紅衣の麒麟 作:にわか
昇山の季節も、すでに半ばを過ぎていた。
蓬山の広間には、連日昇山者たちの姿があった。
清次は穆玄とともに広間を訪れ、昇山者たちを遠くから見守っていたが――今日は、ひとりでの散策を選んでいた。穆玄の気配はすぐ後ろに感じるが、影の中に溶け込んだまま姿は見えない。清次が外を歩くとか、穆玄は常にそうしていた。
清次の緋衣が、柔らかな春風に揺れた。
昇山者たちのざわめきを遠巻きに感じながら、清次は一歩、また一歩と歩を進めていた。
そんな折、ふとした気配に足を止めた。
「蓬山公。……失礼ながら、ひと言、よろしいでしょうか」
振り返ると、青灰の衣をまとった一人の男が、控えめながらも真っ直ぐな目で清次を見つめていた。
色白で細身の体。整った顔立ちに、扇を弄ぶ癖がどこか印象的だった。
「才国の元・司察大夫・鍾隠(しょういん)と申します。……本来、このような形でお声をかけるのは無礼と存じますが」
一礼しつつも、その姿勢には明らかに、話すべきことがあるという強い意志がにじんでいる。
清次は目を見開いて、その名を繰り返した。
「……鍾隠。はじめまして。蓬山までようこそ。お話があるなら、聞かせて」
静かで柔らかな声音だったが、そのまなざしには真剣な色が浮かんでいた。
鍾隠の表情がわずかに緩む。
「ありがとうございます」
清次が視線を向け直すと、鍾隠も隣に並ぶように歩を進める。わずかな距離を保ちながら、彼は口を開いた。
「……才国のことを、どれほど耳にされていますか」
清次は少し困ったように首を傾げた。
「……あまり詳しくは。女仙たちから、王がいないまま八十年近く経っているって聞いたくらい。あとは……国が荒れて、妖魔が出るようになってるって」
「ええ、まさにその通りです。そして……そのまま放置すれば、遠からず国が崩壊する可能性もある」
鍾隠の声音は落ち着いていたが、その奥に潜む焦燥は隠しきれなかった。
「仮朝という形で政を繋いではおりますが、あくまで応急処置です。各地の地方官が思い思いに振る舞い、秩序は形ばかりになりつつあります」
清次は黙って耳を傾けていた。語られる内容は重かったが、語る声は鋭く冷静で、どこか静かだった。
「……王が選ばれれば、変わるんでしょうか?」
清次の問いに、鍾隠は一瞬黙し、手元の扇を静かに閉じると、やがてゆっくりと答えた。
「それは……わかりません。だが、“選ばれた王”が必要なのです。天の理にかなう者を据えなければ、才国はもう立て直すことも出来なくなります」
「……そう、なんですね」
清次は目を伏せ、静かに頷いた。
鍾隠の言葉に、あからさまな圧力はなかった。けれど――それでも、国の重みが、そのひと言ひと言に宿っていた。
「……話してくれて、ありがとう。鍾隠殿」
「……どうか、心のどこかに留めておいてください」
鍾隠はそう言って、手の中の扇を静かに閉じた。
そしてもう一度、礼をとると、清次の前から静かに姿を消した。
清次はその背を見送りながら、胸の奥に、小さな痛みのような疑問が残った。
(……俺は、知らなければならない。今の、才国を)
背後で穆玄の気配がわずかに揺れたが、清次は何も言わず、そのまま歩き出した。
ーーー
夜が更け、蓬山の森は静まり返っていた。
寝殿の縁に腰を下ろしたまま、清次は空を仰いでいた。月は高く、雲ひとつない空に、淡い銀の光が降り注いでいる。
昼間の鍾隠の言葉が、頭の奥に残響のようにこだましていた。
王がいないまま八十年。仮朝が政を保ってはいるが、国は崩れかけている――。
(……やっぱり、知らなければならない。今の才国を)
清次は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
けれど、自分は蓬山を離れられない。王たる者が昇山してくる可能性がある限り、ここを空けるわけにはいかなかった。
