紅衣の麒麟   作:にわか

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原作キャラがここから登場多くなります。
キャラ崩壊等注意してください。
それにしても風来坊は使いやすいキャラですね



第五章

 

 

 

才州国の東に位置する街、奉賀。

才から奏へと抜ける門の手前には、連日、長い行列ができていた。

 

才国を後にし、隣国・奏へ渡ろうとする者たち。

わずかな荷物を抱え、幼子を背負い、黙々と歩く。列の空気には、沈黙と、かすかな希望と、深い疲弊が混じっていた。

 

清次は、その列の末尾に、ひとり紛れるように立っていた。

色あせた朱色の旅装束をまとい、赤い髪を無造作に後ろで束ねている。

目立たぬつもりでも、その瞳と佇まいには、どこか人ならぬ気配が滲んでいた。

 

穆玄は姿を見せていない。

この旅では、主人の「民に交じる」という意志を尊重し、彼の影の中に潜んでいる。

 

清次は、行列の様子を眺めていた。

目を伏せて歩く者、疲れ切った足取りの者、静かに泣く子をあやす声――

そのひとつひとつが、今の才国を語っているようだった。

 

「……君、ひとりでここまで来たの?」

 

背後からかけられた声に、清次は肩をすくめるように振り返った。

旅装の青年が、列から一歩外れて立っていた。

 

さらさらとした黒髪に、涼しげな眼差し。

飄々とした物腰ながら、その目はどこか底が知れない。

 

「はい、一人です」

 

「そっか。ちょっと意外だった。……こんなところに、君みたいな子が立ってるのは」

 

「子ども扱いは慣れてます。旅の途中でもよく言われるので」

 

清次は、少しだけ冗談めかして答えた。

 

「そうか。いや……君の目、まだ迷いが多いなって思って」

 

「……そう見えますか」

 

「うん。でも、それは悪いことじゃない。迷える人の方が、まっすぐ進めるときもある」

 

清次は少し目を伏せたが、すぐに表情を緩めた。

その言葉が、思っていたより優しかったからだ。

 

「奏に入るつもりですか?」

 

「いや。俺は、才の今を見に来ただけ」

 

「この国を?」

 

「そう。……苦しんでる人を見るのは、苦手なんだけどね。でも、ちゃんと見ないと、何も言えないし」

 

風に揺れる袖の中で、青年はふっと息をついた。

 

「見ることで、何か変わると思いますか?」

 

「どうだろう。見るだけじゃ変わらないかもしれない。でも、見ないと始まらない。君も……きっと何かを探してるんだろ?」

 

清次は、その言葉に軽く目を見開いた。

けれど、それが不思議と嫌ではなかった。

 

「……あなたは、才の人ではないのですか」

 

「どうかな。俺は奏国から来たんだ。旅人だから、あちこちに行くよ」

 

「でも、才のことをよく知っているように聞こえました」

 

青年は、わずかに笑った。

 

「……前にもあったからね。似たようなことが。この国が、大きく揺らいだことが」

 

「それは……前王の時代の話ですか」

 

青年の目が、一瞬だけ細められた。

 

「君は、まだ知らないんだね」

 

清次は黙った。

 

「だいぶ前の話だよ。……ある人が、国のために立ち上がって、国を立て直そうとした。けど……うまくいかなかった」

 

それは悔いにも、祈りにも聞こえた。

けれど、押しつけがましさのない、風のような言葉だった。

 

青年は、ふと問う。

 

「……名前は?」

 

「……俺は」

 

名乗ろうとして、清次は口を閉ざした。

 

「いいよ。無理に教えなくても。旅の途中で出会った名前のない人って、案外、よく覚えてたりするもんだから」

 

青年はやわらかく笑い、肩をすくめた。

 

「じゃ、俺はもう行くよ。風が冷えてきたし」

 

「あなたは?」

 

「ただの旅人、利広(りこう)。…君も、道のりを気をつけて」

 

