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かつての少女は、錆びついた中年女に変わっていた。顔の筋肉は凝り固まり、肌は土気色と化している。何の感情もなく、私はそれを見下ろした。
「早く花を」
声をかけてきたのは、少女の母親だ。私は手に握らされた一輪の花を遺体に添えると、さっさとその場を後にした。後ろですすり泣く声が聞こえてくる。彼女にも、涙を流してくれる友人なんてものがいたんだな、と感慨深い。
その感慨も、ものの数秒で消え失せた。私の関心は口元へと移り、煙草が恋しくなる。こんなしみったれた場所にいると、気が滅入ってしまう。
私は葬儀場を出て、煙草を取り出した。ジッポーで火を点け、紫煙で腹を温める。煙る視界の向こうで雨がぽつぽつと降っていた。逃れた先でもしみったれてやがる、と毒づく。
そうしていると人がやってくるのが見えた。背の高い男と幼い少女のようだった。
男は黒いスーツを着て、髪を綺麗に撫でつけていた。黒い傘の下に隠れた顔は白い。しかし、同じ色の傘で雨をしのぐ少女の肌はより白く、幽霊にも思えた。彼女のほうは簡素な黒いワンピースに身を包んでいる。
じっと見つめていたら、自然と彼らを迎えることになってしまった。間近で見てようやく気づく。青年の顔は先ほどの亡骸とよく似ていた。
「久しぶりですね」
すっかり声変わりした声で彼が話しかけてくる。私はポケットから携帯灰皿を取り出し、吸い殻を入れた。
「ああ。……大きくなったね、
彼が色素の薄い瞳で私を見つめ、微笑んだ。隣の少女がそれを眺めている。まるで絵画から抜け出たかのような二人だった。
「母さんは、これから?」
静が傘を閉じつつ訊ねてくる。
「そうだろうな」
「行きます?」
「そうしようと思ってる」
どこか軽い会話に、私は当事者ながら違和感を覚えた。頬が歪む。そして思い知らされる。私にとって、「かつての少女」とは文字どおりの意味になっていたことを。
「わたしたちは?」
黒髪の少女が初めて口を開く。舌足らずな、甘ったるい声だった。ただ、思っていたよりも年齢は上なのかも知れない。彼女は静に対して堂々と接している。
「いちおう、行っておこうかと」
「そう」
静の返事に少女は何でもない様子で答えた。
「……その子は?」
問いかけると、静が私に視線を向ける。
「ああ、紹介が遅れました。彼女は友人のめぐみ。これまで、ろくに会ってもなかったもんだから、一人じゃ来づらくて」
彼の骨ばった手が少女の小さな頭に置かれた。二人の親密な様子に胸の奥がちくりと痛む。
「だから、おじさんと会えて良かった。知ってる人を見て、安心しました」
彼の笑みは、かつての彼女の微笑みによく似て、しみったれた中でも鮮やかに映った。雨の音が、遠のいた。
***
私が彼女と出会ったのは子供のころだった。私が子供なのだから、彼女も子供で、それもより幼い子供だった。季節は盛夏で、太陽の輝きが思い出を鮮やかに蘇らせる。
忘れもしない彼女――
見た目は完璧に近い美貌を持っていながら、彼女は頭があまり良くなかった。だから不道徳で、いたずらばかりしていた。私は格好の餌食だった。
「あんた、ぐずなのよ。すぐ騙されるし」
家の庭に作られたブランコを揺らして、夕月が言っていた。その口の端には皮肉めいたものが宿る。その唇の形に私は悦んだ。私が道化を演じるごとに彼女はどんどん意地が悪く、残酷になっていく。いたずらも過激になり、大人たちを悩ませた。それを知ると夕月は喜んだ。
そんな彼女が、私は好きだった。煌めく夏の日のことだ。
***
「静、よく帰ったねぇ。今まで何してたんだい?」
夕月の母が静の姿に目を細めている。少し離れたところからでも、彼女がとても嬉しがっているのがわかった。たった今、娘の遺体が焼かれているというのに。
私は誰とも会話せず、黙々と料理を食べ進める。周囲は故人とは何ら関係のない世間話に花を咲かせていた。昔は夕月を可愛がっていた私の父ですら、彼女の話題を出そうとしない。ちなみに母は通夜にも出向いてこなかった。
彼女のことで泣いていた友人らはというと、一番端の座席に追いやられ、相変わらずしみったれた様子でうつむいている。そこから目を背けると、もう一度、私は静のほうを見た。彼は祖母の質問に根気強く答えていた。
「おばあちゃんも大変だっただろ。手なんて、こんなにカサカサにしてさ」
「いやいや、あんたが帰ってきたなら、そんな苦労も全部吹っ飛んじまったよ。もう会えないと思ってたからね……」
静は曖昧に笑い、祖母の手をぎゅっと握っている。どこにでもいる青年の姿だ。彼は確か今年で二十八歳になる。その割にははにかんだ笑みは幼く、人なつこく、最後に会った日と何ら変わりがなかった。
「お前、彼と話したのか?」
静を見つめていると父が話しかけてきた。既に赤ら顔で、酒臭い。
「ああ、少しだけ」
「どんな様子だった? まあ……あんなのでも、彼にとっては、たった一人の母親だからな」
父は横目で夕月の遺影を見やった。そこに映っている夕月にかつての美貌はなく、ただ青白い顔のすさんだ中年女に過ぎない。これだから、私は見ないように努めていたのに。もっと良い写真はなかったのか、と思うと同時に、彼女との思い出まで冷めていくのがわかった。
