『教えてあげましょうか? わたし、あなたのことが嫌いなの。半端に近寄って、相手に深い傷を負わせたあなたが。それも相手に恨まれないようにね』
めぐみが電話口で語った。私の携帯にかけてきたのだ。どこで知ったかなんて、今の私にはどうでもいいことだった。ただ、彼女の言うことを黙って聞いていた。
『ねぇ、静のことをどう想ってる? 好きなの、欲しいの? 男として……、それとも女の子として?』
やはり彼女は私の過去を知っている。
気づいてはいた。めぐみの目の奥で燃える、憎悪の炎に。
『答えなさい。あなたに黙秘権なんてないのよ、この変態』
私を蔑むと、彼女は命令するように言う。
『あなたは知るべきなの。自分がどれだけ他人の人生を滅茶苦茶にしたかを。そして悔いなさい』
それは、私がこれまで回避してきた全てを一気に受け入れろ、ということだ。彼女は私の答えを待たず、
『じゃ、例の電話ボックスまで来るように』
とだけ言って、電話を切った。目がパリパリに乾いている。心臓の音が受話器越しに響く気がした。
外は薄明るい。朝がやってくる。一睡もせずに迎えてしまった。もう眠れない。私は行かないと。
コートを羽織り、とにかく外へ出た。赤い朝日が厚い雲の向こう、血のように滲んでいる。
静は私を恨んでいるだろうか。趣味を押しつけた挙げ句、虐待から助けてもくれなかった私を。そして夕月をそんな女にした私を。
「怖かったんだ」
もうすぐ夜が明ける。私は震える唇で言う。
「怖かったんだ、夕月を手に入れるのが」
そうだ。私は怖かった。今でも怖い。私は夕月が好きだった。でも、夕月に好かれるのは怖かった。彼女が、私の思う人物と違うと知るのが。
私は彼女を不可侵の存在として崇めすぎた。女神のようで、天使のようで、悪魔のようで、そんな風に想っていた。だからこそ人間になってほしくなかった。崇拝の対象のままであってほしかった。でも、彼女は違った。
夕月は私を好きになってくれた。私のもとへ来た。私の恋人になろうとしたのだ。それは人間なら当たり前のことだ。愛する人の愛する人になりたいなんて。
それを私は拒絶した。彼女をどうすればいいかわからなかったから。慕うだけで満足だった。そこから抜け出せなかった。手を伸ばして、触れることを放棄した。
同じことが静についても言える。私は偶像としての『夕月』を彼に求めたのだ。それで彼が少年だろうと気にはならなかった。何故なら、姿さえ同じなら良かった。私は彼をどうこうしようとか、そんなことは考えていなかったから。
すべて自己満足だ。私は人を愛せない。愛しているのは、自分の中にある『夕月』だけだ。本物の夕月や、実際の静にはまるで目を向けなかった。
その結果がこれだ。夕月には先立たれ、静からは軽蔑される。
また携帯が鳴った。着信を見ると非通知だ。構わず出る。
『もしもし、わたしだけど。まだ来ないワケ?』
めぐみが欠伸をかみ殺した。声から大分苛立っていることがわかる。
「道がわからないんだ」
『この間、行ったばかりのところなのに?』
「言われるままだったから」
『情けないヤツ』
舌打ちをしためぐみは、まずは私にどこにいるのかを訊いた。それから道順を教えてくれた。私はまた言われたとおりに歩くだけだった。
空が白んでいる。息も白い。あまりに寒くて思考もままならなかった。おそらく、もう帰り道すらわからないだろう。そんな中、私に残されているのは歩かされている道だけだ。
電話ボックスにたどり着くと、めぐみが中から出てきた。艶やかな生地のコートに、大振りの帽子。その手を薄い手袋で覆っている。
「おはよう」
冷気を裂くような声で彼女は私を迎えた。意外にも表情は穏やかだった。
「来たばかりのところで悪いけど、もうちょっと頑張ってくれるかしら」
そうして連れて行かれたのは、あの夜に見かけた銀の車だった。助手席に座らされると、内装にフリルや小さな指人形やらがふんだんにあしらわれていた。
「これはきみの車?」