そう言って、青年は群れを離れ、群衆の向こうへと歩き去っていった。

 

清次はその背を、しばらく見送っていた。

 

(……妙な人だった)

 

誰よりも軽やかで、誰よりも遠い。

けれど、その言葉の奥に残っていたものは、なぜか心に残っていた。

 

穆玄の気配が、影の奥で静かに動いた。

 

清次はそっと頷き、列の向こうとは逆の方へと歩き出した。

 

風が吹いていた。

旅は、まだ始まったばかりだ。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

畑、と呼ぶにはあまりに荒れ果てた土地が、道の脇に広がっていた。

 

土は乾ききってひび割れ、そこに芽を出そうとした痕跡すら見えない。耕されたような跡はあるが、実りの兆しはなく、風が吹くたびに細かな塵が空へ舞っていく。

 

「……もう、何も育たないんだな」

 

ぽつりと漏らした清次に、穆玄が低く応えた。

 

『耕しても作物は育たないし、育ったとしても育ちきる前に妖魔に荒らされるか、災害によって潰れる。それが……今の才だ』

 

その先に、かつて街だったものの名残があった。

 

建物はほとんどが半壊し、屋根の瓦は抜け落ち、壁は風雨に晒されて黒ずんでいる。道にはひびが走り、溝に溜まった泥水は腐臭を放ち、草すら生えぬ場所も多い。

 

かろうじて商いをしているのか、崩れかけた軒下で物を並べる者の姿もあったが、客はおらず、商人の目はどこか虚ろだった。行き交う人々の顔には生気がなく、子どもすら声を上げることなく、親の手にすがっていた。

 

清次は黙ってその中を歩いた。

 

無言の街は、まるで時が止まったようだった。

その静寂を破るように――

 

「黙って渡せって言ってんだろうが!」

 

男の怒鳴り声。続いて、打擲の音。

 

反射的に駆け寄りかけた清次を、穆玄の声が止めた。

 

(出るなよ。あんなの、今の才じゃありふれたことだ。……周りのやつを見てみろ)

 

言われるままに周囲を見やれば、通りがかった民は誰ひとり顔をしかめるでも、止めるでもない。ただ通り過ぎていくだけ。まるで、そこに暴力などなかったかのように。

 

清次は奥歯を噛んだ。

 

(……わかってる。今出て行っても、どうにもならない。騒ぎになるだけだ。……俺が正体を明かしたら、この先を見て歩くことはもうできなくなる)

 

自分に言い聞かせるように呟く。拳を握り締め、ようやくその場を離れた。

 

 

***

 

 

日が傾きかけた頃、清次と穆玄は街を外れた山裾へと足を運んだ。

 

そこには、かろうじて人の手が入った形跡のある、小さな集落のような場所があった。だが、民家と呼ぶにはあまりに崩れた家々。人が住んでいるのかも分からない。屋根は抜け、道は草に覆われ、扉の半分が外れた家屋が風に軋んでいた。

 

「……ここ、村だったのか?」

 

穆玄は答えなかった。沈黙が返ってきたことが、全てを物語っていた。

 

そんな中で、ぎしりと戸の音がした。

 

一軒の家から、老婆が顔をのぞかせていた。

 

「あらまあ。こんなところまで来るとはねえ」

 

老婆はゆっくりと歩み寄ってきて、清次をまじまじと見つめた。

 

「……こんな寂れたとこに、あんたみたいな子が来るとはね。珍しいこった。……役人に目ぇつけられないうちに、どこかに身を潜めな」

 

清次は小さく頭を下げた。

 

「すみません。迷っていたわけでは……ただ、歩いていて」

 

「そうかい。あんたのような若いのが、歩いて回れるような国じゃなくなっちまったよ。……まあ、随分前からそうだけどね」

 

老婆はそう言って、瓦の崩れた縁に腰を下ろした。

 

「昔はね、それでも“良くなる”って信じてたんだよ」

 

