紅衣の麒麟 作:にわか
朝靄が、蓬廬宮の庭に静かに立ちこめていた。
陽の光はまだ淡く、白い空気のなかに金のしずくのように差し込んでいる。
衣文の擦れる音が、部屋の奥からかすかに響いていた。
女仙の綠花(りょくか)は、采麒の長い赤髪を丁寧に梳きながら、眠たげにまぶたを落とす主の横顔をそっと覗く。
「髪、お痛みになっておりませんでしたか?」
「んー……大丈夫だよ、ありがと」
軽く微笑みながら答えるその顔は、いつものように柔らかく――けれど、どこか距離を保つような、薄く揺れる面差しでもあった。
綠花はその表情に慣れてはいたが、心のどこかに針のような引っかかりがあるのを拭えなかった。
赤く、絹のように滑らかな髪は、腰まで届く長さを保っている。
纏う衣は漆黒と金を基調とした格式ある装束。
吉兆を示す黒を堂々と身にまとうその姿は、まさしく蓬山の神獣にふさわしい威容を備えていた。
「采麒、 一週間後には昇山の者がまいります。準備がございますので、黄海へお出かけになられるのであれば、お早めにお戻りくださいませね」
綠花がそう言うと、采麒は目をぱちくりとさせてから、肩をすくめるように笑った。
「ちょっとだけ。すぐ戻るよ」
そう言うと、采麒は立ち上がり、軽やかな足取りで庭へと面した廊下へ向かった。
綠花は手早く上掛けを受け取り、采麒が転変のために脱いだ衣を丁寧に畳みながら、その後ろ姿を見つめる。
采麒の体が紅い光に包まれる。
一陣の風が庭を駆け抜けたかと思うと、そこに立っていたのは一頭の麒麟――紅い毛並みを持つ、荘厳な神獣の姿だった。
美しく、そして気高いその姿に、綠花は思わず背筋を伸ばす。
「……どうか、お気をつけて」
采麒は振り返らないまま、軽やかに地を蹴って空へ舞い上がった。
その姿が空の彼方に溶けていくのを、綠花はしばしの間、黙って見送っていた。
やがて、抱えていた衣を胸元に整え直し、そっと歩を戻す。
その胸には、今朝もまた同じ思いがあった。
あの子は、よく笑う。でも――その笑みの奥には、何があるのだろう。
ーーー
それは、采麒が蓬山に帰還した翌日のことだった。
朝早くから蓬廬宮は静かに張り詰めていた。
女仙たちは皆、正式な衣を身にまとい、最奥の間に整列し、静かに平伏していた。
この日は、西王母―玄君が直々に訪れる特別な日だった。
やがて、黒衣の裾を引きながら、玄君が静かに現れた。
足音は一つも響かず、ただその存在だけが場の空気を変えてゆく。
女仙たちは一様に頭を垂れ、息を詰めるようにしてその気配を感じ取っていた。
采麒は、間の中央に座していた。
真紅の髪を静かに垂らし、深い紅の瞳で玄君を見つめる。
その表情は柔らかく、そして静かだった。
玄君が歩み寄り、穏やかな声で告げる。
「よう戻られたな、采麒。よくぞ無事であった」
采麒は、にこりと笑って微笑みを返した。
綠花は伏したまま、その場に満ちる静謐な気配を肌で感じていた。
そして、玄君はふと、何気ないように尋ねた。
「ところで――女怪は、どうしたのかえ?」
その一言に、室内の空気がぴたりと凍りついた。
采麒は、きょとんとした表情で少し首をかしげた。
「……女怪って?」
女仙たちが静かにざわめいた。
麒麟に付き従うはずの存在――それを知らぬという反応は、あまりに異質で、綠花は胸を強く締めつけられる思いだった。
そのときだった。
采麒の影が揺れ、大きな黒い虎がぬるりと現れた。
漆黒の毛並み、深く冴えた青い双眸。
張り詰めた筋肉がうねり、静かな威圧感が場を圧した。
「采麒には、もはや女怪はおりません」
低く、威厳を帯びた声が響く。
穆玄(ぼくげん)――采麒に仕える使令。その姿はどこか妖魔とは思えぬほど落ち着き払っているが、女仙たちは言葉を飲み込む。
穆玄は女官たちを一瞥したのち、采麒に向き直って淡々と語った。