めぐみは質問に答えなかった。慣れた手つきでエンジンをふかし、その場から離れていった。エアコンから冷気が発せられたが、徐々に温風に変わっていく。冷えきっていた私は、その温もりにうつらうつらとして、まるで子供のように眠り込んでしまった。夢は見ない。
***
がくん、と衝撃を受けて目が覚めた。備えつけられた時計を確認すると十五分も経っていない。それでも窓の向こうは見たところもない場所だった。
「わたしたちが住んでるアパート。ご近所さんに迷惑かけないように、大きな音はたてないでよ」
車から出ると、私はめぐみの後を追った。彼女はわざとなのか早足で歩いた。もちろん体格の差があるので支障はないが、目も合わせてもらえないのは大の男でも堪えるものがある。
静とめぐみの住むアパートは、私の住居よりも古くさかった。木造で、排気ガスを吸ったせいか表は真っ黒だ。おまけに外に洗濯機が置いてある。
「別に貧乏って訳じゃないのよ。わたしたちは、お互いにこの世で生きづらい人間だから」
めぐみが階段を上りつつ言った。見上げた背に長年の疲労が乗りかかっている。彼女にとって、この世界の何が辛いのだろう。疑問ではあるが訊きはしなかった。私もまた、生きづらい人間だからだ。
四階まで上り、めぐみはとある部屋の前で止まった。表札には見覚えのある名字がある。チャイムもノックもせずに、彼女は鍵を静かに開けた。気だるい空気が身体にまとわりついてくる。
「またヒーター強くして」
めぐみが小声で愚痴をこぼした。入ってすぐに居間と台所がある。誰もいない。その代わり、目の前に扉がある。しっかりと閉じられた堅い扉が。
直感で静がそこにいるとわかる。彼はそこで何も知らずにいる。
身体を抱えると、めぐみが振り向いた。
「さっさと行きなさいよ。何しに来たの?」
「でも、静が……」
「逃げるの?」
彼女は有無を言わさぬ口調で私に迫った。襟元をひっ掴まれ、無理矢理向き合う形に持ち込まれる。
「静はね、あなたのために悩んできたの。自分ではどうしようもできない気持ちを抱えて生きてたの。これからだってそうよ。もう彼は戻れない」
そこまで言うと、彼女はくしゃっと顔を歪めた。
「自分から、逃げることはできない」
まるで自分のことのように、めぐみが語る。彼女の声は痛みすら窺える。
掴まれた襟元のせいで上手く息ができない。
「あなたは違う。あなたは自分を守った。静を傷つけておいて、自分だけ大事にしてる。そんなの許される訳がない」
酸素の足りない頭が、彼女の言葉をまっさらに受け止めている。空の思考が他人に塗り変えられていく。そんな奇妙な感覚に襲われた。
「一度くらい、彼のために傷ついてみなさいよ」
そして彼女は面白いくらい簡単に私から手を離した。その腕はだらんと力なく垂れ下がり、もはや何の強要もしてこない。めぐみは、ただ黙って私を見ていた。
このまま帰ることだってできる。でも私はそうはしなかった。堅く閉ざされた扉の取っ手に手をかける。
部屋の向こう側から熱気が漏れていた。ふわり、と温かな空気が流れてくる。私は振り向かずに、中へと入った。扉を閉めると彼が言う。
「めぐみ? まだ準備してんだよ。もうちょっと待てよ」
それは今までは申し訳なくて見られなかった光景だった。彼は長いスカートを穿き、襟元にレースをあしらったブラウスを着ている。頭には夕月のものと似た長い髪のウィッグをつけ、顔にメイクを施している最中だった。
私はその様子を黙って見る。そのことに静はまだ気づいていない。ドレッサーの前に座ってルージュを塗っている。男にしては柔和な顔立ちに、薄い紅が映えた。
しかし、やはり男は男だ。彼は少年から青年へ変わり、あの頃の少女めいた雰囲気は薄らいでいる。それなのに静は抜け出せない。
「めぐみー?」
ようやく彼はこちらを向いた。アイシャドウを塗ったまぶたが上がる。私を信じられないといった表情で見ている。
ヒーターの音がぶうんと鳴っていた。
「な、何でおじさんが……」
「めぐみさんに連れられてきたんだ」
そう言うと、静が私の後ろにある扉を睨んだ。
