紅衣の麒麟 作:にわか
原作キャラがここから登場多くなります。
キャラ崩壊等注意してください。
それにしても風来坊は使いやすいキャラですね
才州国の東に位置する街、奉賀。
才から奏へと抜ける門の手前には、連日、長い行列ができていた。
才国を後にし、隣国・奏へ渡ろうとする者たち。
わずかな荷物を抱え、幼子を背負い、黙々と歩く。列の空気には、沈黙と、かすかな希望と、深い疲弊が混じっていた。
清次は、その列の末尾に、ひとり紛れるように立っていた。
色あせた朱色の旅装束をまとい、赤い髪を無造作に後ろで束ねている。
目立たぬつもりでも、その瞳と佇まいには、どこか人ならぬ気配が滲んでいた。
穆玄は姿を見せていない。
この旅では、主人の「民に交じる」という意志を尊重し、彼の影の中に潜んでいる。
清次は、行列の様子を眺めていた。
目を伏せて歩く者、疲れ切った足取りの者、静かに泣く子をあやす声――
そのひとつひとつが、今の才国を語っているようだった。
「……君、ひとりでここまで来たの?」
背後からかけられた声に、清次は肩をすくめるように振り返った。
旅装の青年が、列から一歩外れて立っていた。
さらさらとした黒髪に、涼しげな眼差し。
飄々とした物腰ながら、その目はどこか底が知れない。
「はい、一人です」
「そっか。ちょっと意外だった。……こんなところに、君みたいな子が立ってるのは」
「子ども扱いは慣れてます。旅の途中でもよく言われるので」
清次は、少しだけ冗談めかして答えた。
「そうか。いや……君の目、まだ迷いが多いなって思って」
「……そう見えますか」
「うん。でも、それは悪いことじゃない。迷える人の方が、まっすぐ進めるときもある」
清次は少し目を伏せたが、すぐに表情を緩めた。
その言葉が、思っていたより優しかったからだ。
「奏に入るつもりですか?」
「いや。俺は、才の今を見に来ただけ」
「この国を?」
「そう。……苦しんでる人を見るのは、苦手なんだけどね。でも、ちゃんと見ないと、何も言えないし」
風に揺れる袖の中で、青年はふっと息をついた。
「見ることで、何か変わると思いますか?」
「どうだろう。見るだけじゃ変わらないかもしれない。でも、見ないと始まらない。君も……きっと何かを探してるんだろ?」
清次は、その言葉に軽く目を見開いた。
けれど、それが不思議と嫌ではなかった。
「……あなたは、才の人ではないのですか」
「どうかな。俺は奏国から来たんだ。旅人だから、あちこちに行くよ」
「でも、才のことをよく知っているように聞こえました」
青年は、わずかに笑った。
「……前にもあったからね。似たようなことが。この国が、大きく揺らいだことが」
「それは……前王の時代の話ですか」
青年の目が、一瞬だけ細められた。
「君は、まだ知らないんだね」
清次は黙った。
「だいぶ前の話だよ。……ある人が、国のために立ち上がって、国を立て直そうとした。けど……うまくいかなかった」
それは悔いにも、祈りにも聞こえた。
けれど、押しつけがましさのない、風のような言葉だった。
青年は、ふと問う。
「……名前は?」
「……俺は」
名乗ろうとして、清次は口を閉ざした。
「いいよ。無理に教えなくても。旅の途中で出会った名前のない人って、案外、よく覚えてたりするもんだから」
青年はやわらかく笑い、肩をすくめた。
「じゃ、俺はもう行くよ。風が冷えてきたし」
「あなたは?」
「ただの旅人、利広(りこう)。…君も、道のりを気をつけて」
そう言って、青年は群れを離れ、群衆の向こうへと歩き去っていった。
清次はその背を、しばらく見送っていた。
(……妙な人だった)
誰よりも軽やかで、誰よりも遠い。
けれど、その言葉の奥に残っていたものは、なぜか心に残っていた。
穆玄の気配が、影の奥で静かに動いた。
清次はそっと頷き、列の向こうとは逆の方へと歩き出した。
