人生において最も心臓に悪い瞬間はいつだろうか。
相場が暴落した時? 投資先の企業が不祥事を起こした時? それとも、国家そのものの法案がひっくり返った時だろうか?
否、断じて否だ。
どれだけ莫大な資産が吹っ飛ぼうとも、俺の心拍数がここまで跳ね上がることはなかった。
「……落ち着け、俺。深呼吸だ…………」
ライデン市内で最も権威と設備を備えた総合病院。
その特別室の前の廊下で、俺はまるで檻に入れられた熊のように行ったり来たりを繰り返していた。
手の中の懐中時計は、すでに三十分前から同じ時間を刻んでいるように錯覚する。
大富豪、ノア・グラジオラス。
戦時公債で巨利を得て、郵便社を上場させ、保険市場を独占し、ベビーカー工場から出版事業まで手掛ける冷徹なる若き天才投資家。
そんな肩書きなど、今はただの紙切れ以下の価値。
「ノア様、どうかお座りになって……」
「座っていられるか! エレンが、エレンが今、命懸けで戦っているんだぞ!」
控えていた護衛や使用人の言葉も耳に入らない。
扉の向こうからは、先ほどから陣痛に耐えるエレンの苦しげな声が微かに漏れ聞こえてくる。
その声を聞くたびに、俺の心臓はぎゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。
自分の全財産を投げ打ってでも、彼女の痛みをどうか肩代わりしてやりたい。
だが、札束ではどうにもならない領域が、この世界には残酷なことに確かに存在するのだ。
——その時だった。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
廊下に、力強く、そしてこの世の何よりも美しい生命の産声が響き渡った。
「ッ……!」
扉が開き、疲れ切った、しかし安堵の笑みを浮かべた老主治医が顔を出した。
俺が胸ポケットに五十万ライデンの小切手をねじ込んだ、あのベテラン主治医だ。
「グラジオラス卿……おめでとうございます。元気な赤ん坊です。母子ともに、極めて健康ですよ」
「あ……ああ……神よ……!」
俺は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、特別室へと転がり込んだ。
清潔なシーツに横たわるエレン。
彼女は汗だくで、ひどく疲弊していたが、その腕の中には小さな小さな、生命が抱きしめられていた。
「ノア……君」
「エレン! よく頑張ったな、本当に、よく……!」
俺は医療ベッドの傍らにひざまずき、彼女の額にそっと口付けた。
エレンは弱々しくも、最高に愛おしそうな笑顔を浮かべ、腕の中の小さな命を俺に見せた。
「抱いてあげてください。私たちの……子供ですよ」
恐る恐る、壊れ物を扱うように両手を差し出す。
戦場の血など触れたことのない、ツルツルの手。
これまで莫大な札束ばかりを動かしてきたこの手に、柔らかく、ひどく温かい重みが乗った。
「……あぁ」
言葉にならなかった。
ただ、安堵感でポロポロと涙がこぼれ落ちた。
どんな投資の成功も、どんな莫大な配当金も、この瞬間の圧倒的な幸福には遠く及ばない。
そして、この幸福は俺たちだけのものじゃない。
「ノア様、C.H郵便社のホッジンズ社長より電信が入りました。——ヴァイオレット様も、無事に出産されたとのことです」
そんな護衛の報告に、俺とエレンは互いに顔を見合わせて微笑んだ。
同じ月、同じ週。
まるで申し合わせたかのように、エレンとヴァイオレットは、新しい命を世界に誕生させたのだった。
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それから、数ヶ月の時が流れた。
春の陽光が差し込む、グラジオラス邸の子供部屋。
俺は、揺り籠の中ですやすやと眠る我が子の寝顔を、ブランデーグラス……の代わりに、温かい紅茶の入ったティーカップを片手に眺めていた。
揺り籠の傍らには、一冊の真新しい『絵本』が。
タイトルは『愛してるの言葉』。
著者はエリカ・ブラウン。
そして、テキスト監修の欄には『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の名前が刻まれている。
C.H郵便社の出版部門が満を持して世に送り出したこの絵本は、今やライデン中の親たちの間で爆発的な大ヒットを記録していた。
手紙の代筆で培われた、人の心に寄り添う温かな言葉の数々。
それがエリカの優しい物語と合わさり、文字を覚え始めた子供たちの心に『愛』の概念を柔らかく植え付けていく。
我が子も、エレンがこの絵本を読み聞かせると、とても嬉しそうに手足をバタバタさせるのだ。
「……お見事」
俺は絵本の表紙をそっと撫でた。
かつて、俺の父親の世代が起こした大戦。俺はその戦争の裏で、戦時公債を回して巨万の富を得た。
言うなれば、俺の資産の根源は『血塗れた札束』。
人の命が消費されることで膨れ上がった金。
だが、俺はその札束を、ベビーカー工場に変え、そしてこの絵本を作るための印刷機に変えた。
——過去は消えない。
——だが、今という未来は変えられる。
血の匂いがした札束は今、確実に「子供たちの笑顔」と「平和なインフラ」へと変換されている。
眠る我が子の柔らかな頬をつつんと突きながら、俺は深い満足感と、少しの誇らしさを噛み締めていた。
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そして迎えた、ある休日の午後。
ライデン市内の中心部へと続く、美しい並木道。
