紅衣の麒麟   作:にわか

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第三章

 

 

 

怜坤門が開かれる日――

空は高く澄みわたり、秋の陽射しが蓬山を柔らかく照らしていた。

年に四度だけ開かれる蓬山への門が今、静かにその口を開く。蓬山の裾野から、昇山者たちがひとり、またひとりと、ゆっくりと山の中へ足を踏み入れていった。

 

絹衣に身を包んだ男女。老いも若きも混ざったその一団は、それぞれに思いを胸に、この地を目指してきたのだ。

その背に、ささやかな期待と、切なる願いを背負って――。

 

やがて、一通りの昇山者が門を通り終えた頃、清次が数人の女官を伴って甫渡宮の広場に姿を現した。

 

彼が身にまとっていたのは、漆黒の衣。十二国において吉事を示す最も神聖な色であり、晴れの儀式に相応しい正装だった。装飾は一切なく、ただその佇まいだけで、神聖さと威厳を纏っていた。

 

その髪と瞳には、深い紅の色が宿っていた。陽の光を受ければ、それはまるで火のようにも見える。

清次が一歩踏み出すたびに、その場の空気がわずかに張り詰めていく。

 

「……あれが麒麟、なのか?」

「赤い髪……いや、あれは……」

「まさか、噂に聞く才国の麒麟……?」

 

疑念と戸惑いが、昇山者たちの間を走る。声には出さずとも、不安や警戒の視線が清次へと注がれていた。

 

才麒は、それらすべてを静かに受け止めていた。驚き、訝しむ視線も、怯えを含んだ沈黙も。彼はそれに動じることなく、穏やかな笑みを浮かべたまま立っていた。

 

女仙たちを率いていた陽華が一歩前に出て、昇山者たちを一瞥し、静かに告げる。

 

「蓬山公の御前です。どうか、お静かにお進みください」

 

その一言に、ざわめきはすっと引いていった。

 

やがて、儀式の場へと導かれ、清次は御簾の垂れた部屋の中、奥の座に腰を下ろす。

傍らには綠花が控えていた。その手は無意識に衣の裾を握っており、緊張しているのが傍目にもわかるほどだった。

 

部屋の内には沈香の香が静かに立ちこめている。

御簾の中では、ひとり、またひとりと焼香をあげる昇山者の気配が伝わってきた。御簾越しに揺らめく影が、微かな光とともに現れては消えていく。

 

清次はそのすべてを、静かに見つめていた。

焼香の所作、姿勢、佇まい――それらの奥にある、王たる気配を探して、黙して見据えていた。

 

綠花の耳に、御簾の中で交わされる女仙たちのささやき声が届いてくる。

 

「今の男、少し顔は良かったけど、礼がなってなかったわ」

「香の焚き方も手付きが雑だったもの」

「背筋が伸びてない。ああいうのは絶対だめよ」

 

清次の表情は崩れなかった。けれど綠花は、すぐ傍にいて、ふとその目元がわずかに緩んだのを見逃さなかった。

 

と、そのとき――

 

御簾の向こうから小さなざわめきが起こる。

ひとりの昇山者が焼香を終えたとき、控えていた女仙たちの中から小さな歓声が漏れた。

 

「まあ……」

 

女官のひとりが御簾の向こうを仰ぎ見る。綠花もつられて目をやると、列の中に見覚えのある顔があった。

 

彼女はそっと清次に身を寄せ、耳打ちする。

 

「才国の元軍使、凌成(りょうせい)様です……。仮朝の重鎮でいらっしゃった方です。」

 

才麒は短く頷き、焼香を上げるその人物を見つめた。

 

「……王気は……?」と小さく問う綠花に、清次は首を横に振った。

 

「見えない」

 

静かで、揺るぎない声に、綠花は少しだけ表情を曇らせた。

 

その後も、次々と人が香を焚いていく。中には仮朝の仙官と思しき者もいたが、清次の瞳が揺れることはなかった。

 

日が傾き、やがて儀式は終わりを迎える。

すだれ越しに見る昇山者たちの顔はどこか疲れ、そして期待と不安を混ぜたまま揺れていた。

 

だが、清次はその日、王気を持つ者を見いだすことはできなかった。

 

清次は静かに目を伏せた。唇には、微かな笑みを残したまま。

 

その横顔に宿る影に、綠花は気づいていた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

怜坤門が開かれてから、数日が経った。

 

夜の蓬山には、昼とは異なる静けさが満ちていた。虫の声がさざ波のように続き、天幕の灯がぽつぽつと闇の中に浮かんでいる。

 