「……穆玄」
呼びかけると、背後の空気がふと揺らぎ、清次のすぐ近くに穆玄の気配が滲み出た。夜の匂いをまとったまま、静かな深い青の瞳が月光を受けてきらめいていた。
「何だ」
「頼みたいことがあるんだ。……才国へ行って、今の様子を見てきてくれない?」
穆玄は眉をひそめ、口を閉ざしたまま清次を見つめ返した。
しばらくの沈黙ののち、吐き捨てるように言う。
「お前はどうすんだ。ひとりで、ここに残るのか」
「うん。今は昇山してくる人たちの中に、王がいるかもしれない。……麒麟として、俺が蓬山を離れるわけにはいかないよ」
穆玄は目を細め、わずかに顔をしかめて、小さく舌打ちした。
「……あんまり、気が進まねぇな。お前を置いて出るのは」
その声の奥にある、ほんのわずかな懸念や不安を、清次はすぐに感じ取った。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
「……ありがとう。でも、穆玄が見てきてくれたら、俺も安心できる。今の才国が、どんなふうになってるのか……ちゃんと、知りたくて」
穆玄はわずかに口元を歪め、肩をすくめた。
「ったく……面倒な奴だな。分かったよ。行ってくる」
「……うん。お願い」
穆玄はそれ以上何も言わず、静かにその場を離れていった。
影のように音もなく、蓬山の森に溶け込むように。
***
翌朝。寝殿に柔らかな朝の光が射し込み始めた頃。
綠花が控えの間を訪れると、清次はひとり机に向かって書簡を読んでいた。
「……穆玄がいませんね」
清次は書を閉じ、綠花の方を向いて少しだけ微笑んだ。
「うん、才国へ行ってもらったよ」
あまりにさらりとした言葉に、綠花はわずかに目を見開いた。
「……才国、ですか?本当に……穆玄を?」
清次は頷くと、静かに説明を始めた。
昨日、鍾隠と会ったこと。才国の現状を、思っていたより深刻に感じたこと。
そして、自分が蓬山を離れられない代わりに穆玄に視察を頼んだこと――。
綠花は、黙ってすべてを聞いていた。
やがて、ふうと小さく息を吐き、微笑を浮かべる。
「……そういうことでしたか。穆玄に頼るとは、少し意外でしたが……采麒がそうお決めになったのなら、私どもに異はありません」
「……ありがとう。綠花」
だがその後、彼女は少しだけ真顔に戻った。
「穆玄殿がいない今、黄海へは……どうかご無用になさってください」
「うん、分かってる」
頷いた清次の声は、どこかいつもよりもしっかりしていた。
ーーー
昇山者の広場には、朝から多くの者たちが集っていた。
春の風が木々を揺らし、天から光が斜めに差し込むなか、白衣や絹衣をまとった昇山者たちが、それぞれの思いを胸に、蓬山の空気を吸っている。
清次はその端を静かに歩いていた。
昨日の対話が、どうしても心に残っていた。鍾隠のあの言葉――「選ばれた王が必要なのです」――その一言が、清次の胸に小さな棘のように刺さっていた。
(もう一度、話をしてみたい)
そう思い、鍾隠の姿を探していた時だった。
「……蓬山公とお見受けする」
不意に、背後から呼びかけられた。
振り返ると、装飾の多い官衣を着た壮年の男が、わずかに顎を上げたまま立っていた。切れ長の目に鋭さを宿し、堂々とした物腰で周囲を見渡している。
「私は青州より昇山してきた、前・州守・越文翔(ちょうもんしょう)と申す」
清次は立ち止まり、静かにその視線を受け止めた。
「……ご機嫌よう。昇山の道、無事で何よりです。中日まで、どうぞご無事でお過ごし下さい」
「ッ……!蓬山公、一つお聞きいただきたい。我が青州は八十年、中央の目も届かぬまま苦しんできた。私は政に通じ、民にも慕われている。なぜ、我が身が王に選ばれぬのか」
一瞬、才清次は言葉を失ったが、すぐに穏やかな声で応じた。
