息を呑むほどの静けさだ。
牢屋敷の一階は広々としているのに、不自然なほど音がない。
壁や床に染みついた何かが、声なき呻きとなって空気を満たしている。
ここには、未来を奪われた少女たちの息づかいが、いまだ消えずに残っている。
魔女因子を持つがゆえに監房へと連れられ、抗えぬ衝動と裁きの中で命を落としていった者たち――そして、その果てに「なれはて」と化した者たち。
牢屋敷は、そうした哀れな最期をすべて呑み込む場所だった。
――許せない。許せない許せないユルセナイ……
…冷静になれ。彼女たちと同じように狂気に呑まれてしまってはいけない。少なくとも、今はまだ。
深く息を吸い込み、渦巻く感情を押し沈める。
そして周囲に意識を向け直した、その瞬間――視界の端で黒いものが揺らめいた。
「見つけた……!」
近づくと、そこには古びた黒いリボンが落ちていた。
それは、お姉ちゃんの形見。
指先でそっと拾い上げる。布地はひどく汚れ、端は千切れかけている。
思わず立ち尽くした。
記憶が、胸の奥からあふれ出す。
牢獄に入れられるお姉ちゃんの姿。
魔女の殺人衝動に呑まれ、罪を背負わされていく姿。
裁判、そして処刑――ほどけて落ちていったこの黒いリボン。
――あの時、私が見た未来。
私が頼ってしまったせいで、お姉ちゃんは……。
その後悔が、今も心の奥を締めつける。
…………
いや。だからこそ、立ち止まるわけにはいかない。
ほつれた端を指先で整えながら、ゆっくりと髪に結わえていく。
かつてお姉ちゃんが結んでくれたときのように――けれど、今は自分の手で。
結び目を強く締めた瞬間、胸の奥で何かが静かに燃え上がった気がした。
もう、迷わない。
絶対に見つけ出す。お姉ちゃんをこんな目に遭わせた牢屋敷の黒幕を。
そして――全部、殺す。
ーーー
幻視で得た牢屋敷の断片的な記憶を頼りに、私は足を進め、そうして辿り着いた先で、それを見つけた。
闇の中でひっそりと眠っていたそれは、黒い銃だった。そっと近づき、指先でそれに触れる。
瞬間、幻視が走った。
それは、牢屋敷で生きたひとりの少女の記憶。
彼女は自らの魔法でこの銃を作り、最後まで戦い続けた。そして…自分の運命を悟ったのだろう。
この銃を、誰かがいつか見つけられるようにと、この場所に隠した。
装填数は六発。弾は一日一発分、自動で補充される。
私は目を開け、ゆっくりと銃を持ち上げた。
重さはほとんど感じない。それでも、冷たい金属の感触が掌に残る。
背負い紐を肩に通し、銃を背に収める。体の一部のようにしっくりと馴染む感覚があった。
――そろそろ地下に戻らないと。
私は一度も振り返らず、その場を後にした。
ーーー
牢屋敷の地下――ひんやりと湿った空気が肌を刺す。
監房前の通路は不気味なほど静かで、鉄格子が覗かせる暗がりが途切れなく続くさまは、墓標の列のようだった。私は壁際に身を潜め、周囲の様子をうかがった。
タイミングよく、通路の奥から鉄格子が順に開いていく音が響く。
解錠の合図だ。ゴクチョーの伝達があったのだろう。ラウンジへの集合――この牢屋敷で生きる者にとって逆らえない命令だ。
監房の中から、魔女候補の少女たちがぞろぞろと通路へ出てくる。顔をこわばらせている者もいれば、虚ろな目で俯く者、逆に強がるように前を睨みつけている者もいた。
少女たちは互いに様子をうかがいながら、足並みをそろえて歩いていく。
その先頭には――看守がいた。
2、3メートルはあろうかという異様な長身。
ぼろぼろの黒衣をまとい、顔は仮面で覆われていて表情は一切うかがえない。
その圧倒的な存在感に息が詰まりそうになる……のに、胸の奥でわずかな懐かしさがよぎった。
その理由が分からず、私は無意識に唇を噛んだ。
息を殺し、気づかれぬよう列の中へと紛れ込む。
その瞬間――看守がふとこちらに顔を向けた。
心臓が大きく跳ねる。――まさか、事前に探索していたことがばれた?
