

年の頃は自分とさほど変わらないように見える。なのに、格式のある宿に泊まり、応対していた宿主の様子も明らかに丁寧すぎていた。

 

(……どこかのお偉いさんの倅、とか?)

 

探るような視線を向けてみるが、男は何でもないように「ちょっとね」とだけ返し、それ以上は語らなかった。

 

珠晶もそれ以上は聞かなかった。助けられている立場だったし、なにより――この旅人のまとう空気には、どこか不思議なあたたかさがあったから。

……きっとこの人は、誰にでもこんな風に、迷いなく手を差し伸べるのだろう。

 

 

***

 

 

部屋に通されると、珠晶は思わず目を見張った。

柱も格子窓も手入れが行き届いており、柔らかな灯りが絹張りの仕切り越しに揺れていた。小さな卓と湯の入った茶器が備えられ、旅籠というより、まるで官吏の私室のような品の良さだった。

 

(……やっぱり、只者じゃないわよね)

 

旅人の少年は、そんな珠晶の視線も気にする風もなく、ゆったりとした動きで卓の湯に手を伸ばし、茶器に注ぐ。

 

「まだ、名乗ってなかったね」

 

彼はそう言って振り返り、淡い青磁の磁碗をひとつ珠晶に差し出した。そこからは、ほんのりと香ばしい茶の香りと、温かな湯気が立ちのぼっている。

 

「清次って言うんだ。この町には……ちょっと、昇山の様子を見に来たんだ」

 

「昇山……」

 

珠晶は受け取った湯呑を手のひらで包み、すこし間を置いて答えた。

 

「あたしは珠晶よ。宿に泊めてくれて、ありがとう。……代金は半分払うわ。いくら?」

 

きっぱりとしたその口調に、清次と名乗った男は思わずといった様子で噴き出し、ふっと肩を竦めた。

 

「ははっ。大丈夫だよ。そんなつもりで声をかけたんじゃないし……それに、君は結局、自分で部屋を借りられなかったわけだろう? 当然のことをしただけだよ」

 

その笑顔は、あくまで自然で、押しつけがましさもなかった。

 

「……そう。じゃあ、そうさせてもらうわ」

 

珠晶は素直に答えた。ここまでしてもらって、意地を張る理由もない。

 

ふいに、清次が問いかけた。

 

「ところで、君はどうして連檣から乾に?」

 

珠晶は、磁碗を唇に近づけたまま、彼の顔を見返す。

その瞳に、詮索の色はなかった。ただ、静かな好奇心だけがあった。

 

「……私、昇山するの」

 

一瞬の沈黙。

その言葉が、湯気のようにふわりと空気の中へ漂った。

 

「……君が?」

 

清次が少し驚いた声で言う。

 

「何よ。行けない?」

 

珠晶はむっとして言い返す。だが、その反応にも、清次は肩を竦めるだけだった。

 

「そういう訳じゃないよ。ただ、驚いただけ」

 

その軽さに、珠晶はふっと笑った。

 

「驚くことないわ。あたしはちゃんと考えて、そう決めたのよ。……家を飛び出して、白兎――孟極を連れて旅をしてたの。けど、昨日奪われちゃったの」

 

言いながら、胸の奥に鈍いものがよぎった。寂しさ、ではない。怒りと、少しの不安。けれど、それを吐き出せる相手が今いることが、妙に楽でもあった。

 

清次は頷き、黙って薄く縁の反った磁碗に口を添え、静かに一口を含んだ。

 

「今は、歩いてここまで来て、宿にも泊まれなくて、もう嫌になりそうだったの。だから、あなたに助けてもらえて本当に良かったわ」

 

「……そうか、大変だったんだね」

 

清次の声は低く、けれど温かかった。

 

「疲れたでしょう。今日は、ゆっくり休んだ方がいいよ」

 

珠晶は口を閉じ、そっと薄手の磁碗を漆塗りの卓に戻した。

何かを言おうとしたが、そのまま言葉は続かなかった。

 

ふとしたまま、瞼が重くなる。いつの間にか敷かれていた寝床の上に身体を預け、布を引き寄せると、眠気が波のように押し寄せてきた。

 

(……こんなふうに、眠るの、久しぶりかも)

 

最後に見えたのは、灯りの向こうで静かに磁碗を口に運ぶ、清次の横顔だった。

その顔に浮かぶ、どこか慈しむような柔らかな光。

 

その夜、珠晶は何も知らないまま、穏やかな眠りに落ちた。

 

 

***

 

 

 

朝の光が、宿の格子窓を淡く透かしていた。

 

目を覚ますと、もう清次の姿はなかった。けれど、卓の上には温かな湯気を立てる茶器と、簡素な朝食が用意されていた。

 

(……起こさずに準備してくれたのね)

 

そう思うと、胸の奥がほんの少しだけ、あたたかくなる。

 

支度を終えて部屋を出ると、清次は宿の前で待っていた。荷を軽くまとめ、腰に小さな袋を提げている。

 

「おはよう。よく眠れた?」

 

「……うん。ありがとう」

 

珠晶が頷くと、清次は少しだけ表情を緩めた。

 

「それは良かった。俺はこれから才に戻るから……送っていけないんだけど」

 

そう言った彼の声は、どこか申し訳なさそうだった。

 

「大丈夫よ。そこまでしてもらったんじゃ、悪いわ」

 

珠晶は強く言いながらも、なぜか胸の奥が少しだけ寂しくなる。

 

そんな彼女の前に、清次はひとつの小袋を差し出してきた。

 

「……良かったら持って行って。きっと必要になると思うから」

 

革で縫われた袋の中には、干し肉や乾果、それに油紙に包まれた薬草の包みや簡易の火打ち石などが入っていた。

 

「そんな……悪いわ。もらえない」

 