俺のロビー活動——。
もとい、政治家への『重くて甘いお菓子』の配布と、グラジオラス保証からの莫大な寄付金によって、この辺りの道路は完全に整備されていた。
ガタガタの石畳は平らで滑らかな舗装路に変わり、無謀な馬車や自動車が入り込めない安全な歩行者専用の遊歩道が続いている。
「本当に、素晴らしい道になりましたね、ノアさん」
「ええ。これなら、どんなに歩いても疲れません」
前を歩くのは、ゆったりとした春色のワンピースに身を包んだエレンと、同じく柔らかい印象の服を着たヴァイオレットだ。
二人は、俺の工場がコスト度外視で作らせた最高級のベビーカーをそれぞれ押しながら、楽しそうに談笑している。
「きゃっきゃっ」
サスペンションとゴムタイヤが振動を完璧に吸収し、赤ん坊たちはベビーカーの中で不快な思いをすることなく、ご機嫌に景色を眺めていた。
「どうです少佐殿。ベビーカーの押し心地は」
「……素晴らしいとしか言いようがない。ヴァイオレットも、子供が全く泣かないとひどく喜んでいる」
俺の隣を歩くのは、ギルベルト少佐殿だ。
軍服ではなく、仕立ての良い落ち着いた私服を着た彼は、どこか憑き物が落ちたように穏やかな顔つきになっていた。
「それにしても、あの軍の英雄と謳われた少佐殿が、休日にベビーカーを押す奥様の後ろを歩く日が来るとは、世間は思いもしないでしょうね」
「よしてくれ。私など、ただの不器用な男だ。……それに、君だってそうじゃないか? ライデンの経済を牛耳る若き大富豪が、子供の泣き声一つで右往左往していると、ホッジンズから聞いたぞ」
「ぐっ……あのヒゲ社長め、余計なことを」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
相場の動きなら数年先まで見通せる自信はあるが、我が子の機嫌だけは一秒先すら読めやしない。
夜泣きに付き合って、翌日の取締役会で居眠りしかけたのは内緒であり。
俺たちは前を歩く二人の女性の後ろ姿を見つめた。
エレンは振り返って俺に無邪気な笑顔を向け、ヴァイオレットも少佐殿を見て、どこまでも深く、優しい微笑みを返す。
かつて戦場で血に染まった少佐殿の隣に、そして、愛を知らずに兵器として生きたヴァイオレットの隣に、今、新しい命が息づいている。
「……少佐殿」
「なんだい、グラジオラス卿」
並木道から吹き抜ける春風を感じながら、俺はぽつりとこぼした。
「相場で勝つより、法案を通すより……子育ての方がよっぽど難しい」
「同感だ。軍の作戦を立てるよりも、赤ん坊の寝かしつけの方が難易度が高い」
「でしょう? でも、彼女たちはそれをやってのける。夜中だろうがなんだろうが、子供のために起き上がる。男の理屈や力なんて、まるで通用しない」
俺の言葉に、ギルベルト少佐殿は深く頷いた。
「ああ。私たちは……なんというか。お互い、愛する女性には敵わないな」
「ええ、全くその通り。完敗ですよ」
男二人は、呆れたように、しかしこれ以上ないほどの幸福感を漂わせて笑い合った。
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——さらに数年の時が過ぎた。
グラジオラス邸の広大な庭。
青々と茂る芝生の上を、二つの小さな影が歓声を上げながら駆け回っている。
「まてー!」
「きゃあ! つかまらないよー!」
元気いっぱいに走る我が子と、その背中を追いかける、同じ年のヴァイオレットと少佐殿の子供。
転んでも痛くないように手入れされた芝生の上。
庭の向こうに見えるライデンの街は、自動車事故を未然に防ぐインフラが整い、教育水準は底上げされ、どこまでも安全で豊かな世界が広がっている。
「あなた。お茶が入りましたよ。……また、お仕事の書類を放ったらかして」
テラスのテーブルに、エレンが呆れたような顔でティーセットを置いた。
その左手にはピンクダイヤモンドが輝き、彼女の笑顔はあの隠れん坊をしていた頃と何も変わらない。
「仕事なんて後回しだ。今は、私たちの最高の宝物を眺めるのに忙しい」
俺は椅子に深く腰掛け、エレンの淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。
完璧な温度と、絶妙な甘さ。
これだけは、どんな一流ホテルのシェフにも真似できない、俺だけの特権だ。
「……本当に、平和ですね」
エレンが俺の隣に立ち、庭で遊ぶ子供たちを見つめて目を細めた。
俺は彼女の腰にそっと手を回し、同じように未来を見つめる。
戦争は終わった。
あの時、俺が手にした血塗られた札束は、確かにこの景色を作るための礎となった。
手紙は、人と人の想いを繋ぐ。
ドールたちが紡ぐ『愛してる』の言葉は、人々の心を癒し、寄り添うだろう。
だが、その手紙を運ぶための安全な道を作るのは。
愛する人たちが、明日も笑顔で生きていける確実な未来を作るのは——。
「パパ! みてみて! お花つかまえた!」
我が子が、小さな手に春の野花を握りしめて、太陽のような笑顔でこちらに走ってくる。
俺は立ち上がり、両手を広げて、その小さな命をしっかりと抱き止めた。
ああ、やはり——。
この世界を平和にするのは、一つではない。
二つ以上が合わさって初めて生まれるもの。
「——札束で道を。手紙で人を」
ーENDー
読了、ありがとうございました!
偉大なる原作に大いなる祝福を。
本作を読んで頂いた皆様に感謝を。
遅くなりましたが真・完結です。
いつかの物語で会いましょう
————それでは、また。