清次は、ひとり歩いていた。

女官には何も告げず、衣の裾を静かに翻しながら、昇山者たちの天幕の並ぶ方角へと向かう。

 

――理由はただ、気になったからだ。

 

昇山者たちは、どんな顔で夜を過ごしているのか。どんな想いを胸に抱いて、蓬山を目指してきたのか。それを、自分の目で確かめてみたかった。

 

天幕と天幕の間を縫って進むと、広間のあたりからにぎやかな声が聞こえてきた。

小さな宴でも開かれているのか、夜風にほのかに酒の香が混じっている。

 

「ははっ、で、香炉を落としかけたって?」

「やめてくれ、思い出すだけで冷や汗が……!」

 

笑い声が混じるその場には、囲炉裏のまわりに湯気の立つ茶碗と簡素な肴が並べられ、誰かが拙い調子で笛を吹いていた。旋律はとぎれとぎれだったが、どこか祭の残り香のような、温かな空気が漂っていた。

 

清次は、幕の影に身を寄せ、気配を殺してその様子を眺める。

そのとき、不意に、ひときわ大きな声が広間を打った。

 

「……何が『中日までご無事に』だ。俺が王に相応しくない? ――は、笑わせるな」

 

鋭く響いたその声には、怒気と苛立ちが混じっていた。けれど、その奥に微かに滲んでいたのは、焦りだった。

 

「……やめておけ」

 

静かな声が制止する。

落ち着いた声音だったが、その言葉には確かな意志が宿っていた。

 

「やめないさ。あの赤い麒麟――あれが才の麒麟? 髪も目も紅くて、まるで妖の化け物だ。俺には、到底信じられん」

 

「口を慎め。あの方は、玄君に迎えられた正統な麒麟だ」

 

「だが、話を聞く限り、蓬山で育ったわけでもない。黄海で――妖魔に育てられたとか、そんな話まである。そんな者に、王が選べるというのか?」

 

「それ以上は言うな。……王を求めてこの山に来たのなら、まずは己の言葉を律することだ」

 

「…………ふん」

 

清次は、そのすべてを幕の陰から聞いていた。

 

――赤い麒麟。胎果。黄海育ち。

 

どれも事実だった。だが、それらを正面から疑い、否定する声を聞いたのは、初めてだった。

 

胸の奥に、冷たい何かが広がっていく。怒りでも、悲しみでもない。ただ、氷のように静かな感情だった。

 

清次は小さく息を吐き、音もなくその場を後にした。

 

風の抜ける回廊を通り、自室へと戻る。その背には、いつの間にか冷気のようなものがまとわりついていた。

 

部屋には、穆玄がいた。

いつもと変わらず、寝台に身体を投げ出して天井を仰いでいる。

 

「……どうした」

 

気配を察したのか、低い声が落ちてくる。

 

「昇山者の話が気になるのか?」

 

清次は、首を横に振った。

 

「……ううん。そんなことじゃない。ただ――」

 

ふと窓の外に視線を向ける。夜空には、静かな銀の月が滲むように浮かんでいた。

 

「……少しだけ。昔のことを思い出してただけ」

 

穆玄はそれ以上何も言わなかった。

 

部屋には、月光だけが静かに差し込んでいる。

 

清次はその光を見つめながら、ひとつ息を吐いた。

 

――思い出す。

あの、火と血と煙に包まれた日々を。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 蓬莱にいた頃のことは、いつも霧の中のように思い出される。

 

 名前は――清次(きよつぐ)。自分で名乗ったわけじゃない。ただ、あの子たちがそう呼んだから、俺も自然とそう思っていた。年はわからない。ただ、あの頃、年下の子に「兄ちゃん」って呼ばれていた気がするから、きっと少しだけ上だったんだろう。

 

 美濃の外れ、小さな村のさらに外れ。焼け残った寺の一角を寝床にして、俺たちは暮らしていた。

 みんな、戦で家を失った孤児だった。親の顔も、家の中も、誰ももう覚えてなかった。

 

 寒さに震える夜。腹の虫が鳴る日。

 けど、それでも何とか生きていた。

 

 火を起こせる子がいた。字が読める子もいた。薬草を見分けられる子もいて、傷を手当てしてくれた。

 食べ物を見つけたときは、一番小さな子に多めに渡した。

 俺は、泣いている子がいれば抱きしめて、叱られた子の背を撫でた。

 

 何もできないくせに、みんなの前では強くいなきゃって、いつも思ってた。

 