風が吹いていた。
旅は、まだ始まったばかりだ。
ーーー
畑、と呼ぶにはあまりに荒れ果てた土地が、道の脇に広がっていた。
土は乾ききってひび割れ、そこに芽を出そうとした痕跡すら見えない。耕されたような跡はあるが、実りの兆しはなく、風が吹くたびに細かな塵が空へ舞っていく。
「……もう、何も育たないんだな」
ぽつりと漏らした清次に、穆玄が低く応えた。
『耕しても作物は育たないし、育ったとしても育ちきる前に妖魔に荒らされるか、災害によって潰れる。それが……今の才だ』
その先に、かつて街だったものの名残があった。
建物はほとんどが半壊し、屋根の瓦は抜け落ち、壁は風雨に晒されて黒ずんでいる。道にはひびが走り、溝に溜まった泥水は腐臭を放ち、草すら生えぬ場所も多い。
かろうじて商いをしているのか、崩れかけた軒下で物を並べる者の姿もあったが、客はおらず、商人の目はどこか虚ろだった。行き交う人々の顔には生気がなく、子どもすら声を上げることなく、親の手にすがっていた。
清次は黙ってその中を歩いた。
無言の街は、まるで時が止まったようだった。
その静寂を破るように――
「黙って渡せって言ってんだろうが!」
男の怒鳴り声。続いて、打擲の音。
反射的に駆け寄りかけた清次を、穆玄の声が止めた。
(出るなよ。あんなの、今の才じゃありふれたことだ。……周りのやつを見てみろ)
言われるままに周囲を見やれば、通りがかった民は誰ひとり顔をしかめるでも、止めるでもない。ただ通り過ぎていくだけ。まるで、そこに暴力などなかったかのように。
清次は奥歯を噛んだ。
(……わかってる。今出て行っても、どうにもならない。騒ぎになるだけだ。……俺が正体を明かしたら、この先を見て歩くことはもうできなくなる)
自分に言い聞かせるように呟く。拳を握り締め、ようやくその場を離れた。
***
日が傾きかけた頃、清次と穆玄は街を外れた山裾へと足を運んだ。
そこには、かろうじて人の手が入った形跡のある、小さな集落のような場所があった。だが、民家と呼ぶにはあまりに崩れた家々。人が住んでいるのかも分からない。屋根は抜け、道は草に覆われ、扉の半分が外れた家屋が風に軋んでいた。
「……ここ、村だったのか?」
穆玄は答えなかった。沈黙が返ってきたことが、全てを物語っていた。
そんな中で、ぎしりと戸の音がした。
一軒の家から、老婆が顔をのぞかせていた。
「あらまあ。こんなところまで来るとはねえ」
老婆はゆっくりと歩み寄ってきて、清次をまじまじと見つめた。
「……こんな寂れたとこに、あんたみたいな子が来るとはね。珍しいこった。……役人に目ぇつけられないうちに、どこかに身を潜めな」
清次は小さく頭を下げた。
「すみません。迷っていたわけでは……ただ、歩いていて」
「そうかい。あんたのような若いのが、歩いて回れるような国じゃなくなっちまったよ。……まあ、随分前からそうだけどね」
老婆はそう言って、瓦の崩れた縁に腰を下ろした。
「昔はね、それでも“良くなる”って信じてたんだよ」
ぽつり、と吐き出すように。
「前の王様が立った時さ。……あの人は、みんなに望まれてなった王様だった。期待もされた。……私もね、きっとこの国が変わる、救われる、って思ってたよ」
清次は、その横顔を黙って見つめた。
「でも、上手くはいかなかった。……あの人だけが悪かった訳じゃないのかもしれない。けど、思ってたようにはならなかった。……私らは、夢を見すぎたのさ」
老女の目は、どこか遠くを見ていた。
「今じゃ、夢を語るどころか……今日を生きるのがやっとさ。あんたは目立つから、気をつけないと狙われるよ」
そう言って立ち上がると、もう一度振り返った。
「もう日が暮れるよ。……妖魔に見つかる前に、帰っといで」
とだけ言い、朽ちた戸の向こうへ消えていった。
穆玄の気配が、背後で静かに揺れる。
