「残念ながらね、道洋のお嬢さん。ピルスナーの呼び名が先にあったのだよ」
横から低く豊かな声色で呼びかけられ、はっとする。
びっくりしたのは、目の前のヤクソン氏が蹴たてるように立ち上がり、直立不動で敬礼をしたことだった。
「これは我が王! 王妃殿下!」
吊られて腰を上げた私は、見た。
恰幅の良い、詰め襟の軍服を身に纏った威厳のあるオーク男性。コートの襟口に覗く階級章は、見たこともないような豪奢なモール細工で形作られている。
その後ろにつき従う、黒に銀の胸骨軍服と制帽の闇エルフの女性軍人。ゲームの虹色枠URキャラになれるほどの鼻筋の通った秀麗な美貌だが――その雰囲気は、刃を研ぎ上げた野鍛冶の鉈めいていた。
闇エルフの女性は見たことがない、だがオーク男性の顔は見たことがある。この国の紙幣の肖像画になってたあのオークの顔だ、つまり彼こそは――。
「グスタフ・ファルケンハイン国王陛下! あ、あの――」
お忍びでの外出が好きな国王だ、という逸話を雑談混じりに聞いた。まさかその現場に居合わせるとは!
こういう時はどういう風にお辞儀をすればいいのか、わからない。っていうか酔っぱらって高貴な身分の方と遭遇するなんて、と思ってあやふやにスカートを摘まんでお辞儀をすると――グスタフ王はかるく会釈を返し、愉快そうに笑う。
「アキツシマの女性旅行者とこの都で出会うとは、珍しいこともあったものだ。あの国もかくも進歩したものか――いや、それにはいささか時分が早い、か?」
グスタフ王は会釈し、私たちに着席を勧める。ヤクソン氏はがちがちな身振りで背筋を立てて座り、闇エルフの女性軍人に椅子を引かれて着座。私も遅れて椅子に腰を下ろす。
「興味深い話が聞こえたものでね、口を挟んでしまって申し訳ない――」
「いえ、国王陛下! とんでもありません!」
ヤクソン氏のかちこちになった返事は、ついおかしくて笑いそうになってしまう。彼がこれほど緊張するということからも、尊崇ぶりが見て取れる。
いや、でも先ほどグスタフ王は変な事を言った。
ピルスナーの呼び名が、先に存在した?
どういうことなのか――唾を飲んで、私は王に向き直る。
「失礼ですが、先ほどの『呼び名が先にあった』とは?」
私の質問の途中で、じろっと闇エルフ軍人の剣呑な視線が刺さる。
高貴な方への直答は無礼に当たるのか? と青くなるが――。
「不思議なものだよ」
グスタフ王が軽く指を上げると、オークのウェイトレスがジョッキを持ってすっ飛んできた。
ジョッキには泡をかぶった、美しく透き通った黄金のピルスナーが満たされている。
「私は我が国で澄んだ淡色のビールが生み出された時に、それはヘレスケラーと呼ばれるものと予想していた――しかし、誰とも無くこれをピルスナー、と呼び始めた」
謎めいたグスタフ王の語り口。私は息をするのを忘れたように聞き入る。
「低地オルク語のどこにも語源のない、異様な呼称だ。同時にこれに由来を与えてやらねばならぬ、という責務を感じた」
グスタフ王はジョッキを傾け、美味そうにピルスナーを飲む。
「そこで有能な醸造家であったゴロフ君に、プルゼリンに赴いて醸造をしないか? と提案した。同じ頃にいくつかの醸造家招聘の話はあったと記憶しているが、地名ゆえにそこを選んだ」
「……貴方が、ピルスナーを造った……?」
「造ったと言うよりは、不条理を正したという方が近いな。一二〇年もあれやこれや手広くやっていると、しばし理由の見つからない矛盾と遭遇し、見過ごせずに帳尻合わせをすることがあった」
グスタフ王は、空のジョッキを置く。
太い指をテーブルの上で組み合わせる。その顔にはかすかな憂慮の陰がある。
「エルフィンドとの、我らの最大にして最後の戦争が終わり、あの館の奥で『あれ』を見た時に、長年の疑問が氷解した」
「王、それは――!」
闇エルフの女性軍人が、血相を変えた。
グスタフ王は軽く片手を挙げ、彼女を押しとどめる。
「しばしこの星欧で生じる矛盾は、『彼ら』の名残なのだ。『彼ら』は将来生まれうるビールの存在を予め把握していた。だが、ピルスナーが地名由来だということを失念してたのだよ」
「――――」
「言うなれば手癖、かね。そして先ほど君はこう言った。『同じピルスナーというスタイル名』と」
……それはどういう意味なのだろうね?