ぽつり、と吐き出すように。

 

「前の王様が立った時さ。……あの人は、みんなに望まれてなった王様だった。期待もされた。……私もね、きっとこの国が変わる、救われる、って思ってたよ」

 

清次は、その横顔を黙って見つめた。

 

「でも、上手くはいかなかった。……あの人だけが悪かった訳じゃないのかもしれない。けど、思ってたようにはならなかった。……私らは、夢を見すぎたのさ」

 

老女の目は、どこか遠くを見ていた。

 

「今じゃ、夢を語るどころか……今日を生きるのがやっとさ。あんたは目立つから、気をつけないと狙われるよ」

 

そう言って立ち上がると、もう一度振り返った。

 

「もう日が暮れるよ。……妖魔に見つかる前に、帰っといで」

 

とだけ言い、朽ちた戸の向こうへ消えていった。

 

穆玄の気配が、背後で静かに揺れる。

 

日がゆっくりと沈み、村とも呼べぬ村に長い影が伸びていた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

才国の北方、岩がちな山道を、清次は静かに歩いていた。風は冷たく、木立の間を縫って吹き抜けていく。

 

ふと、空に漂う違和感に、穆玄の声が響いた。

 

『……おい、蠱雕が来てる』

 

清次は足を止め、上空を見上げた。

 

(蠱雕? この辺りにも出るのか……白爪)

 

清次の影がわずかに揺れた。

白爪――銀白の毛並みを持つ俊敏な狼型の使令。素早い動きで主を護る護衛であり、清次が騎乗することもある、宙を素早く翔ける使令だ。

 

その白爪が今まさに姿を現しかけた――だが、次の瞬間、それは不要となった。

 

「危ねぇ!」

 

風を裂く羽音とともに、空から舞い降りてきたのは、大きな羽根を広げた巨大な妖魔――蠱雕だった。清次に狙いを定め、鋭く滑空してくる。

 

だが、それより一瞬早く、横合いから突き出された薙刀の刃が、妖魔の首元を抉った。

 

蠱雕は呻き声を上げる間もなく地に叩きつけられ、濁った血を撒き散らして動かなくなる。

白爪はすでに気配を消し、再び影へと沈んでいた。

 

「ったく……空から来るとは聞いてねぇぞ」

 

薙刀を肩に担ぎ直しながら、声の主――一人の男が姿を現す。

白髪を一束に結い、右目に眼帯をつけた壮年の男。無精髭に僧衣姿という、どこか飄々とした風体だった。

 

「お前さん、一人で歩くには、ちと物騒すぎる場所だぞ」

 

声音はぶっきらぼうだが、どこか温かみのある調子だった。

清次は軽くお辞儀しながら、静かに礼を述べた。

 

「……助けてくれて、ありがとうございます。危ないところでした」

 

「見たとこ、妙に落ち着いてるが……怪我はないな?」

 

「ええ、大丈夫です。ご心配なく」

 

「そりゃ結構。――とはいえ、血の臭いには気をつけろよ。妙なのがまた寄ってくる」

 

穆玄の気配が、そっと寄り添う。

 

『大丈夫か』

 

(うん、平気だよ)

 

清次は軽く息を吐きながら、やわらかく返す。血の匂いが鼻を掠めたが、表情に揺らぎはなかった。穆玄はしばし沈黙し、『そうか』とだけ返した。

 

男はちらりと才麒の顔を見て、ふっと口の端を上げる。

 

「――名前は?」

 

「……清次(せいじ)です」

 

六太がこの世界でも馴染むようにと名付けてくれた名。清次は、そう名乗るたびにどこか背筋が伸びるような気がした。

 

宥禅はにやりと笑うと、薙刀を肩に担いで言った。

 

「清次、ね。芯の通った、いい名だ」

 

「ありがとうございます。あなたは?」

 

「ああ、俺か。宥禅(ゆうぜん)ってんだ。あっちの町に、ちょいと用足しにな」

 