日がゆっくりと沈み、村とも呼べぬ村に長い影が伸びていた。
ーーー
才国の北方、岩がちな山道を、清次は静かに歩いていた。風は冷たく、木立の間を縫って吹き抜けていく。
ふと、空に漂う違和感に、穆玄の声が響いた。
『……おい、蠱雕が来てる』
清次は足を止め、上空を見上げた。
(蠱雕? この辺りにも出るのか……白爪)
清次の影がわずかに揺れた。
白爪――銀白の毛並みを持つ俊敏な狼型の使令。素早い動きで主を護る護衛であり、清次が騎乗することもある、宙を素早く翔ける使令だ。
その白爪が今まさに姿を現しかけた――だが、次の瞬間、それは不要となった。
「危ねぇ!」
風を裂く羽音とともに、空から舞い降りてきたのは、大きな羽根を広げた巨大な妖魔――蠱雕だった。清次に狙いを定め、鋭く滑空してくる。
だが、それより一瞬早く、横合いから突き出された薙刀の刃が、妖魔の首元を抉った。
蠱雕は呻き声を上げる間もなく地に叩きつけられ、濁った血を撒き散らして動かなくなる。
白爪はすでに気配を消し、再び影へと沈んでいた。
「ったく……空から来るとは聞いてねぇぞ」
薙刀を肩に担ぎ直しながら、声の主――一人の男が姿を現す。
白髪を一束に結い、右目に眼帯をつけた壮年の男。無精髭に僧衣姿という、どこか飄々とした風体だった。
「お前さん、一人で歩くには、ちと物騒すぎる場所だぞ」
声音はぶっきらぼうだが、どこか温かみのある調子だった。
清次は軽くお辞儀しながら、静かに礼を述べた。
「……助けてくれて、ありがとうございます。危ないところでした」
「見たとこ、妙に落ち着いてるが……怪我はないな?」
「ええ、大丈夫です。ご心配なく」
「そりゃ結構。――とはいえ、血の臭いには気をつけろよ。妙なのがまた寄ってくる」
穆玄の気配が、そっと寄り添う。
『大丈夫か』
(うん、平気だよ)
清次は軽く息を吐きながら、やわらかく返す。血の匂いが鼻を掠めたが、表情に揺らぎはなかった。穆玄はしばし沈黙し、『そうか』とだけ返した。
男はちらりと才麒の顔を見て、ふっと口の端を上げる。
「――名前は?」
「……清次(せいじ)です」
六太がこの世界でも馴染むようにと名付けてくれた名。清次は、そう名乗るたびにどこか背筋が伸びるような気がした。
宥禅はにやりと笑うと、薙刀を肩に担いで言った。
「清次、ね。芯の通った、いい名だ」
「ありがとうございます。あなたは?」
「ああ、俺か。宥禅(ゆうぜん)ってんだ。あっちの町に、ちょいと用足しにな」
「……そうだったんですね」
「で、清次。ここから先に人の住む町がある。俺もそっちに戻るところだ。一緒にどうだい」
「……いいんですか?」
「いいも悪いもあるかい。こんな山道、子ども一人で歩かせるほど俺も冷たくねえよ」
清次は少し笑って、素直にうなずいた。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
宥禅は軽く笑い、薙刀を担いで歩き出す。清次もそれに続いた。
夕暮れの山道。二人の影が並び、ゆっくりと歩き出す。
遠く、山の裾に小さく町の姿が見えはじめていた。
***
これまで巡ってきた町や村は、どこも似たようなものだった。
荒れ果てた街道。荒野のような集落。
仮朝の法があると言いながら、それが守られている場面など一度として見たことがなかった。
むしろ、法を隠れ蓑に、役人たちは好き勝手に権力を振りかざしていた。
理由なき取り締まり。言いがかりに等しい徴税。
ある町では、盗みの濡れ衣を着せられた子どもが、広場の真ん中で鞭打たれていた。
別の村では、「村長が逆らった」として家ごと焼かれた一家がいた。
見せしめのように吊された者たちの顔には、恐怖よりも深い諦めの影が落ちていた。
声を上げる者はいなかった。
誰もが目を伏せ、ただ風のように通り過ぎてゆく。
そこには確かに“暮らし”はあったが、“生”の手応えはなかった。