「采麒が黄海に現れたとき、影にいた女怪が私に敵意を向けたため殺しました」
それだけの、簡潔な説明。謝罪も、言い訳もない。
采麒はそれを聞いて、軽く目を瞬かせたあと、肩をすくめるように笑った。
「ふーん、そうなんだ」
あまりにあっさりとした反応だった。
驚くでもなく、悲しむでもなく、まるで通りすがりの話でも聞いているかのように。
綠花は、深く伏せたまま、胸の奥でざらりとした違和感を飲み込んだ。
(……この子は、本当に何が起きたのか、理解していないのかもしれない)
穆玄の青い瞳が、無表情な才麒の横顔をじっと見つめていた。
ーーー
朝の出来事が心に残ったまま、綠花は静かに庭を後にした。
采麒が黄海へ向かったあと、脱ぎ置かれた黒地の外衣を畳み、衣棚へと戻した後のことだ。
朝の光はもう高く、蓬廬宮の一日は静かに進んでいた。
蓬廬宮の一角。
陽の光がやわらかく差し込む回廊の先、作業場では数人の女官たちが文書の整理や草花の手入れをしながら、ささやくように話していた。
「綠花さん、おかえり。采麒は、また黄海に?」
「そう。朝食のあと、すぐに」
「……妖魔が出るっていうのに、あんなふうにふらっと出かけられるなんて、本当にすごいよね」
「うん。でも、やっぱりちょっと心配になるよね。あの笑顔を見ると、何でもないふうに見えるけど……」
「優しいし、きれいだし……でも、どこか遠い感じがするのよね」
綠花はその言葉に、微笑を浮かべながらも、心の奥に沈む違和感を隠せずにいた。
「……私も、そう感じるときがあります。采麒は、誰にでも優しく接してくれるけど……まるで、大切なことほど遠ざけるように、話してくれない気がして」
「やっぱりそう思う? 麒麟って、ああいうものなのかもだけど……」
そのとき、風がそよぎ、凛とした声が背後から降りてきた。
「──少し、口が過ぎているようですね」
女官たちはハッとして一斉に立ち上がり、ぴしりと背筋を伸ばす。
「揚華(ようか)様!」
声を揃えて頭を下げた先には、淡い灰衣に身を包んだ揚華が静かに立っていた。
その涼やかな視線は穏やかでありながら、確かな威厳を帯びている。
「……采麒について詮索するのはおやめなさい。あの方は、蓬山において誰よりも尊き存在。言葉には、よく気を配ることです」
「はい、揚華様……申し訳ありませんでした」
女官たちはぴたりと声を揃え、頭を深く下げると、小さく身を縮めるようにして作業場を離れていった。
揚華は、ただひとり残った綠花に目を向ける。
「綠花。少し、話せるかしら」
「……はい」
綠花はそっと立ち上がり、揚華の隣に並んだ。
「采麒のこと、気にかけているのね」
その問いに、綠花は静かに頷いた。
「はい。……采麒はとても優しく、穏やかで、いつも笑顔を絶やさない方です。でも……その笑顔が、どこか遠くにあるように感じることがあります。大切なことを、誰にも見せないようにしている気がして」
「……分かるわ。あの方は、どこか“こちら側”とは違う場所にいるような気配がある」
揚華は、白梅の咲く枝に目を向ける。
「麒麟は、そういう存在なのかもしれない。けれど、綠花。あなたのような者がそばにいることで、采麒はきっと……孤独を抱えきらずに済むわ」
「……私、できる限り寄り添いたいと思っているんです。あの方が、少しでも楽になれるように」
揚華はやわらかく微笑み、綠花の肩に手を添えた。
「その気持ちがあれば、きっと采麒にも伝わるわ。焦らなくていい。静かに、そばにいてあげて」
「……はい。ありがとうございます、揚華様」
綠花は深く頭を下げた。
そのとき――
一陣の風が、庭の花々を揺らす。
「……!」
空を見上げると、紅の光がきらめき、蓬廬宮の広場にふわりと舞い降りる一頭の獣。
綠花は微笑み、そっと呟いた。