身構えたが、看守は特に反応もせず、少女たちの列を前へと進ませるだけだった。
――助かった。
通路のざわめきに紛れ、私は歩みを続けた――その矢先。
「……ナノカ?」
小さな声が耳に飛び込む。
私は反射的に振り向いた。
そんなはずない、”彼女”がここにいるはずが――。
目が合った瞬間、彼女の瞳がぱっと見開かれる。
「ナノカ! ……ほんとにナノカだっ!」
その声は震えていたが、確かな安堵が混じっていた。
「起きたら知らない場所で、ずっとドキドキして、落ち着かなくて……」
そこで言葉が途切れ、ふっと表情がやわらぐ。
「でも、ナノカにまた会えて……ほんとによかった!」
そう言いながら、彼女は他の少女たちの隙間を縫ってこちらに駆け寄ってくる。
――どうして……
言葉が、喉の奥からこぼれ落ちる。
「どうして貴方がここにいるの……?」
この牢屋敷に連れてこられるのは、私やお姉ちゃんのように、魔法を使える者だけのはず。
彼女は魔法を使えない。普通の人間だ。
だから、あり得ない。あり得ないはずなのに。
私の問いに対して、彼女は困ったように首をかしげ、わずかに考え込むような表情を見せる。
だがすぐに顔を上げ、迷いのない声で言った。
「ナノカを助けたいって、思ったの!」
一歩、また一歩と私に近づきながら、その瞳をまっすぐこちらに向けた。
「だから――ここまで来ちゃったのかも」
そう言いながら、彼女は悪戯っぽく笑う。
――やめて。
そんな眩しい笑顔を、私に向けないで。
私は、復讐のためにここへ来たの。
その決意は、揺らいではいけない。
それなのに、その光は静かに、私の心を削っていく。
「……ヒヨリ」
ーーー
ヒヨリと呼ばれたその少女は、どこか夢見がちな雰囲気をまとっていた。
とはいえ、それは彼女に限ったことではない。
牢屋敷に囚われた少女たちは、囚人でありながらも、それぞれ個性的で可愛らしい衣装を着せられている。
ヒヨリの服装も例に漏れず、生成り色のワンピースが柔らかな印象を引き立てていた。
膝丈のスカートは歩くたびふわりと揺れ、袖や裾には細かなレースがあしらわれている。
胸元には薄紅色のリボンが結ばれ、その中心で、小さな星のペンダントが静かに揺れていた。
繊細な銀のきらめきをたたえたその星は、彼女の幼さに不思議な儚さを添えていた。
小柄で華奢なその体は、見る者に思わず守りたくなるような印象を与える。
髪はセミロングでややウェーブがかかり、歩みに合わせて優しく弾む。
そんな彼女の姿は、この異様な空間にあって、まるで物語のページから抜け出してきたようだった。
ーーー
「ナノカを助けたいって、思ったの!」
「だから――ここまで来ちゃったのかも」
口にしてから、ヒヨリはちょっとだけ首をすくめた。
ナノカ、変に思ったかな……ちょっと変なこと言っちゃったかも。
でも、これだけは本当なの。
ナノカを助けたい――その気持ちは、ぜったい本当だから。
「……ヒヨリ」
ナノカは一度、何か言葉を口にしかけたが、それを飲み込むように目を伏せた。
そして、少し間を置いて言う。
「そう……後悔しても、知らないから」
ナノカはそう小さく呟くと、踵を返して歩き出した。冷え切った地下通路の空気に、その背がゆっくりと遠ざかっていく。
(後悔…?)