――だからこそ、今、目の前に広がるこの町の光景は、異様だった。
古びた家々の間に、布を掛けた露店がぽつぽつと並ぶ。
行き交う人々は互いに小さく頭を下げてすれ違い、店先では短くも柔らかな声が交わされている。
戸口では老いた女が静かに掃き掃除をし、その傍らで子どもが石を積んで遊んでいた。
誰もがせわしなく動いているはずなのに、そこにはどこか余裕があった。
清次は思わず足を止め、ゆっくりとあたりを見渡した。
「……ここは、他とは、少し違いますね」
ぽつりと漏れた声に、宥禅は振り返らず、肩越しに答えた。
「ああ。ここらはな、今でも仮朝の規定を、きっちり守ってる」
「……そんな場所が、まだあるんですね」
「めったに無ぇけどな。けど、たまにはいるんだ。変わり者の州宰ってのが」
清次は、横顔を見やった。
「篤州侯(とくしゅうこう)が……?」
「ああ。昔から変わらねぇ。融通は利かねぇが、筋だけは通すやつだ。書面の向こうにある“人の暮らし”ってやつを、ちゃんと見てる」
その言いぶりには、どこか懐かしさが滲んでいた。
清次は続けて何かを問おうとしたが、その雰囲気に触れ、そっと言葉を引っ込めた。
宥禅も、それ以上は何も言わなかった。
「――っと、俺はこっちで用がある。清次、お前さんも、あんまりゆっくりしてんなよ」
「え?」
「日が落ちりゃ、妖魔が出る。この町は守られてるが、それでも夜道は油断できねぇ。宿は早めに取っとけ。建物の中にいれば、少しは安心だ」
「……わかりました。ありがとうございます」
「礼なんていらねえよ。それと――」
宥禅は少しだけ声を落とし、清次の肩を軽く指さした。
「もし何か困ったことがあったら、役所に来な。明日は俺もそこにいる。……町に不慣れな旅人ってのは、どうしても目立つからな」
「……はい。わかりました」
「よし。じゃあな」
軽く手を振って、宥禅は通りの先へと歩いていった。
その背中をしばらく見送ってから、清次は再び町の空気に目を向けた。
ふと、どこからか炊きものの匂いが漂ってくる。
空はすでに茜に染まり、町のあかりがぽつぽつと灯りはじめていた。
宿に荷を下ろしたあと、清次は町の通りを歩きながら、人々の様子を観察していた。
細い路地にも行き交う人の姿があり、擦れ違うたびに軽く頭を下げ合う仕草が自然と交わされている。
その空気に、清次はしばし足を止めた。
(……ここは、やっぱり、他と違う)
思わず漏れた心の声を押さえるように、歩を進めた。
通りの先で、ひとりの老婆が店先の箒を手に掃除をしているのが目に入った。
清次が近づくと、老婆は手を止め、細い目を細めて言った。
「旅のお方かい? まあ、こんな時世に、よう来なすったね」
「ええ。お騒がせしていないといいのですが」
「騒がしいのは外の方さ。この町は、まだ穏やかなもんだよ」
そう言って、老婆は手元の箒を見下ろし、少しだけ顔を緩めた。
「……ありがたいことさね。篤州侯がいてくださるおかげで、わたしら、こうして暮らしていられる」
「篤州侯が……?」
「昔から優しいお方でね。誰も来てくれないような時も、あの方だけはずっとここに来て下さる。……あの人が、いなかったら、この町もとうに潰れてたよ」
淡々と語る口ぶりの奥に、深い信頼と敬意がにじんでいた。
「何もかも不足してるってのに、それでも“人らしく暮らす”ことを守ってくれてる。……そういう人さ、篤州侯は」
清次は、軽くお辞儀をして礼を言った。老婆は再び箒を持ち直し、静かに店先を掃きはじめた。
次に声をかけたのは、小さな道具屋の店先で棚を並べていた若い男だった。
「昨日、あんたを助けたの、宥禅さんだったろ? あの人、篤州侯に拾われたんだ。おかげで今じゃ立派な役人だよ」
「……そうなんですね」