王の無言の問いを私は理解してた。
オルクセン王は、笑っていない瞳で私を見つめて言う。
私は凍り付き、酔いも醒めて冷や汗をだらだら流していた。
ああ、なんということか。
――グスタフ王と私、そしておそらく造物主は同じ現実世界のニンゲンなのだ。
ならば彼がビールの近代化に必要な知識を先回りして広めたとしても、なんら疑問はない!
もし、私とグスタフ王が二人きりなら、すぐにその推論を口にしただろう。だが言い出せなかった。
訳が分からない、という顔のヤクソン氏がいる。
周りで王の話を伺う神妙な顔のオークの客たちがいる。
そしてなにより――王の後ろに佇立する闇エルフの女性軍人の目が、冷え冷えと冴えている。
私が周囲に疑問を生むような、不用意なことを口走れば、彼女は瞬きもせず私を殺すだろう。それが責務であり、愛であり、そして――この世界の法則だ、として。
異世界で死んだら、現世に転生できるのだろうか? いや、そういう問題じゃない。
「グスタフ王陛下、あれはですね――」
私はジョッキにまだ半分以上あったビールを、一気に飲み干す。周囲の視線が私にも集まる。
どん、とジョッキをテーブルに置き、げっぷ混じりで言う。
「酔っぱらいの戯言、ということに一つ、していただけませんかね?」
私も貴方も、公衆の面前でこの話題に深入りないほうが良い。
ならば王の持つ寛恕の心を以て聞き流してほしい。その事に気が付いたのは貴方しかない。そして私はこの世界に迷惑を掛けるつもりはない――いちビールクズ扱いしてくれ。
そんなニュアンスが伝わっただろうか?
「は、はは、はははははははは!」
グスタフ王の目が、初めて笑った。
そして肩を揺らして大げさに笑う。闇エルフの女性軍人も、かすかに息を吐いて警戒を緩めた。
おかしそうに一笑いすると、グスタフ王は言う。
「なるほど、なるほどな。貴女は面白いことを言うものだ。そういうことにした方がよさそうだな!」
「国王陛下、なにを話されていたのか拙には……」
「そうそう、君たちの名前を聞いていなかったね」
目を白黒させているヤクソン氏に、王は穏やかに問うた。
私たちはお辞儀をして遅れた自己紹介をする。
「ミヒャエル・ヤクソンであります! お恥ずかしながら、駆け出しの文士であります」
「ユイ・アラモードと名乗っております、陛下」
グスタフ王は鷹揚に頷き、ヤクソン氏に励ましの瞳を向ける。
「君の著書が我が書斎に並ぶ日を、楽しみにしている」
「こ、光栄であります!」
ヤクソン氏はテーブルに頭をこすりつけんがばかりだった。
そしてグスタフ王はポケットから手帳を取り出すと、万年筆でさらさらと何かを書く。そしてページと千切ると、テーブル越しに私に差し出してくる。
「この国で何か困ったことがあれば、これを見せるといい」
「ご配慮ありがとうございます、陛下――」
二つに折り畳まれたページを受け取り、私は中を確かめる
文字通りのお墨付き、国王印の御印籠だ。
『ユイ・アラモード嬢の、国内の通過に関して最大限の便宜を要請する。グスタフ・ファルケンハイン』
そして短文と署名の下に描かれた、二つの紋様。
……このメモワールが何を意味しているのか、私は理解した。
「これは……そういうこと、ですね?」
「そういうことだよ。ユイ・アラモード君」
グスタフ王が苦笑めかして、牙の覗く口元を緩める。
一筆書きの五芒星と、縦横九本の格子。これが私の世界に存在した、呪術のサインであることを知っている。
晴明判と九字印。地方によってはセーマンドーマンともいう。