ナノカの態度はあの頃から変わらず、素っ気ないままで。
それでも――こうしてまた、彼女に会えたことが、ヒヨリとってはただただ嬉しかった。
できることなら、昔みたいに笑い合いたいと、そう思った。
「ナノカ……」
ーーー
看守の誘導により、少女たちは通路を進み、やがてラウンジへと辿り着いた。
そこは、寒々しく無機質な地下とは打って変わり、どこか悪趣味な華美さに満ちていた。高い天井からは重々しいシャンデリアが吊るされ、床には色褪せた絨毯が敷かれている。使い古されたソファと暖炉が設えられ、壁際には何の冗談か、本物のボウガンまでが飾られていた。
どうやら全員がラウンジへと入室したようだ。通路へと続く入口の前には、看守が無言のまま立ち塞がっている。
集められた少女たちの数は、十四人。
部屋の隅で、まるで亀のようにうずくまっている少女。鼻歌を口ずさみながらソファや装飾の配置を勝手に変えている奔放な少女。意味もなくキレ散らかしている、黒いマスクをつけたヤンキー風の少女。空気の悪さに露骨な嫌悪を示し、鼻をつまむ猫耳の少女。アンニュイな溜息を漏らしている、露出度が高い少女。傍観者めいて笑っている、妖艶な少女――。
ナノカは、そのひとりひとりを壁際から静かに観察していた。
ヒヨリは、そっとその隣に立つ。小さく息を吸い、ちらりと視線をナノカへと向けた。
そこでようやく、彼女の姿がいつもとはまるで違うことに気づく。
黒一色の衣装に、光沢のあるリボンとレース。
腰に巻かれたベルトと、袖口を締めるような革のストラップが、どこか軍服めいた重厚さを漂わせていた。
そして背中には、異様なほど大きな銃を背負っている。
(そういえば、わたしが今着ている服も、見覚えのないものだった。わからないことだらけだなぁ。)
そんな風に考えていたとき、不意に部屋中へ響き渡るほどの大きな声が空気を裂いた。
「いや〜、すごいですねっ!」
思わず声の方を向くと、水色の髪の少女が、場にそぐわぬほど楽しげな笑顔を浮かべていた。
「牢屋で目覚め! 化け物に見張られていて! なんかすごいことが起こっているのを感じます! 高まっちゃいますよね〜!」
彼女は興奮気味にまくしたてながら、隣にいた少女――白と桜色の髪が混ざった少女――の手を両手で握り、ぶんぶんと上下に強く振っていた。
(ちょっと痛そう)
「なあにが、“高まっちゃいますよね〜”ですわ!」
甲高い声が響く。発したのは、お人形のように可愛らしい、小柄な少女。だが、どこかぎこちないその口調が妙にひっかかる。
誰かが、くすっと笑い声を漏らした。
途端、小柄な少女の頬がかぁっと真っ赤に染まっていく。
「今、笑ったのは誰でやがりますの!?」
憤然と声を上げる彼女の前に、ひとりの少女が静かに歩み出た。
「――いや、すまない。少し変わったしゃべり方だと思ってね」
その少女は、すらりとした長身。中性的な容貌に冷静な瞳をたたえ、腰にはレイピアを携えていた。まるで騎士のようなその佇まいに、少女たちのざわつきがぴたりと止まる。誰もが息を呑み、彼女から目が離せなかった。
「みんな初対面だと思うから、よかったら自己紹介をしていかないか?」
その凛とした声に導かれるように、少女たちの自己紹介が始まった。
騎士のように凛々しい少女の名は“蓮見レイア”。
そのレイアにお嬢様口調を笑われ、頬を紅潮させて怒っていたのが“遠野ハンナ”。
場の空気を読まず、明るく騒ぎ立てていた水色髪の少女は“橘シェリー”。
そして、そのシェリーに腕をぶんぶん振られていたのが“桜羽エマ”だ。
エマが自己紹介している最中、ヒヨリはふと、彼女の膝から血が流れていることに気づく。
(大丈夫かな……気づいてないかもしれないし、教えたほうが……)
声をかけようとしたその時、エマの傍らに一人の少女が駆け寄った。
“氷上メルル”と名乗ったその少女も、どうやらエマの怪我に気づいたらしい。
次の瞬間、驚くべき光景が広がった。
メルルがそっとエマの膝に手を当てると、その指先が淡く光り、傷口がみるみる塞がっていったのだ。
(もしかして……ナノカと同じ、魔法の力?)
気になるところではあったが、ひとまず自己紹介が続く。
“沢渡ココ”、“佐伯ミリア”、“宝生マーゴ”、“紫藤アリサ”、“夏目アンアン”――。
やがて、ヒヨリたちの番になった。
「……黒部ナノカ」
(えっ、ナノカ、それだけ?)