「……そんなに、落ち込んでいる風でもない。ただ、ここに来にくかったとは言っていたね。それで隣の彼女についてきてもらったとか」
「あの子は静くんの恋人か?」
父の視線の先で、華奢な少女が料理を少しずつ箸で摘んでいる。あんまり細いので、用意された分を全部食べきれそうもなかった。
「わからない。仲は良さそうだがね」
彼女が食べきれない分を静が引き受けている。その表情は祖母に向けるものより、また母である夕月へのものよりも、穏やかで親しみが溢れていた。
それを眺めている祖母も満足げなのが、また――気に障る。彼女にしてみれば、これまで行方もわからなかった孫が良い関係を築いていそうな少女を連れてきたのだから、無理もない話ではあった。私だって、状況が違えば微笑ましく感じられただろう。
「静くんもそんな年頃か。一時はどうなるかと思ったが、上手くやっているようで安心だ」
「ああ、まあ、そうかもなぁ」
刺身を摘んで口に運ぶ。今日は父が車を運転できないため、酒は飲めない。今ほど酒で気を紛らわせたいときはないのに。
静には、美しかったころの夕月が宿っている。あの残酷さは持ち合わせていないが、反対に、清廉とした雰囲気をまとっていた。もちろん幼いころと比べたら、いくらかそれも軽減したが、それでも私は彼を忘れることはなかった。夕月が私の愛する少女でなくなったときから、彼が私の愛しい「少女」となったから。
私は自分の胸が震えるのを感じた。長年閉じこめていた想いが溢れ出てしまいそうだった。
***
夕月はやがて年を重ね、幼い少女ではなくなっていった。彼女の中にあった、訳のわからぬ残酷性は、つまらぬ理由による陰湿さに変わった。それは嫉妬であったり、恋愛感情からであったり、様々だ。そのたびに夕月はそこらのどこにでもいる女に成り下がった。
「あたしは自分の思いどおりにしなきゃダメなの」
そんな聞き慣れた台詞を言う少女は、私の知らない女の顔をしていた。そして、私の夕月はこの世から消え去った。きっかけは私が彼女に黙って恋人を作ったことだ。
恋人と言っても、夕月の代わりだった。相手には悪いと思いつつも、私は恋人に夕月の面影を求めていた。髪に、目に、唇に、首筋。ふとした仕草まで。だが、それは本当に夕月だったのか?
「あたしの機嫌を損ねるだなんて」
夕月が私をなじったとき、彼女の本性を見た気がした。夢から覚め、現実に投げ出される感覚。ある晩、夕月は私の上に乗りかかってきた。
「あたしから離れたら嫌」
そう言って唇を近づける夕月に、私は抵抗した。あんなにも求めていた少女が目の前にいたのに、身体が勝手に動いていた。夕月の瞳が見開かれる。月明かりに照らされる彼女は、まるで老婆のようだった。彼女は何度も私にすがったが、それを振り払った。
「待って」
と言う夕月を背に、私はその場から離れたのだ。それで私と彼女の関係は終わった。終わったのだから、その後の彼女のことは知らない――訳にはいかなかった。いとこ同士であるため、彼女の話はどうしても耳に入ってくる。
曰く、彼女は学校に行っていないだとか。精神が危うくなっているとか。そんな暗い話題ばかりが風の便りで届いた。そうなると私も肩身が狭くならざるを得ない。
そのうち、夕月はどこぞの金持ちの男と無理に結婚させられた。見た目だけは綺麗なので男も騙されたのだろう。結婚式は親族だけでこじんまりと行われ、離婚する際は大騒動となった。結局、彼女に共同生活はできなかった。だからこそ悲劇が起きる。
彼女とその旦那の間には息子が一人いた。それが静だ。彼は夕月のもとで育てられることになったが、彼女にまともな子育てなどできるはずもない。実質的に静を育てたのは祖母だった。故に、祖母が彼を可愛がるのは当然だし、彼が祖母に心を許すのも当たり前である。
では、私は静にとって何なのか? その答えは、上書きされた夏の日の思い出の中にある。
***
酔いつぶれた父の介抱を親戚に任せ、私は車を動かしに向かった。外は寒く、息が白く染まる。赤くなった手を車のドアにかけると、ふと空が視界に入った。窓に映った夜空が、やけに綺麗に見えたのだ。
震える唇を上向け、冷たい空気を吸い込む。瞳がひりひりと痛んで乾いていった。
そういえば私は夕月のために涙を流していない。唇の端が上がる。あの少女との思い出から、どこまで遠くに来たというのか。歳ばかり取って、中身はちっとも変わっていないというのに。
だから、胸の痛みは覚えているのに。
と、私は背中に這い上がってくる悪寒を感じた。
何か湿っぽいものに絡み取られ、身動きが取れない。静寂の中でその感覚だけに支配される。
何とか目玉だけを動かして、窓に映る影を見た。それは、闇の中で髪を風になびかせる女だった。たっぷりとしたワンピースに身を包み、前屈みになって寒さに耐えている。その姿には、夏の日の少女の面影――。
「夕月?」
喉から絞り出すようにして、彼女の名を呼ぶ。しかし、その瞬間に少女――実際には、そこから歳を重ねた女性――は身を翻して去っていった。振り向こうにも身体が動かない。
長い髪が、あの日の思い出をくすぐるようにして消えていく。車の窓から彼女がいなくなると、私はようやく指先を動かすことが出来た。ふらりと身体が前に倒れる。
ガラスの窓は手が凍りそうに冷たい。あの日の熱をも消し去っていくんじゃないかと、不安になるほどに。
それにしても、彼女は誰だ?