「……それは、天が決めること。私には、まだその徴が見えていないだけです」
「では、天意とは、沈黙の理なのですか? 才国は滅びに瀕している。蓬山公が王を見定めぬからこそ、こうなっているのではないか」
越文翔の声が次第に強くなり、周囲の昇山者たちが不穏な気配を感じて集まり始める。
「……それでも、天が示さぬ限り、私は誰かを選ぶことはできません」
その一言が引き金になった。
「赤い麒麟なんぞに、本当の王がわかるものか!」
怒声とともに越文翔が歩み寄り、才麒の肩に手をかける。そして強引に、膝を折らせようとした。
「ならば――その体で証明せよ。我が王たる資格を!」
清次は驚きと共に身体を固くした。
力がかかる。強引に、地へと沈めようとする腕に抗いながら、清次は全身に力を込めた。
――麒麟は、王以外には膝を折らない。
その理は、清次の深層にまで染みついていた。
関節が軋む。呼吸が苦しくなる。だが、清次の膝は、地に触れなかった。
「っ……!」
歯を食いしばり、汗が額を伝う。体の奥から、何かが叫んでいる。
(この人は、違う……王じゃない)
「離して!」
清次の叫びと同時に、その腕を押し返そうとした瞬間――
周囲の昇山者が騒然とし始めた。
「何をする!」「やめろ!」「蓬山公に手をかけるなど!」
止めようと飛び込んだ者、越文翔を押し退けようとした者――混乱が広がり、誰かが誤って剣を抜いた。
銀の閃きが走る。空気が裂け、次の瞬間、鮮血が地に飛び散った。
「……あ」
清次の視線が、赤く濡れた地面に釘付けになる。
その色、その匂い。そのすべてが、かつての記憶を引きずり出す。
焼け落ちた村。倒れていた仲間たち。手の届かなかった命。
(やめろ、思い出すな――!)
視界が揺れた。鼓動が乱れ、冷たい汗が背を伝う。呼吸が浅く、喉が乾く。
意識が遠ざかっていく――そのとき。
「何事か!」
女仙たちの声が空から響き、数名が飛ぶように清次のもとへ駆け寄った。
次の瞬間、周囲が光に包まれ、術の結界が張られる。
清次の身体は、そっと支えられ、後方へと下げられた。
「采麒、しっかり……!」
「……だいじょうぶ。大丈夫……」
掠れるような声で清次は答えたが、頬からは血の気が失せていた。
胸の奥には冷たい震えが残る。
ただ、地に滲んだ赤だけが、なおも清次の視界に焼き付いて離れなかった。
(……力で人を従わせる者が、本当に王にふさわしいのか)
その問いが、重く胸に沈む。
清次は、その日を境に数日間寝殿で静養することになった。
穆玄はまだ戻らず、綠花がその傍らで静かに寄り添っていた。
ーーー
静養のために寝殿へ戻された清次は、幾日かを静かに過ごしていた。
身体に目立った外傷はなかった。けれど――精神の深いところに、何かが沈んで動かなくなっていた。
昇山者たちの中にあった、疑念や焦り。
力で屈服させようとした越文翔の手。
混乱の中でこぼれた、熱い血の匂い。
そして――自分は、何もできなかったという事実。
(……俺は、あの人たちの言葉に、何も返せなかった)
昼間の陽が落ち、寝殿に夜の静けさが満ちる頃。
清次は床の上に坐したまま、机にひろげた書簡に目を落としながら、ただページをめくっていた。
読み進めているわけではない。ただ、文字を目でなぞり、思考を留めようとしているだけだった。
ふと、隔ての扉の向こうに気配を感じた。
「……綠花?」
問いかけると、控えの間から彼女の声が返った。
「はい。今宵も少しだけ、お顔を拝見したくて」
そっと扉が開き、綠花が一歩、二歩と静かに入ってくる。
清次は机から視線を上げ、わずかに微笑んだ。
「……ごめん。心配かけてるね」
「いいえ。ただ……采麒が、少しお疲れのように見えたものですから」
綠花は几帳のそばに腰を下ろし、そっと手を膝に置いた。
「……あの時、采麒は本当にご無事で。それだけで、私たちには何よりでした」