「……そうだったんですね」

 

「で、清次。ここから先に人の住む町がある。俺もそっちに戻るところだ。一緒にどうだい」

 

「……いいんですか?」

 

「いいも悪いもあるかい。こんな山道、子ども一人で歩かせるほど俺も冷たくねえよ」

 

清次は少し笑って、素直にうなずいた。

 

「……じゃあ、お言葉に甘えます」

 

宥禅は軽く笑い、薙刀を担いで歩き出す。清次もそれに続いた。

 

夕暮れの山道。二人の影が並び、ゆっくりと歩き出す。

 

遠く、山の裾に小さく町の姿が見えはじめていた。

 

 

***

 

 

これまで巡ってきた町や村は、どこも似たようなものだった。

 

荒れ果てた街道。荒野のような集落。

仮朝の法があると言いながら、それが守られている場面など一度として見たことがなかった。

むしろ、法を隠れ蓑に、役人たちは好き勝手に権力を振りかざしていた。

 

理由なき取り締まり。言いがかりに等しい徴税。

ある町では、盗みの濡れ衣を着せられた子どもが、広場の真ん中で鞭打たれていた。

別の村では、「村長が逆らった」として家ごと焼かれた一家がいた。

見せしめのように吊された者たちの顔には、恐怖よりも深い諦めの影が落ちていた。

 

声を上げる者はいなかった。

誰もが目を伏せ、ただ風のように通り過ぎてゆく。

そこには確かに“暮らし”はあったが、“生”の手応えはなかった。

 

――だからこそ、今、目の前に広がるこの町の光景は、異様だった。

 

古びた家々の間に、布を掛けた露店がぽつぽつと並ぶ。

行き交う人々は互いに小さく頭を下げてすれ違い、店先では短くも柔らかな声が交わされている。

戸口では老いた女が静かに掃き掃除をし、その傍らで子どもが石を積んで遊んでいた。

誰もがせわしなく動いているはずなのに、そこにはどこか余裕があった。

 

清次は思わず足を止め、ゆっくりとあたりを見渡した。

 

「……ここは、他とは、少し違いますね」

 

ぽつりと漏れた声に、宥禅は振り返らず、肩越しに答えた。

 

「ああ。ここらはな、今でも仮朝の規定を、きっちり守ってる」

 

「……そんな場所が、まだあるんですね」

 

「めったに無ぇけどな。けど、たまにはいるんだ。変わり者の州宰ってのが」

 

清次は、横顔を見やった。

 

「篤州侯(とくしゅうこう)が……?」

 

「ああ。昔から変わらねぇ。融通は利かねぇが、筋だけは通すやつだ。書面の向こうにある“人の暮らし”ってやつを、ちゃんと見てる」

 

その言いぶりには、どこか懐かしさが滲んでいた。

清次は続けて何かを問おうとしたが、その雰囲気に触れ、そっと言葉を引っ込めた。

 

宥禅も、それ以上は何も言わなかった。

 

「――っと、俺はこっちで用がある。清次、お前さんも、あんまりゆっくりしてんなよ」

 

「え?」

 

「日が落ちりゃ、妖魔が出る。この町は守られてるが、それでも夜道は油断できねぇ。宿は早めに取っとけ。建物の中にいれば、少しは安心だ」

 

「……わかりました。ありがとうございます」

 

「礼なんていらねえよ。それと――」

 

宥禅は少しだけ声を落とし、清次の肩を軽く指さした。

 

「もし何か困ったことがあったら、役所に来な。明日は俺もそこにいる。……町に不慣れな旅人ってのは、どうしても目立つからな」

 

「……はい。わかりました」

 

「よし。じゃあな」

 

軽く手を振って、宥禅は通りの先へと歩いていった。

 

その背中をしばらく見送ってから、清次は再び町の空気に目を向けた。

 

ふと、どこからか炊きものの匂いが漂ってくる。

空はすでに茜に染まり、町のあかりがぽつぽつと灯りはじめていた。

 