「ここらじゃな、どんな人間にも居場所をくれるんだ。昔、よそから逃げてきた者がいたときも、ちゃんと話を聞いてやってな。世間からつまはじきにされてる海客や半獣が、今じゃここの役人やってるんだから、たいしたもんだよ」
「それは……珍しいですね。他の町では……」
清次がそう言いかけると、男は少し声をひそめて言った。
「よそじゃ逆だろ。取り締まりと称して人を痛めつけるなんて話も珍しくない。俺の親戚が住んでる村じゃ、役人が盗人まがいの徴発してて、口答えしただけで家ごと焼かれたって話だ……」
「……」
「でも、うちは違う。ここでは“法”ってのが、ちゃんと人のためにある。篤州侯がそれを曲げないから。みんなそれを信じてるよ」
清次は深くうなずいた。
さらに、広場近くで薪を運んでいた中年の女性にも、話を聞くことができた。
「私も、この町に来たのは十年ほど前です。当時は、夫を亡くして、子どもを連れて逃げるようにして来たんです。どこに行っても冷たくされて……もう、生きる場所なんてないと思ってました」
「そうだったんですか…」
「でも、篤州侯が受け入れてくださったんです。“親が子を守るように、民を守るのが政だ”と。その言葉が……今でも支えになっています」
清次は胸の奥に、ゆっくりと熱のようなものが満ちていくのを感じた。
(……この人のような者が、王だったら)
自然と、そんな思いが浮かんでいた。
だが、胸の奥では、なぜか小さなざわめきも生まれていた。
それが何なのか、まだ清次にはわからなかった。
宿へ向かう道すがら、清次は何人もの町人と話を交わした。
子を抱えた母親、荷を運ぶ職人、道端で声をかけてきた老婆――
どの声にも共通して感じられたのは、篤州侯への厚い信頼。そして、この町の人々が、他の地方の民とは違い、どこか穏やかで、確かに“幸せそう”であるという事実だった。
それは、清次がこれまで見てきた、才国の他のどの地とも違う光景だった。
その夜、宿の一室。
清次は床に座り、穆玄と向かい合っていた。
扉の向こうでは虫の音がささやき、揺れる灯火が天井にぼんやりと影を描いている。
「……なんだか、すごく不思議なんだ」
ぽつりと、清次がこぼす。
「ここの人たちは、怯えていない。明日が来ることを、ちゃんと信じてる……それが、伝わってくるんだ」
穆玄は黙って、その言葉を受け止めていた。
「そして、篤州侯も。話には聞いた限り……本当に、すごい人だと思った。守っているんだ、“生きる場所”を。ああいう人が王だったらって、思たんだ」
静かな沈黙が、短く流れる。
清次は自分の掌を見つめた。
「……でも、それでも。
なぜだか、わからないけど……王を選ぶってことが、どうしようもなく、怖くなるときがある」
穆玄がゆっくりと顔を上げ、その瞳を真っ直ぐに清次に向ける。
「おかしいよね。選ぶのは天意なのに」
少しだけ笑みを浮かべようとして、それもすぐに消えた。
穆玄が低く、しかし確かに言った。
「お前は……選ぶことの重さを知っている。王を選ぶということの先にあるものを……感じ取っている。だからこそ、恐れる。……それは、誠実さの証だ」
清次は目を伏せ、しばし黙った。
心の奥でうずくようなざらつき。
それは決して、否定できるものではなかった。
「……俺は、信じたいんだ。選んだ相手が、民を守る人であってほしいって。選ぶことが、“救い”につながるって、信じていたい……」
穆玄の気配が、そっと寄り添った。
清次は目を閉じ、灯火の揺れる音を聴いていた。
それは不安でもあり、願いでもあり、まだ形にならない“祈り”のようなものだった。
***
清次は、町の一角にある役所の前まで来ていた。
入口の扉は半ば開いており、中から人々の話し声が漏れてくる。
中に入ると、広くはないがよく整えられた広間に、数人の役人が集まり何かを話していた。
その輪の中に、白髪を後ろに束ねた男の背が見えた。あのとき、薙刀を振るってくれた人物――宥禅だった。
(……宥禅さん?)