「きよつぐ兄ちゃん、おれ今日、野いちご見つけた!」

「すごいな。みんなで分けよう。ほら、まずは小さい順にね」

 

 そんなやりとりが、日常だった。

 飢えていたけど、誰かが笑えば、皆もつられて笑った。そんな暮らしだった。

 

 ――あの日までは。

 

 空が焼けていた。

 遠くに見えたのは、槍と鎧。村を通った兵の一団が、次の瞬間には火を放ち、叫びが上がった。

 

 俺たちは逃げた。

 手をつないで、叫びながら、林の中へ駆けた。

 

 けど、追っては来た。

 あれは、武士でも農民でもない――人の形をした、獣だった。

 剣を手に、火を背負って、笑っていた。

 

 俺は、一番小さな子――たぶん、三つくらいの女の子を庇って、藪の影に押しやった。

 

「ここにいろ。絶対、声を出すな。俺が引きつけるから、他の子と一緒に逃げろ」

 

 自分でも、何を言ってるのかわからなかった。けど、体が動いた。

 賊の前に飛び出し、大声をあげて駆け回った。

 

 ――その背後で、子供たちが殺された。

 

 俺が囮になったのに。

 別の方向から、もう一人が回り込んでいた。

 藪が踏み鳴らされ、子供たちの叫びが響いた。

 

「……やめろ!!」

 

 叫んだ声が、喉の奥で震えた。

 振り返った視界の中で、ひとりの子が――俺がいつも手を引いていた、あの子が、剣の下に崩れ落ちた。

 

 その瞬間だった。

 

 風が巻いた。

 空がひび割れるような音がした。

 光が地面を飲み込み、俺の周囲の世界が弾け飛んだ。

 

 眩しさと風と、耳鳴り。

 

 そして――血の匂い。

 

 目の前には、白い背中があった。

 長い髪が風に揺れている。細い肩。小さな背丈。女のようにも見えるけれど、はっきりとは分からなかった。

 

 その背中が、俺を庇うように立っていた。

 

 けれど――

 

 その姿が、ゆっくりと血に染まっていく。

 

 まるで、先程目の前で倒れた子が、もう一度そこに立っていたみたいだった。

 

 光がすべてを呑み込む直前、俺は、ただその背を見つめていた。

 あの子の名を、心の中で叫んでいた。

 

 何も守れなかった。

守りたかったものは、すべてあの血の中に消えていった。

 

 

***

 

 

風は凪いでいるはずなのに、空気はじっとりと重い。

どこか――現実じゃない場所にいる気がした。

 

冷たい岩肌に背を預けたまま、ぼんやりと目を開ける。

視界は暗く、頭も鈍く痛む。身体の節々が軋み、腕や膝には擦り傷が残っていた。乾いた血の匂いが鼻をかすめる。

 

見慣れない天井。天井というより、岩の裏側のような……。

天井も壁も、ごつごつした石に囲まれていた。うっすらと苔が生えているようで、どこからか湿気を含んだ風が流れてくる。

 

奥の方に、微かな光が差し込んでいた。

外から射す光が洞窟の壁をかすめて、うっすらと輪郭を照らし出している。灰色の闇の中に、その輪郭だけが浮かんでいた。

 

ふと、気配を感じて目を向ける。

奥の影の中に、黒い塊のようなものがある。

 

最初は岩かと思った。けれど、よく目を凝らすと、それは動いていた。

大きな、獣のようなもの。まるで黒い霧をまとったかのように輪郭が不明瞭で、けれど確かにそこにいる。

 

――獣?

 

あの大きさ、人間どころか牛や馬よりもずっとでかい。

息づかいは静かで、しかしその身体は不気味なほど緊張感をはらんでいる。なにかを監視しているような、潜んでいるような、そんな気配。

 

目が合った。

金の瞳が、暗闇の中で鋭く光っていた。冷たく、底が読めない。

その光は、俺を見ていた。まるで、何者なのかを見定めるように。

 

身体をゆっくりと起こす。石が冷たい。

かすれた声が喉の奥から漏れる。

 

「……ここ、君の住処?」

 

獣は応えない。わずかにまぶたが動いたような気がしたが、それだけだった。

 

「俺、ずっとここにいたのか?」

 

問いかけは闇に溶けた。沈黙が返ってくるだけで、声すら返ってこない。

 

しばらく目を伏せて、そっと口元をゆるめる。

「……助けてくれて、ありがとう」

 

黒い獣はやはり何も言わなかった。

だがその静けさが、不思議と怖くなかった。

 