 

宿に荷を下ろしたあと、清次は町の通りを歩きながら、人々の様子を観察していた。

細い路地にも行き交う人の姿があり、擦れ違うたびに軽く頭を下げ合う仕草が自然と交わされている。

その空気に、清次はしばし足を止めた。

 

(……ここは、やっぱり、他と違う)

 

思わず漏れた心の声を押さえるように、歩を進めた。

 

通りの先で、ひとりの老婆が店先の箒を手に掃除をしているのが目に入った。

清次が近づくと、老婆は手を止め、細い目を細めて言った。

 

「旅のお方かい? まあ、こんな時世に、よう来なすったね」

 

「ええ。お騒がせしていないといいのですが」

 

「騒がしいのは外の方さ。この町は、まだ穏やかなもんだよ」

 

そう言って、老婆は手元の箒を見下ろし、少しだけ顔を緩めた。

 

「……ありがたいことさね。篤州侯がいてくださるおかげで、わたしら、こうして暮らしていられる」

 

「篤州侯が……?」

 

「昔から優しいお方でね。誰も来てくれないような時も、あの方だけはずっとここに来て下さる。……あの人が、いなかったら、この町もとうに潰れてたよ」

 

淡々と語る口ぶりの奥に、深い信頼と敬意がにじんでいた。

 

「何もかも不足してるってのに、それでも“人らしく暮らす”ことを守ってくれてる。……そういう人さ、篤州侯は」

 

清次は、軽くお辞儀をして礼を言った。老婆は再び箒を持ち直し、静かに店先を掃きはじめた。

 

次に声をかけたのは、小さな道具屋の店先で棚を並べていた若い男だった。

 

「昨日、あんたを助けたの、宥禅さんだったろ? あの人、篤州侯に拾われたんだ。おかげで今じゃ立派な役人だよ」

 

「……そうなんですね」

 

「ここらじゃな、どんな人間にも居場所をくれるんだ。昔、よそから逃げてきた者がいたときも、ちゃんと話を聞いてやってな。世間からつまはじきにされてる海客や半獣が、今じゃここの役人やってるんだから、たいしたもんだよ」

 

「それは……珍しいですね。他の町では……」

 

清次がそう言いかけると、男は少し声をひそめて言った。

 

「よそじゃ逆だろ。取り締まりと称して人を痛めつけるなんて話も珍しくない。俺の親戚が住んでる村じゃ、役人が盗人まがいの徴発してて、口答えしただけで家ごと焼かれたって話だ……」

 

「……」

 

「でも、うちは違う。ここでは“法”ってのが、ちゃんと人のためにある。篤州侯がそれを曲げないから。みんなそれを信じてるよ」

 

清次は深くうなずいた。

 

さらに、広場近くで薪を運んでいた中年の女性にも、話を聞くことができた。

 

「私も、この町に来たのは十年ほど前です。当時は、夫を亡くして、子どもを連れて逃げるようにして来たんです。どこに行っても冷たくされて……もう、生きる場所なんてないと思ってました」

 

「そうだったんですか…」

 

「でも、篤州侯が受け入れてくださったんです。“親が子を守るように、民を守るのが政だ”と。その言葉が……今でも支えになっています」

 

清次は胸の奥に、ゆっくりと熱のようなものが満ちていくのを感じた。

 

(……この人のような者が、王だったら)

 

自然と、そんな思いが浮かんでいた。

 

だが、胸の奥では、なぜか小さなざわめきも生まれていた。

 

それが何なのか、まだ清次にはわからなかった。

 

 

宿へ向かう道すがら、清次は何人もの町人と話を交わした。

 

子を抱えた母親、荷を運ぶ職人、道端で声をかけてきた老婆――

どの声にも共通して感じられたのは、篤州侯への厚い信頼。そして、この町の人々が、他の地方の民とは違い、どこか穏やかで、確かに“幸せそう”であるという事実だった。

 