清次は答えず、目を伏せた。
「……力で人を従わせる者が、王にふさわしいのか。そう思ったんだ」
ぽつりと漏れた独白に、綠花はそっとまぶたを伏せた。
「……難しい問いです。ただ……采麒が何を思い、どう在ろうとされているのか、私たちは見ています」
清次はその言葉に目を細めた。
何かがほんの少し、胸の奥でほどけていくような気がした。
「……ありがとう」
そう言ったその時、不意に風が揺れ、窓の格子が一瞬だけ鳴った。
気配に気づいて顔を上げると、夜の帳の中に、するりと黒い影が滑り込んできていた。
深い青の瞳が、月明かりを反射してきらめく。
「……穆玄」
清次が声を上げると、穆玄は何も言わず、部屋の隅に身を沈めた。
「お戻りになったのですね……」
綠花が静かに立ち上がる。
「今宵はこれにて、失礼いたします」
清次と穆玄の間に漂う空気を感じ取り、綠花はそう言って静かに扉を閉じた。
残された部屋には、淡い月明かりと静けさだけが満ちていた。
穆玄はしばらく何も言わず、清次を見ていた。
「……才国は、どうだった?」
清次の問いに、穆玄は短く答える。
「首都は形ばかり政を保っているが……実のところ、仮朝が辛うじて体裁を繕っているに過ぎねぇ。
地方はもう瓦解しかけてる。官吏どもが勝手に郷を囲い、自らの領土のように振る舞ってやがる」
「妖魔は?」
「出る。都の近くにもな。……門を閉じても夜になると現れる。人が喰われた跡もあった。
俺が見た限り、民は黙って耐えてる。もう諦めてんだ」
清次は言葉を失い、静かに目を伏せた。
「……そう、か……」
穆玄は黙って清次を見つめていたが、やがて低く言う。
「お前が悪いわけじゃねえ。けど、あの国はもう限界だ。
“王”が立たなきゃ、もう持たねぇ」
清次は目を開き、月の光が差す天井を見つめた。
(……やっぱり、それしかないのか)
麒麟は、王を選ぶ獣。
だが、天は何も示していない。ーそれなのに。
(本当に、俺の目に見えるのか……? “選ばれるべき者”が)
昇山者たちの顔を、清次は思い出していた。
民を思う者もいた。誠実な者もいた。
けれど――越文翔のように、己の力で国を奪おうとする者もいた。
蓬莱で生きていたころ。
力ある者がすべてを支配し、弱い者が理不尽に奪われていた。
あの時、自分には何もできなかった。ただ逃げて、目を逸らしていた。
――その時と、今と、何が違う?
昇山者の中にも、蓬莱の男たちのような者がいる。
ああして剣を抜き、人を屈服させようとする者がいる。
それを止められなかった――麒麟である自分が。
(……俺は、何をしてるんだろう)
時が過ぎるほど、国は壊れていく。
待っているだけでは、もう、間に合わないかもしれない。
それでも、選ぶべき者がいなければ、選ぶことはできない。
天意がなければ、麒麟は動けない。
だが、だからといって――
(……それでも、俺が選ばなきゃいけない。選べるのは、俺しかいないんだから)
清次は、そっと目を閉じた。
まだ答えは出せない。
だが、心の奥には確かに、小さな兆しのような何かが芽生えていた。
揺らぎ、迷い、焦がれるような痛み。
そして、それでも選ばねばならないという予感。
静けさの中で、穆玄の気配だけが変わらず、背後にあった。
***
翌朝、清次はまだ薄暗い寝殿の外を眺めていた。
穆玄から聞かされた才国の現状が、頭の中を何度も巡っていた。政の空洞、荒れる地方、妖魔の跋扈――どれも、たやすく無視できるものではなかった。
(……もう一度、鍾隠殿に話を聞いてみよう)
そう思い立ち、清次は昇山者たちの控えの間を訪れた。鍾隠の姿を探したが、すでにその姿はなかった。
女仙のひとりが静かに答える。
「鍾隠殿は、今朝方、下山されたとのことです。中日を待たず、国の政務に戻る必要があると仰っておられました」