もう一度、岩に背を預ける。

まだ身体が重い。まぶたも熱を帯びていて、思考も朧げだった。

 

それでも、あの光景は忘れられなかった。

火に包まれた村。泣き叫ぶ子供たち。仲間の声。

そして――真っ赤な世界の中で、あの子が目の前で、倒れる。

 

……夢じゃなければ、あれは……全部……。

 

視界が滲んでいく。思考が、ゆっくりと遠のいていく。

 

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

時間の感覚は曖昧だった。

ここには朝も夜もなく、差し込む光の強さだけが、移ろう時間をかろうじて教えてくれる。

 

風はあまり吹かず、空気はしんと静まっていた。奥の壁から湧き出す水が、小さな窪みに溜まり、澄んだ音を立てて流れている。その音が、眠りと覚醒の境をやわらかく区切っていた。

 

黒い獣は、言葉を発することはなかった。

 

それでも、日がひとつ巡るたびに、入り口のそばには何かしらの食べ物が置かれていた。まだ熟していない木の実や、知らない形の果実――それが、岩の上にぽつりと残されている。

 

「……ありがとう」

 

そう言うと、奥の影に伏している獣がわずかに耳を動かす。けれど、それだけで、返事はない。

 

それでもいいと思った。

 

声に応えてほしいわけじゃなかった。

言葉をかけることで、自分がここにいるという確かな輪郭を保っていたかった。それだけだ。

 

ときおり、独り言のように話しかけても、黒い獣は目を開けることもなく、眠るように呼吸を繰り返していた。怒っているわけでも、無視しているわけでもない。そんなふうには、感じなかった。

 

体は少しずつ動くようになってきた。

 

最初は、座るのもやっとだった。腕に力が入らず、水を掬うだけで疲れてしまった。

けれど数日もすれば、自分で歩いて水を飲みに行き、果物の皮を剥く余裕も出てきた。

腹が減ることを意識したとき、ようやく“生き延びた”という実感がわずかに芽生えた。

 

洞窟の外へ出ようとは思わなかった。

 

怖かったわけじゃない。けれど、妙に、外の空気は違っていた。

重いようで、乾いたようで、何かが潜んでいるような気がする。

そこに足を踏み出したら、二度と戻れないような、そんな感覚があった。

 

それに――この場所は、違っていた。

外とは何かが違う。空気の密度も、音の届き方も、すべてがやわらかく、静かだった。

 

守られている――そんな気がした。

 

あの獣がここにいるからだろうか。

それとも、もっと別の何かが、この場所に結界のように満ちているのか。

 

まだよく分からなかった。

けれど、外の世界と何かが違うことだけは、肌で感じていた。

 

「……君が、ここにいるからかもな」

 

そうつぶやくと、奥の影で黒い獣が鼻を鳴らしたように見えた。

それが応えだったのか、ただの呼吸だったのかは分からない。

 

それでも、悪くなかった。

 

言葉のない静けさも、知らない果実の味も、やがて日々の一部になっていった。

少しずつ、眠れる時間が長くなり、目覚めてもすぐには涙が出なくなった。

 

――それでも。

 

胸の底に沈んでいるものは、消えなかった。

 

焼け落ちた村の匂いも、最後に見たあの子の目も、今も離れてくれない。

忘れようとは思っていない。忘れてはいけないとも思っている。

 

けれどそれを、ここにいるこの獣に語るつもりはなかった。

 

彼は俺を助けてくれた。命を繋いでくれた。

けれど、あの痛みは、彼のせいじゃない。

 

――だから見せない。

 

この静かな空間に、悲しみを持ち込むことだけはしたくなかった。

 

もうしばらく、ここにいてもいい。

 

そう思えることが、せめてもの救いだった。

 

 

***

 

 

気がつけば、歩くのも苦ではなくなっていた。

 

洞窟の奥で目を開けたまま眠る黒い獣の傍を、そっと通り過ぎる。

その足取りに、もうよろめきはない。

 

岩肌を踏みながら、ひんやりとした空気を抜けて、洞窟の入り口へと向かう。

壁を照らしていた光が次第に強くなっていき、出口が近いのだと知れた。

 

獣は、動かなかった。

 

けれどその耳が、ほんのわずかにぴくりと動いたのを、俺は見逃さなかった。

目は閉じたまま。呼吸は変わらない。

 

……眠っているふりをしているのだと、何となく分かった。

 

俺は、背を向けたまま歩き続けた。

 

陽の差す出口がすぐそこにある。もう、ここから出られる。

この場所の外に、何があるのかは分からない。でも、それでも。

 

