紅衣の麒麟 作:にわか
本日は少ないですが、2話投稿です。
日が高く昇る頃、才の北門が遠くに見えてきた。
穆玄の背に騎乗し、雲海の上を滑るように翔るその道は、恭から才までおよそ三日の空旅だった。眼下に見える山々や町の灯りは、もうすでに幾度も見慣れた景色であるはずなのに、胸の奥には不思議な熱が残っていた。
(……無事に、辿り着けるだろうか)
胸中に浮かんだのは、小さな少女の姿。
黄海に向かった彼女は、目を逸らすことなく前を見ていた。その瞳に宿っていた光は、齢に似つかわしくないほど強く、清らかだった。
「……王になるんですもの」
あの言葉が、耳に残っている。
ふと、足を止めて空を仰ぐ。才の空は透き通るように青く、雲がゆるやかに流れていた。
(本当に……王になるのかもしれない)
思えば、あれほど明確に自分の意思で道を選ぶ者に、天帝の選が追いつくのかとさえ思えた。だが、あれが“王の器”というものなら、きっと黄海の地は彼女の前に道を拓くだろう。
そう思えた。
禁門を抜け、雲を払いながら仁重殿へと向かう。
衣を整えて政庁に顔を出せば、郭睿や蕭英が小言を溜めていたかのように次々と報告を持って現れた。だが、怒鳴る者も、真顔で叱責する者もいない。皆、口では嘆きながらも、無事に戻ってきたことをどこか安堵しているようだった。州宰の仕事を任せていた宥禅もふらりと顔を出し、今度は一緒に町に降りようと一声かけて去っていった。
そして、慎思の姿を見た時、清次はふっと息を吐いた。
「……ただいま戻りました、主上」
「お帰りなさい、台輔」
その声音はいつもと変わらぬ穏やかさに満ちていた。
清次は深く頭を垂れた。その動作に才へ戻ってきた静かな情感が宿っていた。
慎思は微笑みながら言葉を続ける。
「今回はどこへ行ってきたのですか?」
「少し、恭に顔を出してきました」
「そうですか、恭の様子はどうでしたか?」
「首都にも妖魔が現れるようです。かなり荒れてきているようでした。……それと道中で少し、印象深い出会いがありました。
まだ分かりませんが…恭に、新たな王が現れるかもしれません」
「まあ、素敵な方と出会ったのですね。後でゆっくり話を聞かせてください。」
慎思はそう言って、卓に置かれた湯茶に手を伸ばした。
珠晶という少女の名を、この才の静けさの中で語る日も、そう遠くはないだろう。
けれど今は――ただ、才の空気と、主上の穏やかな声に、心を委ねていた。
***
鳳の声が天に響いたのは、昼を少し回った頃だった。
清らかで澄んだその音は、才国の空にまっすぐに届き、長閑宮にもしっかりと届いていた。
采麒――清次は、書簡の筆を置いたまま、しばしその音の余韻に耳を傾けていた。
(…… 恭国。新たな王の即位か)
その報せに、思い出されるのは一人の少女。
「……珠晶」
黄海の入口で出会った、小さな背とまっすぐな瞳。胸を張って、自らの意志で道を選んだあの姿は、まさしく王を志す者のそれだった。
あの鳳の声が、彼女のものであれば――。
そう思うと、胸の奥が静かに熱を帯びた。
清次は立ち上がり、正殿へと向かった。
執務室にはいると、慎思はすでに政務を終えたあとだったのか、卓の前で静かに文を読んでいた。文官たちは下がり、室内はゆるやかな午後の光に満ちていた。
「主上」
声をかけて一礼すると、慎思が目を上げ、やさしく微笑んだ。
「お帰りなさい、台輔。……どうやら、鳳が鳴いたようですね」
「はい。いましがた鳳が鳴きました。……恭に、新たな王が即位されたようです」
「そうですか……ようやく、ですね」
慎思は卓に文を伏せ、手を膝に揃えて静かに息をついた。どこか遠くを見つめるような目をして、清次を見やる。
「その件でお願いがございます」
「どうぞ」
「使節の件ですが……恭への祝福を、私が直接届けに参りたく思います」
その言葉に、慎思の眼差しがふっと柔らかく揺れた。
「……以前、あなたが少しだけお話しされていた方、でしょうか?」
「……はい。名乗るほどの縁ではありませんが……出会った時から、その器を感じるものがありました。ですので……もし、あの方が即位されたのであれば、才から真っ先に祝意を届けたいのです」
慎思はしばらく黙って清次を見つめていたが、やがてふっと頷いた。
「それは、きっと良い贈り物になるでしょう。才国からの祝意を託します。……よろしくお願いいたしますね、台輔」
「かしこまりました、主上」
深く頭を垂れたその胸中には、確かなものが灯っていた。
(……彼女が選ばれたのだとすれば、恭はいい国になるだろう)
正殿の高天井から差す光の下、清次は静かに立ち上がった。
才国の紅の麒麟は、再び北西へ向かう。かつて、志を胸に歩き出した小さな少女へ、今度は正式な祝意を携えて――。
図南の翼関連のお話はとりあえずこれで終わりです。
読んで頂きありがとうございました。