日本の各地において、陰陽道の流れを引く呪術で用いられるシンボルだ。伊勢地方の海女のまじないでは、海中の怪異から身を守り、生還を期するためにこの二つの印を帯びるという。 魔術も良くするというグスタフ王が、これを私に書いて贈ると言うことに、二つのメッセージを感じ取れた。
一つは王と私が同じ文化と秘密を共有していることの再確認。
もう一つは『先ほどの提案を了解した、私が呪的に保証するから、可及的速やかに故郷に帰りたまえ』という返答。
そんな意向を口頭に出すことなく、周囲に秘密にしたまま伝達する。
――まさに王の外交手腕というべきか。
「さて、君たちの楽しい談義の時間を邪魔してしまったようだな。我が国の素晴らしきビールと豊かな食を心行くまで楽しみたまえ」
グスタフ王が腰を上げる。
私たちは立ち上がり、深く一礼して見送る。
「そうそう、ヤクソン君?」
グスタフ王がふと立ち止まり、振り返って言う。
「アラモード君からビールの話をいろいろ聞いておくといい。それは君の著作業への、掛け替えのない財産になるだろう」
「はっ! 畏まりました!」
「特に――アルビニーの話をしてみるといい」
去りゆく王は、背を向けて手を振る。
――王様は、あっちのマイケル・ジャクソンの事を知ってるのか? そうでないとそんな示唆はしないはずだけど……ねぇ?
周囲から国王陛下万歳! 王妃殿下万歳! の声が上がり、遠ざかっていく。
ヤクソン氏と私は、脱力して同時に椅子に座り込んだ。
ヤクソン氏はまるで白昼夢を見せられたかのような顔で聞いてきた。
「アラモード嬢? 国王陛下のお話はなにを……それにアルビニーの話とは? あそこは田舎くさいビールしかないと聞いているのですが」
「どれくらい話していいのものか、アルビニーってベルギー・オランダあたりのことですよねぇ、ううーん……」
グスタフ王はビールの将来への道標を彼に伝えることを、許してくれた。だがネタバレが直裁的すぎると、おもしろくない。
どれくらいに神話的なほのめかしで、ビールの歴史のチート知識を仕込めるのか。そこに作家の手腕が問われる。
――手にしたジョッキが空だ。
そうだ、さっき勢いで飲み干したんだ。
「とりあえず、お代わりもらえますか? ドゥンケルで!」
☆ ☆ ☆
――目を覚ますと、そこは真夜中の神田駅ホームだった。
えっ、いつの間に私は電車を降りてた? 京浜東北線で赤羽乗り換えなのに乗り越した?
でも神田でよかった、新子安や洋光台だったら取り返しが付かないところだった。
けやき広場で飲むためのセミアウトドアの服を着て、手にはガラスフィルムにひびが入ったスマートフォンを握っている。
グスタフ王の書き付けはどこにも見あたらない。
誰だ、グスタフ王って?
「……まだ帰れる? いや、神田で下りたんだ、あそこに顔出ししておくかなぁ――みこ先輩やヨーコもいるだろうし」
大きなあくびと、げっぷが一緒に出る。
足下のトートバックを持ち上げると、私はふらりと改札につながる階段に歩き出した。
あれだけ飲んだのにまだ飲む気か? といわれると恥じるばかりだけど……飲まないとやってられないような、不思議な何かが胸の中にあった。
あるいはそれは、喪失の疵痕だったのか。
☆ ☆ ☆
ミヒャエル・ヤクソンは長じると、星欧世界ビール研究の第一人者と呼ばれるようになった。
その代表的な著書『ミヒャエル・ヤクソンの地ビールの世界~多彩な味わい、アルビニー・ビール』や『星欧ビール大全』は、今ではビールを学ぶ者が必ず読む、必携の紹介書である。
しかし彼の残した多くの著作・エッセイ・回顧録などの中は、若き日にアキツシマ人の女性旅行者とビアホールで交わした会話の記録は、何一つ残されていない――。