清次が立ち止まったのに気づいたのか、宥禅がちらりと振り返り、にやりと笑った。
「おや。清次じゃないか。……来てみたんだな」
「ええ。……ちょっと、町のことが気になって」
「そいつは結構。俺もちょうど今、来たとこでね」
飄々とした調子は変わらないが、その声には、どこか柔らかい響きがあった。
清次が宥禅のもとに近づいたところで、隣にいた初老の男が視線を向けた。
「……その方は?」
穏やかだが澄んだ声だった。
宥禅は清次に目を向けると、片手で軽く紹介するように言った。
「昨日、町の外で出くわした子だ。名は清次。危ないところだったから、町まで連れてきたんだよ」
「なるほど。……ご無事で何よりです」
男はそう言って、清次を静かに見つめた。
まなざしは柔らかいが、どこか深く、静かな湖面のような奥行きを感じさせるものだった。
(この人が……)
清次は、どこか自然に姿勢を正していた。
「……はじめまして」
「ようこそいらっしゃいました。私はここらをまとめている梁宗(りょうそう)と申します。」
男はそう言って、清次に頭を下げた。
清次もそれに倣って、軽く礼を返す。
「宥禅が人を連れてくるのは、珍しいことでしてね……よければ、少し静かな場所で、お話をしませんか。旅をしてこられた方の目から、この町がどう映ったか――聞かせていただけると嬉しい」
その声には押しつけがましさも威圧もなく、ただ静かに、まっすぐな好意と関心がにじんでいた。
(この人が……篤州侯)
清次の胸に、静かに波紋が広がる。
だが、その波紋の中に、“王気”と呼ばれるものの気配は――なかった。
***
静かな一室に、あたたかな茶の香りが満ちていた。
清次は卓を挟んで梁宗と向かい合っていた。格子窓越しの光が柔らかく差し込み、影を落としている。
梁宗は手元の湯呑に目を落としながら、ゆるやかに口を開いた。
「……この町を、旅人の目にはどう映りましたか?」
その問いに、清次は少し考え込むように目を伏せた。
「……とても穏やかで、整っています。人々は挨拶を交わし、表情にも余裕があって……生きている実感が、町の中に流れている気がしました」
そしてゆっくりと顔を上げ、梁宗を見た。
「正直に言えば、これまで通ってきた町や村とは、まるで別の国のようです。ほとんどの場所では、民は法に守られておらず、むしろ役人に怯えて暮らしていました。……人を裁くための法が、罰するためだけに使われていた」
梁宗の眉がわずかに動く。だが口を挟まず、静かに聞いていた。
「けれど、ここでは違います。法が“人を守るもの”として機能している。……それを見て、驚きました。まるで別の国みたいだと……」
「そう言っていただけるのは、ありがたいことです。……ですが、身に余るお言葉でもあります」
「……?」
「何かを守っているとき、人は気づかぬうちに何かを犠牲にしていることがあります。……この町の穏やかさも、きっとどこかで、何かを代償にしている」
その声音に、責める響きはなかった。
ただ、自嘲と誠実さが滲んでいた。
「それでも、人は生きなければならない。その“生”に意味を与えようと、日々、もがいております」
清次は静かにうなずいた。その言葉の一つ一つが、胸の奥に染み込むようだった。
「……それでも、こんな町を守ってこられたのは、すごいことです。皆さんが、梁宗さまを信頼しているのが伝わりました」
梁宗は目を伏せた。そして、わずかに口元を緩める。
「ありがたいことです。ですが……信頼というのは、時に重いものでもあります」
「重い……?」
「……それを裏切ってはならないと、思えば思うほど、人は時に、自分を見失うことがある。……私が町を守っているのか、町に守られているのか。自分でも、わからなくなるのです」
言葉の裏にある深い疲労と誠実さに、清次はじっと耳を傾けていた。
清次はふっと息を吐き、梁宗を見つめた。
「そういうことも、あるのですね……。でも、今の才国には、“ただ正しいことを貫く”だけでは通じない場所が多くあります。けれど、だからこそ……この国の荒廃は、もはや一人の力でどうにかできるものではないと、思います。けれど……それでも目の前の民を見て、耳を傾けて、そのうえで進むべき道を選べる人――そんな人が、必要なのではないかと」