それは、清次がこれまで見てきた、才国の他のどの地とも違う光景だった。

 

その夜、宿の一室。

 

清次は床に座り、穆玄と向かい合っていた。

扉の向こうでは虫の音がささやき、揺れる灯火が天井にぼんやりと影を描いている。

 

「……なんだか、すごく不思議なんだ」

 

ぽつりと、清次がこぼす。

 

「ここの人たちは、怯えていない。明日が来ることを、ちゃんと信じてる……それが、伝わってくるんだ」

 

穆玄は黙って、その言葉を受け止めていた。

 

「そして、篤州侯も。話には聞いた限り……本当に、すごい人だと思った。守っているんだ、“生きる場所”を。ああいう人が王だったらって、思たんだ」

 

静かな沈黙が、短く流れる。

 

清次は自分の掌を見つめた。

 

「……でも、それでも。

なぜだか、わからないけど……王を選ぶってことが、どうしようもなく、怖くなるときがある」

 

穆玄がゆっくりと顔を上げ、その瞳を真っ直ぐに清次に向ける。

 

「おかしいよね。選ぶのは天意なのに」

 

少しだけ笑みを浮かべようとして、それもすぐに消えた。

 

穆玄が低く、しかし確かに言った。

 

「お前は……選ぶことの重さを知っている。王を選ぶということの先にあるものを……感じ取っている。だからこそ、恐れる。……それは、誠実さの証だ」

 

清次は目を伏せ、しばし黙った。

 

心の奥でうずくようなざらつき。

それは決して、否定できるものではなかった。

 

「……俺は、信じたいんだ。選んだ相手が、民を守る人であってほしいって。選ぶことが、“救い”につながるって、信じていたい……」

 

穆玄の気配が、そっと寄り添った。

 

清次は目を閉じ、灯火の揺れる音を聴いていた。

 

それは不安でもあり、願いでもあり、まだ形にならない“祈り”のようなものだった。

 

 

***

 

 

清次は、町の一角にある役所の前まで来ていた。

入口の扉は半ば開いており、中から人々の話し声が漏れてくる。

 

中に入ると、広くはないがよく整えられた広間に、数人の役人が集まり何かを話していた。

その輪の中に、白髪を後ろに束ねた男の背が見えた。あのとき、薙刀を振るってくれた人物――宥禅だった。

 

(……宥禅さん?)

 

清次が立ち止まったのに気づいたのか、宥禅がちらりと振り返り、にやりと笑った。

 

「おや。清次じゃないか。……来てみたんだな」

 

「ええ。……ちょっと、町のことが気になって」

 

「そいつは結構。俺もちょうど今、来たとこでね」

 

飄々とした調子は変わらないが、その声には、どこか柔らかい響きがあった。

清次が宥禅のもとに近づいたところで、隣にいた初老の男が視線を向けた。

 

「……その方は?」

 

穏やかだが澄んだ声だった。

宥禅は清次に目を向けると、片手で軽く紹介するように言った。

 

「昨日、町の外で出くわした子だ。名は清次。危ないところだったから、町まで連れてきたんだよ」

 

「なるほど。……ご無事で何よりです」

 

男はそう言って、清次を静かに見つめた。

まなざしは柔らかいが、どこか深く、静かな湖面のような奥行きを感じさせるものだった。

 

(この人が……)

 

清次は、どこか自然に姿勢を正していた。

 

「……はじめまして」

 

「ようこそいらっしゃいました。私はここらをまとめている梁宗(りょうそう)と申します。」

 

男はそう言って、清次に頭を下げた。

清次もそれに倣って、軽く礼を返す。

 

「宥禅が人を連れてくるのは、珍しいことでしてね……よければ、少し静かな場所で、お話をしませんか。旅をしてこられた方の目から、この町がどう映ったか――聞かせていただけると嬉しい」

 

その声には押しつけがましさも威圧もなく、ただ静かに、まっすぐな好意と関心がにじんでいた。

 