戸惑いながら言うと、清次はゆるく首を振った。

 

「いいんだ。……迷惑でなければ、受け取ってくれる?」

 

その声音に、押しつけがましさはなかった。ただ静かに、珠晶の旅を案じる想いが滲んでいた。

 

「……わかった。ありがとう。……なんだか、あなたには助けてもらってばかりね」

 

珠晶が少しだけ唇をゆるめると、清次もまた、柔らかく笑った。

 

「これも何かの縁だよ」

 

そう言って、清次は一歩、街路の方へ足を向けた。

 

「それじゃ、俺は行くね。……道中、気をつけて」

 

振り返らずに言ったその背を、珠晶はしばらく目で追った。

朱の髪が、朝の光を受けてわずかに揺れながら、街の雑踏にまぎれていく。

 

その姿が見えなくなったあとも、胸の中に残るのは、不思議な静けさと、確かなぬくもりだった。

 

珠晶は小袋を大事そうに抱き、そっと前を向く。

 

歩む先は、まだ遠い昇山の道。だが今は――ほんの少しだけ、心が軽かった。

 




―紅邂・蛇足―
 
「ああ、無事に辿り着いたんだね」
明るい声が聞こえて、珠晶は人の群を振り返った。
「おにいさん」
物珍しげに珠晶と頑丘のほうを見る人垣の間から利広が手を振っていた。
「どうしておにいさんが、こんなところにいるの?」
眼を丸くして駆け寄った珠晶に、利広は笑う。
「無事に辿り着けたか、気になって。白兎はどうしたんだい?」
珠晶はしゅんと項垂れた。
「.......せっかくおにいさんが証書をくれたのに、盗まれてしまったの」
そうか、と和広は慰めるように珠晶の背中を叩いた。
「それでよく乾に着けたね。・・・・・・・やっぱり一緒に来れば良かったかな」
「いいの。ものすごく悔しいし、白兎は恋しいけど、これで闘志が湧くってものだわ」
珠晶が言うと、利広は破顔した。
「なるほど」
「でも、どうしておにいさんが、黄海にいるの?」
「珠晶一人ではいろいろと困ることがあるんじゃないかと思って」
珠晶は利広の大らかな笑みを見上げる。
「......ひょっとして、一緒に行ってくれるの?」
「護衛はいたほうがいいだろう?珠晶はしっかりしているけど、どう考えても武器を持って妖魔とやり合うには不向きだろうから」
笑って利広は、腰に帯びた剣を示す。
それに笑い返した珠晶の肩をつついたのは頑丘だった。
「お前....こいつは」
「ああ、乾に来る途中で親切にしてもらったの。利広っていうのよ。一緒に行ってくれるんですって」
「はあ?」
「やっぱりねぇ、あたしの人徳かしらね。利広、こっちは頑丘よ。護衛に雇ったんだけど、もちろん護衛は数が多いほどいいわ」
「そりゃあ、そうだ」
言って、人の好さげな笑みを浮かべた若者を、頑丘は呆れた気分で見た。
「お前、こいつを追ってここまで?」
「やっぱり気になるじゃないですか。珠晶のような小さい人が黄海なんて」
「黄海に来ると知っていたのか?」
「珠晶がそう言ってたから」
顔丘はその笑顔に怒鳴りつけた。
「聞いたんなら、お前、笑ってないで止めろ!」
彼はにこりと笑う。
「そういうあなたは?止めなかったんですか?」
あっさり問われて、顔丘は思わず言葉に詰まった。
「......止めようとはしたんだが」
「止められなかったんでしょう。そうだろうと思うな」
言葉に窮して、頑丘はその能天気そうな笑顔をねめつける。
「頭丘、喧嘩は駄目よ。いい大人なんだから。護衛同士、仲良くしてね」
得意げに言って頑丘を見上げた珠晶に、頑丘はため息をひとつ吐いて肩をすくめた。
「……わかった。お前の運の良さだけは認めてやるよ」
「当然よ。王になるんですもの」
「……何かほかにあったのかい?」
利広が穏やかに尋ねると、
 珠晶は「頑丘はこれのことを言っているのよ」と言って、小袋を取り出した。
「それが?」
「貰ったの。親切な人から」
「俺から見ても申し分ない物と量が入ってる。しかも全部上物だ。……黄海に慣れた奴じゃねえと、こんな準備はできねえ」
と、頑丘が小袋の重みを確かめるように片手で揺らしながら、感心したように言った。
「ほんと、人は見かけによらないものね。そんな風には見えなかったわ」
「どんな人だったんだい?」
と利広がやわらかく問うと、珠晶は小首をかしげながら答えた。
「あたしとそう年の変わらない男の人よ。とても綺麗な顔立ちで、印象的な赤い髪をしてたわ」
その言葉に、利広は一瞬だけ目を細めた。
「へえ……どこから来たとか話していたかい?」
「いいえ……でも才に帰るって言ってたわ。それがどうかした?」
「……いや、なんでもない。知り合いかもしれないと思っただけだよ」
利広は笑みを浮かべながら珠晶を静かに見つめた。
(……清次か。珠晶に会っていたとは。まったく、すごい巡り合わせだな)
無造作に笑ったその目の奥に、僅かに驚きと、どこか感心した様な光が宿っていた。
「つまりお前の知り合いかもしれないやつも、こいつを止めなかったんだな」
頑丘が呆れたように言うと、珠晶が肩をすくめて言い返す。
「止めようとした人はいたけど、止められた人はいなかったのよ」
頑丘はひとつ大きく息を吐いたあと、まっすぐに珠晶を見据えた。
「……戻る気はないのか。いまならまだ乾に戻れる」
「何度訊いても同じよ。頑丘はあたしに雇われたの。――さっさと案内しなさい」

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