「……ここまで、本当にありがとう」

 

足を止めずに言った。

 

「君がいてくれて、助かったよ。俺、行くね」

 

振り返ることはなかった。

黒い獣の気配が遠ざかっていく中で、返事は、やはりなかった。

 

それでも、その沈黙が――どこか、温かいものに思えた。

 

冷たい光の中へ、一歩、踏み出す。

 

空気が変わった。世界が、また一つ、違う色に染まりはじめていた。

 

森は、静かだった。

 

冷えた空気が葉のあいだから射し込み、足元にまだらな光を落としている。

どこか現実味のない匂い――草と土、そして、少しだけ金属のような味が混ざっていた。

 

どこまで歩いたかは分からない。

とにかく前へと進んでいた。目的もなく、ただ、歩いてみたかった。

洞窟の外の世界がどうなっているのか、知りたかった。

 

そのときだった。

 

ふと、目の前の木立がざわめき、黒い影がぬうっと現れた。

四肢を地につけたまま、静かに進み出る黒い獣。

あの洞窟にいたはずだった。

 

俺は、思わず目を見開いた。

 

「……えっ、追いかけてきたの?」

 

驚き混じりの声が漏れる。

まさか、ついてくるとは思っていなかった。

 

黒い獣は何も言わない。

ただ、金の瞳でじっと清次を見つめ、低く問いかける。

 

「――どこへ行く」

 

その声は、思っていたよりも低く、太かった。

不思議と怒気はない。ただ、感情を伏せたままの声音だった。

 

「……分からない。ただ、外に出てみたかっただけだよ」

 

清次は肩をすくめるようにして答える。

嘘ではない。本当に、ただ出てみたかったのだ。

 

穆玄はしばらく何も言わず、そしてふっと鼻を鳴らす。

 

「――その姿で行くのか」

 

清次は、一瞬きょとんとした。

自分の手を見下ろす。泥がついていて、擦り傷もある。けれど、それが何か?

 

「……姿?」

 

黒い獣は、あからさまに呆れた目を向けてきた。

 

「転変も知らねぇのか。麒麟ってのは、獣の姿に変えられるだろ」

 

「……えっ」

 

「お前、まさか――何も知らねぇのか?」

 

その言い方には、少しだけ苛立ちが混じっていた。

けれど、それは怒りというより、呆れと……どこか諦めに似たものだった。

 

「…………ごめん。知らない。麒麟、って……」

 

「ったく……」

 

黒い獣は頭を振り、ひときわ深いため息をついた。

 

「……転変もできねぇ奴が、こんなとこ歩くな。死にたいのか」

 

「…………」

 

「転変できるようになるまで、洞窟にいろ。最低限のことは教えてやる」

 

清次は、しばらく黒い獣を見つめた。

それから、ふっと口元を緩める。

 

「……ありがとう。お願い」

 

黒い獣は何も言わず、くるりと踵を返す。

その背に、言葉はなかった。

 

もまた、黙ってその後ろを歩き出した。

 

まだ名前のない“つながり”が、確かにそこに芽生えはじめていた。

 

 

洞窟に戻った黒い獣は、清次の傍に無言で腰を下ろした。

 

清次はしばらく黙っていたが、やがて少し遠慮がちに口を開いた。

 

「……ねえ、転変って、どうやるの?」

 

黒い獣はちらりと俺に目を向けたが、すぐに面倒くさそうに視線を逸らした。

 

「麒麟がどうやって転変してるのかは知らねぇが、姿を変えるのならだいたい俺のと同じだろ。俺は自分の芯を動かしてるだけだ」

 

「芯……?」

 

「ああ。姿を変えるのに意識したことなんざないが、妖気の中心を動かしてるような気がするな」

 

そう言うと、黒い獣の身体がわずかに波打った。

 

皮膚の下で骨がきしみ、筋肉が軋む。黒い毛がざわりと逆立ち、手足が伸び――瞬きひとつの間に、異形の獣の姿へと変わっていた。

 

その姿は、馬に似ていた。だが、体はよりしなやかで重々しく、額には鋭くねじれた一本角が生えている。漆黒の体躯が闇の中に溶け込みそうなほど静かだった。

 

「だいたい、麒麟ってのはこんな感じの姿だろ。……見て覚えろ」

 

声も低くくぐもっていたが、やはり黒い獣のものだった。

 

すぐに黒い獣は元の姿に戻り、ふう、と軽く息を吐いた。

 

「麒麟には角がある。そこが力の中心だ。額に意識を集めてみろ。……あとは知らねえ、自分でどうにかしろ」

 