梁宗はその言葉を、ゆっくりと、しかし深く噛みしめるように聞いていた。そして、茶碗をそっと置き、柔らかく微笑んだ。
「……あなたのような方が、選ばれる王であるなら――才国は、きっとよい国になります」
清次は、はっとして顔を上げた。梁宗の視線は、柔らかく、だがどこか深く、清次の核心を見つめていた。
「……っ」
「ご安心なされよ。申し上げた通り、私のような老いた地方官には、名を問うつもりなどございません。……ただ、長くこの地を預かってまいりましたので、少々、勘が利くのです」
清次は目を伏せかけ、けれどすぐにまっすぐ視線を上げた。そのまなざしに、確かな敬意が宿っていた。
梁宗は立ち上がると、扉をそっと開け、外の明かりを見やった。
「どうか、これからもご無事で。……旅を続けられるのでしたら、どうぞお気をつけて。貴方様の御身に何かあれば――それだけで、ことですからな」
穏やかな笑みを浮かべて語るその姿に、清次は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
そうして清次は、静かに部屋を後にした。
背を向けたその先に、再び歩むべき道がある。けれどその歩みの裏には、確かにひとつの灯火が灯っていた。
***
宿の窓から差し込む朝の光は、柔らかく部屋の床を照らしていた。
清次は荷をまとめながら、ふと昨夜の梁宗の言葉を思い出していた。
(「あなたのような方が、選ばれる王であるなら――才国は、きっとよい国になります」)
(……あの人は、俺が何者かを、きっとわかってた)
穆玄が、影のように現れ、窓辺に目を向ける。
「……行くのか」
「うん。……長居しても、目立つだけだし」
清次は肩に小さな荷を担ぎながら、まだどこか揺れる気持ちを抱えていた。
「……けれど、少しだけ、救われた気がするんだ」
穆玄が静かにまなざしを向ける。
「何がだ」
「……この国にも、ああやって誰かのために生きている人が、ちゃんといたってこと」
「当たり前のようで、珍しいことだな」
「うん、珍しい。でも、だからこそ……大事にしたいと思った」
廊下を下り、宿の入口まで来たところで、宿の主が気づいて声をかけてくる。
「お出立ですかい、若いの。あんたが来てくれたって話、篤州侯も喜んでおられたようでねえ」
「……そうですか」
清次は軽く笑みを返す。
(俺が采麒だと、明言したわけじゃない。けど、あの人には、何もかも見透かされていたような気がする)
町を離れるとき、露店の老婆が小さく手を振ってくれた。清次も立ち止まり、静かに片手を上げて応えた。
道の先には、また別の風景が待っている。
だが清次の胸の内には、昨夜までとは違う、ほのかな確信が宿っていた。
(俺は、やっぱり……選ばなきゃならない。なら、そのときは――)
(自分の信じたものに、恥じないように)
穆玄が隣に並び、空を仰いだ。
「次は、どこへ行く」
清次は小さく息を吐いて、笑った。
「――風の向く方へ」
二人の影が、朝の光の中に伸びていった。
ーーー
庁内の一室。
梁宗は、窓の外から吹き込む風に耳を澄ませ、手にした湯呑を静かに傾けた。残っていた茶をひとくち含み、そっと置く。
「……まっすぐな瞳でしたな」
穏やかな声が、独り言のように漏れる。
すると、部屋の隅から気配が動いた。
「だろうな」
姿を現したのは宥禅だった。無精髭をなでながら、少しばかり驚いたような、それでいて確信めいた笑みを浮かべている。
「まさか、あいつが……いや、なんとなく、そうじゃないかと思っちゃいたがな」
梁宗は返事をせず、ただ静かに宥禅を見やる。
宥禅は、目を細めると、確認するように問いかけた。
「采麒だったんだな?」
しばしの沈黙。
梁宗は言葉を返さず、ただ湯呑をそっと卓に戻し、視線をゆるやかに落とした。
それが、答えだった。
「……そうか」
宥禅はふう、と息を吐き、微笑を浮かべる。
「……あいつが選ぶ王なら――たしかに、俺たちも少しは未来に希望を持っていいのかもしれねぇな」
梁宗は静かにうなずき、ふと廊の向こうに目をやった。
「ええ。……きっと才は、よい国になりますよ」
その声は、確かな信念を湛えていた。
扉の外では、町の灯が一つ、また一つとともりはじめていた。
夕暮れの風が、静かに庁の中を通り過ぎてゆく。
宥禅は姉が考えたキャラです。
いいキャラなんですが、ちょっと厨二っぽいですよねw