「おかえりなさい、采麒」
ーーー
数刻前、黄海の岩棚に、風が吹き抜ける。
歪んだ松が立ち枯れたように残る崖の上。そこに、紅い影が立っていた。
――采麒。あの子は今日も、使令になりうる妖魔を探しているらしい。
眼下には、尻尾を巻いて逃げていく小妖魔の姿があった。
調伏のためには妖魔と目線を合わせなければならない。しかし、采麒が姿を現すより早く、妖魔は怯えて逃げ出していた。
崖の陰からその様子を見ていた穆玄は、鼻を鳴らした。
『何をしてるかと思えば……まるで迷子を探してる坊主だな』
聲に出さずとも、思念は風に溶けて采麒に届く。
采麒は崖上からちらりと穆玄を振り返ると、唇を尖らせた。
「……穆玄が威圧するからでしょ。あれじゃ誰だって逃げるよ」
「弱いやつなんざ、使役したところで何の役にも立ちゃしねぇ」
穆玄は鼻で笑い、そっぽを向く。
采麒は苦笑し、少し黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……それは穆玄が強すぎるんだよ……」
風が吹き抜ける。
どちらからともなく言葉を切らし、しばしの静寂が流れた。
やがて、采麒がぽつりと問う。
「ねぇ穆玄。どうして俺を助けて、使令にまでなってくれたの?」
穆玄はその問いに答えず、しばし黙した。
――穆玄。その名を持つ存在は、黄海において最も古く、最も恐れられる妖魔のひとつであった。
その正体は、かつて人の国にも語り継がれた伝説の妖魔、饕餮(とうてつ)。
無限の飢えを持ち、あらゆるものを喰らうとされた存在であり、その名を知る者にとっては、調伏などほとんど不可能とされる“神獣に近い魔”である。
だが、今その饕餮は、一頭の麒麟の傍にいる。
采麒が調伏の瞬間に“感じ取った”名――穆玄。
いまや饕餮はその名を持ち、采麒の“使令”として傍にある。
その理由を問われた穆玄は、目を細めて、わずかに空を見上げた。
「……暇つぶしだ」
その言葉の裏に隠されたものは、今はまだ、采麒自身すら気づいていなかった。
穆玄の思考は、十年前へと遡っていく――。
***
十年前。
黄海の奥地、濃い瘴気と沈黙に包まれた岩窟の底で、穆玄は眠っていた。
飢えてもおらず、狩る理由もない。生きることさえ退屈な、倦みの中の眠り。
──だがその日、静寂は破られた。
空気が捻れ、重い瘴気がわずかに波立つ。
不自然な気の流れが岩窟を貫き、穆玄は目を開いた。
「……ん?」
その瞬間、渦巻く紅い光が目の前に現れた。
光の中から転がり出たのは、幼い人の子。
だが、ただの人ではない。妙な気配がある。
その傍らには、もう一つの気配――女怪がいた。
現れたと同時に、女怪は鋭く穆玄を睨みつけ、敵意を向けた。
ふん。
穆玄は軽く鼻を鳴らし、無造作に爪を一閃させた。
次の瞬間、女怪は音もなく血飛沫となり、地に散った。
その赤に染まった幼い子どもが、短く息を呑む間もなく、がくりと倒れ込む。
小さな身体から放たれる気配に、穆玄は目を細めた。
「……麒麟、か。……しかも赤いとはな」
未成熟の気配。幼い、弱い、しかし内に芯のような光を秘めている。
そしてその毛並みは、まぎれもなく紅――この世界でも極めて珍しい存在。
穆玄はその姿を見下ろし、ほんの少し首を傾げた。
「……食うには、惜しいか」
珍しいと思った。それだけだった。
血の匂いが濃くこびりつき、普通の麒麟なら気を失うどころか、瘴気にやられてもおかしくない。
けれど、この子は倒れたまま、規則正しく呼吸していた。
「染みついてやがるな、血の匂いが……向こうで、よっぽどの目に遭ってきたか」
穆玄は気を引かれたように少年を抱え上げ、岩窟の奥の湧き水の池へと運んだ。
腕の中は軽く、柔らかい。麒麟というより、まだ“雛”だ。
湖水に身体を沈め、血と泥を洗い流す。