それだけ言うと、黒い獣は洞窟の奥へと歩き、気配を閉ざした。

 

俺は少しだけ躊躇いながら、そっと額に手を当ててみた。

 

“角”――確かにそこには、何かがある気がした。皮膚の奥に、芯のような、光のような、言葉にできない感覚が、かすかに残っている。

 

呼吸を整え、目を閉じ、黒い獣の言葉を思い出しながら意識を深く沈める。

 

だが――何も起きなかった。

 

体は微動だにせず、霧の向こうに何かがぼんやりと見えている気配だけが残る。もう一度。三度、四度。繰り返しても、やはり結果は同じだった。

 

「……できない、か……」

 

ぽつりとつぶやいても、返事はなかった。けれど、奥で身じろぎする気配が一つ、微かに響いた。

 

清次は小さく笑って、岩に背を預ける。

 

「……ま、すぐにできるとは思ってなかったけど」

 

その言葉も、誰に向けたのか分からないまま、闇の中に消えた。

 

だがその直後、洞窟の奥から低い声が響いた。

 

「転変できねぇまま外に出たら……妖魔に遭った時、逃げられねぇぞ。喰われて終わりだ」

 

その一言に、俺は自然と背筋を伸ばした。

 

黒い獣は、それ以上何も言わなかった。

 

 

***

 

 

転変の練習を始めて、幾日が経った。

 

額の奥に意識を沈めることは少しずつできるようになってきた気がする。けれど、そこから先に何かが“変わる”感覚は、一向に訪れなかった。見えない扉の前で、ずっと立ち尽くしているような気分だった。

 

洞窟の静けさは嫌いではなかったが、同じ光と同じ石壁ばかりの空間に、少し息が詰まってきた頃――黒い獣が洞窟の入口に向かって歩き出した。

 

「……ねえ、」

 

呼びかけると、その黒い背は止まることなく歩き続ける。

 

「今日、外に出るんだよね。……俺も、一緒に行っていい?」

 

無言のまま、黒い獣は足を止めた。沈黙の中に、僅かに苛立ちのような気配が漂う。

 

「……俺は、お前を助けねぇぞ」

 

「うん、大丈夫。分かってる」

 

清次は静かに頷いた。

 

「何時までも君にご飯を用意してもらうのも悪いし。……それに、君のそばなら安全そうだしね」

 

穆玄は振り返らずに、低くひとこと返す。

 

「……勝手にしろ」

 

それだけ言うと、また歩き出した。

 

清次は少し遅れてそのあとをついていく。光に目が慣れるまで、外の景色は白く霞んで見えた。

 

穆玄の歩みは大きく、しっかりとしたものだった。けれど不思議と、その背が遠ざかることはない。一定の距離を保ちながら、彼はゆっくりと森の中を進んでいく。

 

(……置いていかないように歩いてくれてるのかな)

 

清次はふとそんなことを思った。黒い獣は決して振り返らないけれど、その歩幅は自分の歩みにぴたりと合っていた。

 

風が吹き、木々が揺れる音がする。初めて訪れるこの世界の外の景色の中で、清次はただ黙ってその背を追いかけた。

 

こうして、黒い獣と共に外へ出る日が、少しずつ増えていった。

 

黒い獣は何も言わない。けれど、ついてくる清次を拒むこともなかった。

 

その背中は、ただ静かに、前へと歩いていた。

 

 

***

 

 

ある日、いつものように黒い獣のあとを歩いていた時だった。

 

湿った風のにおいが変わったと感じた刹那、森の影からひとつの影が跳ねた。鋭い爪と赤い目。恐れを知らない妖魔が、清次に向かって飛びかかってくる。

 

「ッ――」

 

咄嗟に身を引こうとしたが、身体が間に合わなかった。

 

その瞬間、黒い影が風を裂いて走り抜けた。

 

バリッと肉が裂ける音と、血の臭いが辺りを満たす。穆玄だった。一撃だった。清次に襲いかかってきた妖魔の身体は引き裂かれ、地面に倒れる。

 

返り血が、清次の頬にかかった。

 

ぶわりと広がる鉄の臭い。思考が凍る。足元がぐらついた。

 

それでも、清次はなんとか立っていた。

 

「……ありがとう」

 

黒い獣は清次の方をじっと見た。言葉は返さず、ただ数秒だけ目を合わせて、やがて無言で背を向けた。

 

「帰るぞ」

 

その背はいつも通りだった。だが、その歩幅はややゆっくりで――清次はただその背を追い、何も言わず歩き出した。

 