(この人が……篤州侯)

 

清次の胸に、静かに波紋が広がる。

だが、その波紋の中に、“王気”と呼ばれるものの気配は――なかった。

 

 

***

 

 

静かな一室に、あたたかな茶の香りが満ちていた。

清次は卓を挟んで梁宗と向かい合っていた。格子窓越しの光が柔らかく差し込み、影を落としている。

 

梁宗は手元の湯呑に目を落としながら、ゆるやかに口を開いた。

 

「……この町を、旅人の目にはどう映りましたか?」

 

その問いに、清次は少し考え込むように目を伏せた。

 

「……とても穏やかで、整っています。人々は挨拶を交わし、表情にも余裕があって……生きている実感が、町の中に流れている気がしました」

 

そしてゆっくりと顔を上げ、梁宗を見た。

 

「正直に言えば、これまで通ってきた町や村とは、まるで別の国のようです。ほとんどの場所では、民は法に守られておらず、むしろ役人に怯えて暮らしていました。……人を裁くための法が、罰するためだけに使われていた」

 

梁宗の眉がわずかに動く。だが口を挟まず、静かに聞いていた。

 

「けれど、ここでは違います。法が“人を守るもの”として機能している。……それを見て、驚きました。まるで別の国みたいだと……」

 

「そう言っていただけるのは、ありがたいことです。……ですが、身に余るお言葉でもあります」

 

「……?」

 

「何かを守っているとき、人は気づかぬうちに何かを犠牲にしていることがあります。……この町の穏やかさも、きっとどこかで、何かを代償にしている」

 

その声音に、責める響きはなかった。

ただ、自嘲と誠実さが滲んでいた。

 

「それでも、人は生きなければならない。その“生”に意味を与えようと、日々、もがいております」

 

清次は静かにうなずいた。その言葉の一つ一つが、胸の奥に染み込むようだった。

 

「……それでも、こんな町を守ってこられたのは、すごいことです。皆さんが、梁宗さまを信頼しているのが伝わりました」

 

梁宗は目を伏せた。そして、わずかに口元を緩める。

 

「ありがたいことです。ですが……信頼というのは、時に重いものでもあります」

 

「重い……?」

 

「……それを裏切ってはならないと、思えば思うほど、人は時に、自分を見失うことがある。……私が町を守っているのか、町に守られているのか。自分でも、わからなくなるのです」

 

言葉の裏にある深い疲労と誠実さに、清次はじっと耳を傾けていた。

 

清次はふっと息を吐き、梁宗を見つめた。

 

「そういうことも、あるのですね……。でも、今の才国には、“ただ正しいことを貫く”だけでは通じない場所が多くあります。けれど、だからこそ……この国の荒廃は、もはや一人の力でどうにかできるものではないと、思います。けれど……それでも目の前の民を見て、耳を傾けて、そのうえで進むべき道を選べる人――そんな人が、必要なのではないかと」

 

梁宗はその言葉を、ゆっくりと、しかし深く噛みしめるように聞いていた。そして、茶碗をそっと置き、柔らかく微笑んだ。

 

「……あなたのような方が、選ばれる王であるなら――才国は、きっとよい国になります」

 

清次は、はっとして顔を上げた。梁宗の視線は、柔らかく、だがどこか深く、清次の核心を見つめていた。

 

「……っ」

 

「ご安心なされよ。申し上げた通り、私のような老いた地方官には、名を問うつもりなどございません。……ただ、長くこの地を預かってまいりましたので、少々、勘が利くのです」

 

清次は目を伏せかけ、けれどすぐにまっすぐ視線を上げた。そのまなざしに、確かな敬意が宿っていた。

 

梁宗は立ち上がると、扉をそっと開け、外の明かりを見やった。

 

「どうか、これからもご無事で。……旅を続けられるのでしたら、どうぞお気をつけて。貴方様の御身に何かあれば――それだけで、ことですからな」

 