「……そう、ですか」
清次はそれ以上何も言わず、短く頭を下げた。
庭に出ると、春の気配が風に混ざっていた。高く澄んだ空に、どこか遠くを見つめるように目を細める。
その後ろから、静かに穆玄が姿を現す。
「……いなかったのか、あの元役人」
清次は頷いた。
「うん。もう帰ったって。……でも、やっぱり、考えたい。いや、決めたいんだ」
穆玄はその言葉に目を細める。
「……何をだ?」
「王を、探しに行く」
清次の声音には、迷いがなかった。
穆玄は少しだけ目を見開いたが、やがて低く言う。
「本気か」
「うん。昇山者を待っても、天の徴は現れなかった。でも――才国の人たちは、もう限界に近い」
春の光が緋の衣を透かし、清次の横顔を淡く照らしている。
穆玄はしばらくその姿を見つめていたが、ふと視線を逸らし、吐息とともに呟く。
「……今すぐってわけじゃねぇな。まだ昇山の時期は終わってねぇ」
「うん。だから、冬至の前に出る。冬の昇山は厳しいし、来るべき人は今のうちに来てると思う。残された期間で、俺にできることをする」
穆玄はうなずき、肩を軽くすくめた。
「じゃあ、それまでに――使令を増やしておけ。お前が一人で出るなんて許さねぇが、それでも最低限、身を守るものは必要だろ」
「……わかった」
その返事に、穆玄は満足げに鼻を鳴らすと、清次の隣をすっと通り過ぎていった。
その横顔に、清次はそっと目を細める。
(……ありがとう、穆玄)
ーーー
やがて季節はゆっくりと巡り、春の昇山も終わりを迎えた。
最後の昇山者が門を下り、蓬山の裾野に静けさが戻る頃。
清次は、蓬山の広間に立っていた。
緋の衣が、朝の風にたなびく。背には、新たに調伏した数体の使令が控え、穆玄がすぐ脇に立っている。
蓬山の門の前には、見送りに集まった女官たちの姿があった。
綠花を筆頭に、日々清次に仕えてきた面々が、慎ましくも深い眼差しでその背を見つめている。
「……ご武運を。采麒」
綠花が、そっと言った。
他の女官たちも深く頭を垂れ、その声なき祈りを風に託す。
清次は彼女たちの姿を一人ひとり見つめ、静かに微笑んだ。
「ありがとう。……行ってくる」
その言葉には、もはや迷いはなかった。
ただ一つ、麒麟としての覚悟だけが、凪いだ心に深く根づいている。
穆玄が一歩前へ出て、空を仰ぐ。
「乗れ」
漆黒の縞模様を纏う雄大な体躯、鋭い牙と爪、力強い四肢。青い瞳は静かに鋭く、虎の威厳を湛えて清次を真っ直ぐ見つめていた。
清次は迷いなく、その背へと乗った。
穆玄の体温が伝わり、風がまとう気配が変わる。
「振り返るなよ。出る時は、一気に行く」
「……わかってる」
穆玄が脚をかるく蹴り出すように地を蹴ると、その身体は一瞬で宙へと舞い上がる。
重力を置き去りにするような、しなやかで力強い跳躍。
風がうねり、雲が裂ける。
清次の背の衣がはためき、蓬山の白い山並みが、徐々に遠ざかっていく。
見下ろせば、怜坤門の前で手を振る女官たちの姿があった。
その小さな影が、まるで蓬山そのものの名残のように胸に焼きつく。
けれど清次は、もう振り返らなかった。
その瞳はただ、東の空を――王を探す旅の先を見据えている。
紅衣の麒麟は、黒き獣の背に乗り、空を翔ける。
流れる雲の向こう、才国の大地へと向かって。
それは、麒麟としての旅立ちであり――
ひとりの少年が、初めて自分の足で選んだ「道」のはじまりだった。
高く、静かに開かれた空へ。
真実と王を求めて。
前回の話ですが、穆玄が使令になってないのに喋っているのは完全にご都合主義です。すみません。伝説と言われる饕餮なら話せるかな…と。
あとオリ主のせいで泰麒は初めて饕餮を使令にした麒麟ではなくなってしまいましたが、使令に降したのは初めての麒麟という事で許してください。穆玄は自分から使令になったので…