 

***

 

 

その夜、夢を見た。

 

あの村の夢だった。焼け焦げた木々、倒れた仲間。手を引いていた小さな子の体温。泣き声。赤く染まった空。

 

「……ッ」

 

目が覚めた。口元が乾いていた。呼吸が浅い。

 

洞窟の中は静かで、ほんのわずかに冷たい空気が流れていた。

 

昼間、あの妖魔に襲われたあと、洞窟に戻ってそのまま気を失っていたことを思い出す。

 

けれど、清次の体からは血の匂いがしなかった。返り血を浴びたはずなのに、服も肌もきれいだった。

 

──彼が、洗ってくれたんだろう。

 

目を横に向けると、黒い獣がいつもの場所に横たわっていた。耳が、ぴくりと動く。

 

きっと、起きてる。

 

「……ありがとう」

 

小さくそう呟いた。声にするのが、なぜかこの夜は少しだけ怖かった。

 

それでも、言葉は届いているような気がした。

 

そして清次は、再び眠りに落ちた。

 

翌朝。

 

目覚めた清次を見て、黒い獣は言った。

 

「調伏の仕方を教えてやる。お前、使令の一匹くらい作れ」

 

「え?」

 

「昨日はたまたま俺が狩った。だが、いちいちお前を守ってやるつもりはねぇ。ただ、お前が死んだら、蓬山の連中がうるせぇからな」

 

「蓬山……?」

 

「麒麟が本来育つ場所だ」

 

「……そっか」

 

黒い獣はそれ以上何も言わず、洞窟の外を一瞥して歩き出した。

 

 

***

 

 

その日から、清次は転変と調伏の練習を始めた。

 

最初のうちは全くうまくいかず、調伏に失敗しては襲われた。そのたびに黒い獣が現れ、清次を助けてくれた。

 

妖魔の血、腐臭、叫び――それらが少しずつ、清次の感覚を鈍らせていった。

 

不思議なことに、怖いとは思わなかった。

 

黒い獣がいたから。あの背が、清次の前に立ちはだかることを、知っていたから。

 

ある日、別の妖魔に襲われかけたとき、清次は咄嗟に走って逃げた。

 

心臓の音がうるさいほど鳴っていた。額が熱かった。

 

気づけば、空を駆けていた。

 

目の前には、寝泊まりしている洞窟があった。

 

「……転変、できた」

 

額の熱が残る中、清次はそのまま洞窟へと翔けて戻った。

 

 

***

 

 

それからも、洞窟を出ていこうとは思わなかった。

 

黒い獣は何も言わなかった。清次の選択に、反対も肯定もしない。

 

ただ、朝になれば隣にいて、夜になれば同じ場所で眠る。

 

それだけで、今の清次には充分だった。

 

 

***

 

 

それから、いくつ季節が巡っただろう。

 

この世界に来てから、もう十年が経った。

 

最初の頃は、妖魔の気配に怯え、見つかれば必死に逃げていた。調伏の練習中に襲われて、黒い獣に助けられることも少なくなかった。

 

だが今では、妖魔の方が俺の姿を見ると逃げるようになった。調伏しようと近づいても、さっと身を引いて去っていく。

 

(……俺の気配が変わったんだろうか)

 

黒い獣は「ただ逃げられてるだけだ」と言ったけれど、それでも何かが変わってきているのは、自分でも感じていた。

 

この日も、いつもと変わらない静かな時間が流れていた。洞窟の外で黒い獣が座り込んで空を眺めている。清次もその隣に腰を下ろす。風の音だけが周囲に満ちていた。

 

しばらくの沈黙のあと、不意に黒い獣が言った。

 

「お前、そろそろ蓬山に帰らなきゃなんねぇ」

 

「……え?」

 

思わず黒い獣の横顔を見る。彼は変わらぬ顔で、空を見上げたままだった。

 

「王を選びに行け。お前の、麒麟の役目だ。」

 

「……王を選ぶ?」

 

「そうだ。麒麟は、王を選ぶために生まれた。……で、そのためには、蓬山ってとこに行かなきゃならねぇ」

 

唐突な言葉に、清次は戸惑いを隠せなかった。蓬山――知らない名前。王を選ぶという役目。全部が、別の世界の出来事のように思えた。

 

「どうして、急にそんな話を?」

 

「急じゃねぇよ。ずっと考えてた。……お前の姿が、変わらなくなってきた。もう、成獣になってるんだろう」

 

黒い獣は低く息を吐いた。

 

