3
「また会ったわね」
休みに街をぶらついていると、聞き覚えのある声が呼び止めてきた。声の主は、やはり漆黒の服に身を包んでいる。
「きみは私をつけているのか?」
そう質問すれば、めぐみはにやりと赤い唇の端をあげた。
「ある意味ではそうかも」
小さなパラソルが、彼女の白い顔に影を落としていた。
「何のために?」
「さてね」
めぐみは私に肩をすくめてみせる。少女めいた仕草が新鮮に映った。
「まあ、何でもいいじゃない。それより、この間はお昼ごちそうさま。お礼に、ウチの店でおごったげる」
「きみの店?」
「厳密に言えば、店長のお店。働かせてもらってるだけよ」
そうして、彼女の手が私の腕を掴んだ。白くて細い手なのに意外にも力が強い。私は彼女に引っ張られながら、その店とやらに連れていかれた。
店は、とある年季の入ったビルの三階に構えている。ポップな字体の看板が目を引く、いわゆる『メイドカフェ』だ。こういう場に慣れていない私は、入るのに躊躇した。
が、めぐみがどうしても、と言うので勇気を出して入店した。パステルカラーの内装に、テーブルとイスは白で統一されている。席に着くと、周りの人間に圧倒されてしまった。
メイド姿の少女たちが不自然な笑顔を作っている。男どもはオタクらしい者もいるが、私ぐらいのサラリーマンも見かけた。それぞれ程度の差はあれ、楽しそうだった。
「おすすめはオムライスです」
業務用の物言いをしためぐみがメニューを寄越す。開いたページには可愛らしくデコレートされたオムライスの写真が載っていた。どうやら店員の女の子が書いてくれるものらしい。
「私は、クロックムッシュがいいな」
「そう? じゃあ、店のコを呼ぶわね」
呼び鈴の音が店内に響く。周りの会話にかき消されやしないかと思ったが、すぐのメイドがやってきた。
「いらっしゃいませ、ご主人さま」
髪を二つに結い上げた娘は、近くで見ると明らかに少女という年齢を超えている。声も作ったらしげで、どこか違和感が残った。私は彼女にメニューだけ伝えると、すぐに視線を下に向けた。彼女は簡単な一礼だけして去っていく。
肩のあたりが張っているのを感じた。この店はどうも落ち着かない。
「なあ、きみもああいうことを言っているのか?」
めぐみに問いかけると、すぐに首を振られた。
「わたしは無表情冷血メイドって設定だから」
「何だい、それ」
「最近流行っているジャンルよ」
耳慣れない言葉を並べ立てられ、固まってしまった。彼女とは生きる世界が違うようだ。
この前のように二人で思い思いに待っていたら、すぐに料理が来た。一口かじって、いつもの味ではないクロックムッシュに戸惑ってしまう。
「まずいの?」
めぐみがオムライスを頬張りつつ訊ねてくる。口の周りに赤いケチャップがついているのが、子供っぽく映った。もしかしたら彼女は意外にも抜けているのかもしれない。
「いいや、普段とあんまり違うから……」
「あなたって、引っ込み思案そうだものね」
めぐみがスプーンを皿にかけて、ニコリと笑った。
「新しいことに挑むのは、嫌いでしょ? 何かにのめり込んだりするのも、そうはないでしょ? 全身からそんな感じが漂ってる」
口元のケチャップが別のものに見えてくる。チラリと覗く八重歯が尖っていて、そのままかぶりつかれそうだ。
「そんなこと、ないさ」
「それならいいけど」
めぐみは真正面から私を見つめたまま、スプーンを口元に運ぶ。彼女が咀嚼するたびに私は全身が痛むように感じられた。ついてくるんじゃなかった、と後悔する。
ようやく食事を終えると、私たちは店から出た。今日はこのまま帰ろう、私はジャンパーのフードの位置を直しながら思う。
しかし、めぐみは大人しく帰してくれなかった。彼女は私の前に立ち、パラソルの柄をくるくる回して見せた。至近距離なので目が回りそうだった。
「ねぇ、静のことなんだけど」
顔も見せないで、彼女はまた問いかけてくる。私はただ、「ん」とだけこぼした。
めぐみがほんの少しだけ、こちらに顔を向ける。
「どう思う? 彼、わたしと一緒に住んでるの」
思わず「え」と口から出してしまう。彼女はクスクス笑いつつ付け足した。
「勘違いしないでね。わたしと彼、単なる友達で、そーいうカンケイじゃないから。だからこそ訊いてるの……あなたは彼のこと、どう想ってる?」
同じ屋根の下に住む男女の間でおよそ信じられないような話を突きつけてくる彼女だが、嘘をついているようには見えない。私はうつむき、言葉を飲み下す。舌で当たり障りのない言葉を探る。
「彼はいい子だと思う。誠実で」
「それだけ?」
めぐみの目が私を非難している。私の中から何かを引きずり出そうとしている。
「他にもあるんじゃないの?」
余裕の笑みが「ここから逃がさない」と物語っていた。身体がぶるりと震える。こんな小さな娘に追いつめられている。
後ずさりすると救いの手が伸ばされた。
「めぐみ?」
久しぶりに聞いた声だった。青年のものだが、少年の響きも持っている。声のするほうを見れば、やはり彼だった。
夕月と似た亜麻色の髪が、ふわふわと揺れている。
「何やってるんだ、ここで。どうしておじさんと一緒にいる? 俺に隠れて」
静はめぐみの隣まで来ると彼女を見下ろした。
だが、めぐみはそれを毅然とした態度で受け止める。そして言い放った。
「わたし、この人とデートしてたの。この前もしたのよ」
そのとき、静の表情が変わった。目を見開いて、めぐみを見つめていた。次に、私へと視線が移る。自分の心臓がはねるのを感じた。
「違うんだ。彼女が誘ったから」
声が裏返る。それが、余計に彼を誤解させてしまった。静が声を低くして言う。
「別に否定しなくてもいいですよ」
くぐもった声が私の胃に響いた。何とか誤解を解こうと私は説明しようとするが、もう静は聞く耳など持っていない。
「あなたの女の趣味は変わりませんね」
それだけで、彼が私をどう思っているかが伝わってきた。その日は晴れていたのに、私の視界から急速に色が褪せていった。冬の冷たさだけが、指先まで満ち満ちていた。
***
その夜は、なかなか寝付けなかった。私は窓から、あの電話ボックスのある場所を探した。正確な位置は覚えていない。でも、あのときガラス越しに触れた彼女の手のひらは覚えている。冷たく、硬かったけれど、何故か知っている。彼女が恋しかった。
窓を開けると、冬の夜風が部屋を冷ます。暖房も何もかも意味をなさない。あの夏の日の記憶もかき消えていくようだった。だから年甲斐もなく泣いてしまった。声を殺すように、身体を丸めて。自分の体温だけが温かかった。
私のそばには、夕月も、静もいない。