もはや「あきらめる」を迷わず推してしまうような最悪のイベントですが。
この世界では、ウマ娘の競技人生は1度きり。
インシーを育成中のあなたは「あきらめる」「はい」を押せますか?
あるいは、こんなになってしまったのなら潔く押しますか?
ーーー103ーーー
「なんでアタシの脚なのに思った通りに動かないんだ!?動けよいい加減!!いつまでこんなことしなくちゃいけないんだよ!!」
「インシーさん!落ち着いて!深呼吸を……」
ひどく泣き叫ぶインシルカスラムに対して、担当医はそう声をかけ続けるしかない。
インシルカスラムはいつだってライバルに喧嘩を売り、病弱という運命に逆らい、決して諦めることはなかった。
そうやって強がることはできる。
だが、その心はやはり壊れていた。
インシルカスラムのメンタルは強いようにみせかけているだけで、実際は耐えられていなかったのだ。
ひとしきり叫び散らした後も、インシルカスラムは顔を覆ったまま泣き続けていた。
「落ち着きましたか?話をしても?」
「うん……ごめん、先生」
「構いませんよ。あなたの気持ちはよくわかります。私はあなたのファンですからね」
担当医はインシルカスラムの肩を優しくたたいて気を落ち着かせる。
「インシーさん、あなたは強いウマ娘です」
例え屈強な軍人であろうと、PTSDの完治は何年という単位でかかることも珍しくない。
それをたったの2カ月でどうにかしようというのだ。
普通はあまりにも無茶が過ぎる。
それでも。
「あなたなら、きっと復活する」
担当医はインシルカスラムの奇跡の復活を信じていた。
この運命にたどり着くために、既に多くの人を巻き込んだ。
そして、多くはない人数から、とても大きな期待を背負わされている。
応えなければ。
この無茶は通せると、証明しなければ。
「うん……!アタシ、やってみるよ……!」
今更引き下がれるものか。
インシルカスラムは、涙で腫れた瞼のまま顔を上げた。
無茶くらい、これまで何度だってやってきたではないか。
奇跡は起きる物ではなく起こすもの……
いや、こうなったからには、起こすしかない。
「うっ……くっ……!」
インシルカスラムのリハビリには、森内トレーナーや担当医も直接付き添ってくれることになった。
インシルカスラムは手すりに頼ることなく、5mほどを繰り返し歩いて往復している。
「ほらっ……歩けて……るっ……!」
「少しずつ慣らしていけ!インシーなら克服できる!」
と、森内トレーナーはインシルカスラムに声をかける。
その横で、森内トレーナーは担当医に耳打ちで、インシルカスラムには聞こえないようにひそひそと話す。
「……インシーにはああ言ったが。ダメだな」
「あれは歩けていると言いません」
インシルカスラムは、苦痛に顔を引きつらせながら手すりを往復している。
どう見ても、幻覚の左脚の痛みをこらえて歩いている証拠だ。
我慢できる程度とはいえど、痛みに気を取られながらの練習やレースがまともなものになるはずがない。
「先生、何かインシーにしてやれることはないだろうか。このトラウマ克服のブレイクスルーになるような何かが……」
担当医は顎に手を当てて考え込む。
非常に難しい問題だ。
「痛みを忘れられる何かをするのが重要なカギになるでしょう」
では、痛みを忘れられる何か、とはいったい何だろうか?
すぐにできることなのだろうか?
「レースから離れるのが1番ですが、期間が短すぎます」
「ふむ、痛みを忘れられること、かつレースに関わること……」
森内トレーナーもまた、担当医と同じような姿勢で考え込んだ。
レースによって痛みへの恐怖が芽生え、もう走らないでと本能が警告しているのだ。
レースに関わる何かをすれば、トラウマを抉るだけだと思われるが……。
「--少々荒療治にはなるだろうが」
やるしかない。インシーならやってくれるだろう。
森内トレーナーは心の中で付け加えた。
森内トレーナーには「あきらめる」は押せない。
だって、本人がやる気なんだから。
本人が壊れてでもやる気なら、やらせるんだ。