穏やかな笑みを浮かべて語るその姿に、清次は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 

「……ありがとうございます」

 

そうして清次は、静かに部屋を後にした。

 

背を向けたその先に、再び歩むべき道がある。けれどその歩みの裏には、確かにひとつの灯火が灯っていた。

 

 

***

 

 

宿の窓から差し込む朝の光は、柔らかく部屋の床を照らしていた。

 

清次は荷をまとめながら、ふと昨夜の梁宗の言葉を思い出していた。

 

(「あなたのような方が、選ばれる王であるなら――才国は、きっとよい国になります」)

 

(……あの人は、俺が何者かを、きっとわかってた)

 

穆玄が、影のように現れ、窓辺に目を向ける。

 

「……行くのか」

 

「うん。……長居しても、目立つだけだし」

 

清次は肩に小さな荷を担ぎながら、まだどこか揺れる気持ちを抱えていた。

 

「……けれど、少しだけ、救われた気がするんだ」

 

穆玄が静かにまなざしを向ける。

 

「何がだ」

 

「……この国にも、ああやって誰かのために生きている人が、ちゃんといたってこと」

 

「当たり前のようで、珍しいことだな」

 

「うん、珍しい。でも、だからこそ……大事にしたいと思った」

 

廊下を下り、宿の入口まで来たところで、宿の主が気づいて声をかけてくる。

 

「お出立ですかい、若いの。あんたが来てくれたって話、篤州侯も喜んでおられたようでねえ」

 

「……そうですか」

 

清次は軽く笑みを返す。

 

(俺が采麒だと、明言したわけじゃない。けど、あの人には、何もかも見透かされていたような気がする)

 

町を離れるとき、露店の老婆が小さく手を振ってくれた。清次も立ち止まり、静かに片手を上げて応えた。

 

道の先には、また別の風景が待っている。

 

だが清次の胸の内には、昨夜までとは違う、ほのかな確信が宿っていた。

 

(俺は、やっぱり……選ばなきゃならない。なら、そのときは――)

 

(自分の信じたものに、恥じないように)

 

穆玄が隣に並び、空を仰いだ。

 

「次は、どこへ行く」

 

清次は小さく息を吐いて、笑った。

 

「――風の向く方へ」

 

二人の影が、朝の光の中に伸びていった。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

庁内の一室。

 

梁宗は、窓の外から吹き込む風に耳を澄ませ、手にした湯呑を静かに傾けた。残っていた茶をひとくち含み、そっと置く。

 

「……まっすぐな瞳でしたな」

 

穏やかな声が、独り言のように漏れる。

 

すると、部屋の隅から気配が動いた。

 

「だろうな」

 

姿を現したのは宥禅だった。無精髭をなでながら、少しばかり驚いたような、それでいて確信めいた笑みを浮かべている。

 

「まさか、あいつが……いや、なんとなく、そうじゃないかと思っちゃいたがな」

 

梁宗は返事をせず、ただ静かに宥禅を見やる。

 

宥禅は、目を細めると、確認するように問いかけた。

 

「采麒だったんだな?」

 

しばしの沈黙。

 

梁宗は言葉を返さず、ただ湯呑をそっと卓に戻し、視線をゆるやかに落とした。

 

それが、答えだった。

 

「……そうか」

 

宥禅はふう、と息を吐き、微笑を浮かべる。

 

「……あいつが選ぶ王なら――たしかに、俺たちも少しは未来に希望を持っていいのかもしれねぇな」

 

梁宗は静かにうなずき、ふと廊の向こうに目をやった。

 

「ええ。……きっと才は、よい国になりますよ」

 

その声は、確かな信念を湛えていた。

 

扉の外では、町の灯が一つ、また一つとともりはじめていた。

 

夕暮れの風が、静かに庁の中を通り過ぎてゆく。

 

 

 






宥禅は姉が考えたキャラです。
いいキャラなんですが、ちょっと厨二っぽいですよねw
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