「麒麟ってのはな、王を選ばなきゃ三十年で死ぬって言う。……だから、そろそろ行け。俺もついてってやる」

 

「……君も?」

 

「蓬山に行くには、俺はお前の使令にならなきゃならねぇ。今までは教えてやっても調伏できなかったが……お前、最近は妖魔襲われもしねぇ。逃げられてばかりだが、それでも力はついてる」

 

「……じゃあ、今なら君を調伏できる?」

 

「ああ。たぶんな。……俺が受け入れれば出来るはずだ」

 

黒い獣は立ち上がると、じっとこちらを見下ろしてきた。

 

「やってみろ、清次。お前の一生……俺様が見届けてやるよ」

 

その言葉は、いつもと変わらない口調だった。でも、その奥にある想いを、俺清次は感じ取っていた。

 

「君を……調伏する。俺の使令になってくれる?」

 

「言っただろ。とっくにそのつもりだよ」

 

黒い獣は、わずかに口の端を上げて、笑った。

 

名前を聞いたことはなかった。

けれど、それを尋ねるよりも先に、清次は――知ることになる。

 

風が止んだ。

ただ、夜の大気だけが二人を包む。

 

清次は黙したまま、目の前の獣を見つめていた。

黒い毛並みの向こう、その奥にある何かが、わずかに揺れた気がした。

 

黒い獣が低く言う。

 

「……見せてもらうぞ。お前がどんな王を選ぶのか。」

 

清次は微かに目を細め、その言葉を静かに受けとめた。

そして、ゆっくりと右手を掲げる。掌に、気の光が灯る。

 

その声は、祈りのように、澄んでいた。

 

「臨兵闘者皆陣列前行――」

 

「天地の理に照らし、乱れし魂を正道に導く」

「神明の加護を請い、この魂、理の座に還さしむ」

「麒麟の名において、ここに調(しら)す」

「神勅明勅、天清地清。神君清君、不汚不濁。

 鬼魅降伏、陰陽和合。急急如律令。」

「穆玄――その名を、我、識る」

その名は、このとき才麒が初めて知ったものだった。

呼ぶよりも早く、魂に刻まれていた――彼の在り方とともに。

 

「願わくば、共に歩まん。魂魄、ここに鎮まれ」

 

光は激しくもなく、淡い霧のように穆玄の全身を包んだ。

彼は抵抗することなく、まなじりを伏せる。

黒い毛並みが、風もないのにそよいだように見えた。

 

その瞬間、清次の額に浮かんだ光がひときわ輝き、穆玄の首もとにも、それに呼応するような紋が現れる。

 

誰もそれを命じなかった。

ただ――互いが選び、認め合ったのだ。

 

静かな結び。

それは戦いや服従ではない。

ただ、ふたりの魂が、ひとつの理に重なった印。

 

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

夜が明ける少し前、薄明かりが窓越しに差し込む。

 

静かな部屋。穆玄は壁際に身を横たえて、まだ眠っているふりをしている。たぶん、起きている。……いつものことだ。

 

清次は座したまま、静かに瞼を閉じた。

 

……確かに、俺は麒麟としては、普通じゃない。

 

蓬莱で生まれ、黄海で育って、穆玄みたいな饕餮に面倒を見られて――蓬山の女仙たちからすれば、眉をひそめたくもなるんだろう。

 

けれど、自分の生い立ちを、誰かのせいにする気はない。

 

穆玄を見ればわかる。あの十年は、清次にとって失われた時間なんかじゃなかった。

 

王を選ぶ……それが俺の役目だっていうのなら、やる。

 

本当に俺に、それができるかは、分からない。

 

俺自身、王を必要だと信じきれているわけでもない。穆玄のように、強くて自由な存在を見てしまったからこそ、なおさらそう思う。

 

それでも。

 

あの日、焼け落ちる村で、仲間たちが命を落としていったような――あんな世界を繰り返さないために。

 

誰かが誰かを、見捨てずにいられる国を。

 

誰もが生きていていいと思える場所を。

 

そういうものを導ける王を、俺が――必ず見つけてみせる。

 

そのために俺は、蓬山に戻り、ここで王を待っている。

 

それが、才麒としての、生きる意味だから。

 

穆玄が小さく寝返りを打つ音がした。

……聞かれていた気がした。きっと、ずっと。

 

その背にそっと目を向けて、清次は静かに微笑んだ。

 

 





調伏の言葉はタグにある通りAIに書いてもらいました。AIが言うには調伏時は個性があるらしいのでそのように書いてもらったのですが、ほんとにこれで良いのか、センスが無いので悩みどころです
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