タイミングを外され、ヒヨリは慌てて口を開く。
「わ、わたし…
なんとか最後は笑顔で言い切ることができた。胸の奥で、ほっと小さく息をつく。
続いて二階堂ヒロ――さっきラウンジへ向かう道中でエマと口論していた少女――の自己紹介も終わり、これで全員が名乗った……と思われたが、ひとりだけ輪に加わっていない少女がいた。
先ほどから勝手に室内の配置を変えたり、物色をしたりしていた少女だ。
レイアに促され、彼女は“城ヶ崎ノア”と名乗ると、またすぐ室内の物色へと戻っていった。
少女達の自己紹介が終わったちょうどその時――。
天井付近の通気口から、ばさりと羽音が落ちてきた。
現れたのは、監獄内のモニターで喋っていたあの化け物フクロウ。
名前はたしか、ゴクチョ―。
「……じゃあ説明しますねぇ」
羽をばたつかせ、やけに面倒くさそうに話し始める。
ゴクチョ―の話によると――
ここに集められた少女たちは皆、“魔女”になる因子を持っているらしい。
その“魔女”は、この国に災厄をもたらす悪とされ、偉い人たちの決定により、危険視された存在。
全国検査の結果、私たちからはその因子が大きく検出された――だから、この牢屋敷への収容が決まったのだ。
いずれ“魔女”になる可能性があるとなれば、野放しにはできない。
要するに、この世界に害をなす悪者ってこと……らしい。
「皆さんにはこの春から囚人として生活してもらいます。
……あー、一応救済がなくもないんですけどね。【大魔女】さえ見つかれば皆さんの呪いを……あ、でも期待されても困るので忘れてください」
(ずっとここで暮らさなきゃいけないってこと……?
でも“大魔女”っていうのを見つければ、何とかなるかもしれない……?)
ゴクチョ―の説明はまだ続く。
「あっ、ちなみに看守はかつてここに収容された者が魔女になった姿です。【なれはて】と呼ばれています。多くの魔女になった者は処刑されますが、与しやすい者はマインドコントロールしてます。逆らったら殺すように洗脳してしまったので……ほんとすみません、逆らったら死んでください」
出入口を見張る黒衣の化け物へ、少女たちの視線が集まる。
その時、ヒヨリは気づいた。
隣にいるナノカの拳が、ほんのわずかに震えていることに。
(ナノカ…あの看守さんを見て、なにか…)
囚人。魔女。なれはて。
今なら胸の奥で引っかかっていたものの正体が、わかりそうな気がする。
ヒヨリは、過去の記憶を呼び起こした。
――ナノカのお姉ちゃんが、行方不明になった。
ナノカは自分の部屋に閉じこもってしまった。あの時と同じだ。あの時、私はナノカを助けることができなかった。助けてくれたお姉ちゃんは、もういない。
今度は私が、ナノカを助けなくちゃ。
私は何度も家に通って、部屋の中のナノカと話そうとした。
何度か部屋に入って話すことはできたけど、その瞳は、ここではないどこかを見つめているようだった。
「お姉ちゃん…お姉ちゃん…」
うわ言のようにその名を繰り返し、ときどき何かに取り憑かれたみたいに、本やパソコンに向かって必死に調べ物をしていた。
結局、その時からナノカとまともに話せないまま、現在に至る。
(…って、感傷に浸っている場合じゃない)
気になるのは、その時ナノカが何を調べていたのかだ。
ナノカが“幻視”の魔法を使えることをヒヨリは知っている。他ならぬナノカ自身から教えてもらったことだ。
その力を使えば、普通なら知りようもないことを知ることができる。
――例えば、私が昨日食べた晩御飯のメニューだとか。
もしかしたら、ナノカはお姉ちゃんの行方に何らかの手がかりを掴んでいたのかもしれない。
もしも、お姉ちゃんも私たちと同じように、この牢屋敷にさらわれてきたのだとしたら?
そして、ゴクチョ―の話が本当なら……お姉ちゃんは“魔女”になって、あの看守さんのような姿に――?
(うーん…だめだ。わかりそうで、わからない)
ひとつだけ確かなのは――あの看守さんも、かつては私たちと同じ、囚われの少女だったということ。
元に戻す方法は…ないのかな。
「間違っている。私は悪じゃない」
不意に鋭い声が響き、ヒヨリは思考を中断される。
そこでようやく、ヒヨリはラウンジの空気が張り詰めていることに気づいた。
声の主は、鋭い赤い眼差しの少女――二階堂ヒロだ。
「この世界を正すことができるのは、私だけだ」
「私はこの世の悪を排す。まずは――」
ヒロは暖炉の脇に立てかけられていた火かき棒を掴み取る。
室内の緊張が一気に跳ね上がる。
「貴様だ! 化け物!」
ダッ――と地を蹴り、一直線に駆け出す。
濁った瞳が狙いを定めたのは…
(看守さん……!? ど、どうしよう)
あの人は、きっと私たちと同じ――かつては囚われの少女だったはず。
だから…酷いことしちゃだめっ…!
ヒヨリは――
① ヒロの方へと手を伸ばし、必死に止めようと駆け出した。
② ただ立ち尽くし、息を呑んだまま、その光景を見守るしかなかった。