「あいつ、余計なことをして」
その口調から、彼とめぐみの親密さが伺えた。それは恋愛というくくりではなく、おそらく友情だろう。女同士でじゃれあうような、そんな類のものだ。
ばつの悪い顔で、静が視線を足下に向けている。裸足の足の爪には薄いベージュのペディキュア。
「……きみはホント」
絞り出すように言う。残酷な言葉だと思いながら。
「夕月に似ている」
静が少しだけ目線を上向ける。その口元には不思議と笑みが浮かんでいた。
「だから可愛かったんでしょう? 女装した俺は。今じゃ、こんなんだけど」
彼は足を組み、ドレッサーの台に片腕を乗せる。
「今も充分可愛いさ」
「野郎にしてはね。でも、やっぱりホンモノの女性にはかないませんよ。すぐそばに可愛いって大評判のメイドもいるし」
「彼女、無愛想なのに?」
「可愛けりゃ何でも許されるんですよ」
ぶっきらぼうな言い方が、内に秘める嫉妬を垣間見せていた。その姿がいじらしくて、私の胸をざわつかせる。
「何を笑ってるんです?」
いつのまにか緩んでいた顔に、ぴしゃりと言いつけられた。静が呆れ顔でため息をつく。
「あなたって、おめでたい人ですね。どうして俺がこんなシュミを持ってるのかわかってるんですか? あなたが俺をこんなにしたんですよ。あなたが、女装させた俺に、あんなに優しかったから……」
そう語る静の顔はどこか苦しげだった。これまで彼が抱えてきたものの重さに、ちっぽけな私は押しつぶされそうだ。
「夕月の葬儀のあとから、その姿で私の前に現れた理由は?」
突然の問いにも静は動じない。私がそのことに気づいていたこともお見通しだった訳だ。凛とした声で応じてくれる。
「あなたにまた優しくしてもらいたかった。それだけさ」
「じゃあ、女装を始めたのは最近?」
「……」
彼は急に黙り込んだ。メイクの慣れた手つきからして「最近から」は有り得ない。もっとずっと前から、彼は自分のシュミと向き合ってきたのだ。
そのきっかけを作ったのは他ならぬ私。それを知らずにのうのうと生きていたのも、私だ。
静が音もなく立ち上がる。すらりと背が高く、こうして見ると私より大きいかもしれない。
「あなたって、ずるいですよね」
顔全体にひろがる笑みに、薄ら寒いものがあるのは何故だろう。彼は私の頬に触れて言う。
「素知らぬ顔して、人の痛いところを突いてくる。鈍感なだけか、それともサディストか」
大きな手で輪郭をなぞられる。静の淡い桃色の唇が近づき、一瞬だけ私のものと重なった。ルージュの艶やかな感触が滑る。
「勘違いすんなよ」
どすの効いた声で彼は言うと、私の肩を掴む。もはや目をそらすことすら許されない。女性らしい服装から想像できないような力強さで、彼は私を屈させる。
「これは、復讐なんだから」
彼の腕が私の身体を包み、自由を奪う。
「もう逃げられないよ」
と言って、彼はまた口づけしてきた。今度は舌を割り入れて、深く。脳にまで侵入してきそうなほどに。彼の言うとおり、私はもう逃げることができない。
あんなに気をつけてきた場所に、引き込まれてしまった。足を取られまいとしていたぬかるみに。
彼が何度も私にキスをする。やがて全身から力が抜け、その場に二人で倒れ込む。服の上から身体をまさぐられる。私の上にのっかっているのは、いったい誰なのだろう? 夕月? 静? それとも別の誰か? 私が愛しているのは、誰だ?
そんな疑問を抱えながらも、私は自分の中で嫌悪とは真逆の感情が生まれるのがわかった。誰に向けられているのか定かでない、行き場のない想い。
私は上に乗る人物の腰に手を回す。彼の「復讐」を甘んじて受ける。いつのまにか視界は涙で滲んでいた。
今、自分がどこにいるのかわからない。頬が熱い。まるで今は夏だとでもいうように身体に汗をかいている。きっと私は、あの思い出の日々に帰っていったのだ。
そして沈む。どうしようもない想いの中、深く奥深く。あの頃の延長線である、今、この瞬間に。もはや抜け出せはしないだろう。
静の腕の中でそう確信していた。
終