「……こいつが麒麟、なぁ」
誰に言うでもなく、独りごちる。
異質で、不出来で、それでもこの瘴気の海を平然と越えてきた異端。
穆玄は水から引き上げた少年を、岩窟の瘴気の薄い一角へと運び、そっと横たえた。
「……どうするかは、こいつが目を覚ましてからでもいいだろう」
饕餮は、岩棚に横たわったまま、再び目を閉じた。
それが、全ての始まりだった。
ーーー
采麒が蓬山に帰還したのは、陽が高く昇った昼下がりだった。
麒麟の姿で空から舞い戻った彼を、綠花は上掛けを抱えて庭先で待っていた。朝、いつものように「ちょっと黄海に行ってくるね」と軽く言い残した采麒が、数時間後に何事もなかったかのように戻ってきたのを見つけたのだ。
「おかえりなさいませ、采麒」
そう声をかけながら、彼の転変を静かに待つ。紅の麒麟が光をまとい、姿を変える。現れたのは、艶やかな赤い髪を腰まで流した、まだ少年の面影を残す美しい青年だった。深紅の瞳がこちらを見つめると、綠花はそっと上掛けをその肩にかける。
「今日は、何か収穫がありましたか?」
采麒は、くすりと笑って「逃げられちゃったよ」と軽く言ったあと、あくびを一つこぼしながら「少し休んでくるね」と寝所へ向かった。
その背を見送りながら、綠花は胸の奥に残る小さなざわめきを押し込める。心配はある。でも、彼の自由を尊重したい。そう決めたばかりだった。
***
夜になっても、蓬山は穏やかな静寂に包まれていた。
寝所の格子窓越しに、淡い月明かりが差し込んでいる。采麒は床の縁に腰を下ろし、静かに空を見上げていた。その表情は、昼間と変わらず穏やかで、どこか遠くを見つめているようにも思える。
そっと扉が開き、綠花が湯気の立つ茶碗を盆に乗せて現れる。
「采麒、眠れないようでしたら、お茶でもいかがですか?」
「ありがとう、綠花」
采麒が微笑み、綠花は盆をそっと卓に置いて彼の隣に膝をついた。穆玄は部屋の隅の寝台に姿を見せたまま、動かず静かに横になっている。采麒と綠花のやり取りに口を挟むこともなく、ただその瞳だけがこちらを見ていた。
采麒は茶を一口含むと、小さく吐息をこぼす。
「……もうすぐ、秋分だね。令坤門が開く時期だ」
綠花は頷く。「はい。昇山する者たちの受け入れ準備も、順調に進んでおります」
采麒は茶碗を眺めたまま、ふっと笑う。
「俺が昇山する者を迎えるのは、今回が初めてなんだよね。……ちゃんと見極められるかな」
その言葉に、綠花はそっと顔を伏せた。そして、迷うように唇を開く。
「……采麒は、王を選ぶことに、不安はありませんか?」
采麒は少しだけ首を傾げる。
「麒麟は、王を選ぶために生まれてくる生き物だしね。選ばなきゃいけないとは思ってるよ」
綠花は、そっと息をのむようにして、言葉を続けた。
「……けれど、それは、采麒にとって……重たすぎることではありませんか?」
采麒は一瞬、目を伏せた。
それは否定とも肯定ともつかない、曖昧な沈黙だった。
「……どうだろうね」
采麒は少し視線を落とし、茶器の縁をなぞった。
「あんまりよく分かんないや。きっと、まだ誰のことも“王だ”って思えないからかな」
静かに夜風が吹き抜ける。采麒の赤い髪がさらりと揺れた。
綠花は、彼の横顔を見つめながら、もう一度そっと決意を新たにする。この子は、いつも笑っている。何もかも分かったような顔で、軽やかに見えるけれど――その心の奥には、誰も踏み込ませようとしない何かがある気がして。
だからこそ、自分は、少しでもその近くにいようと思う。
采麒の静かな時間を、ほんの少しでも支えられるように。
「……お茶、おかわりをお持ちしましょうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう、綠花」
その笑顔に、綠花もまたそっと微笑みを返した。