あの時超えられなかったなら。
このブラス・トレーサーという物語はありませんでした。
ーーー139ーーー
一瞬、大井レース場は静寂に包まれた。
数秒程度の沈黙だったが、誰もが永遠に思えるくらい長かっただろう。
「--1600mを通過した、残りは400!」
静寂は実況が破った。
インシルカスラムの位置は。3位。
まだ走っている。まだ走れている。
その足は、思うように動いて。
とても軽くて、どこまでも飛んでいけそうだった。
あの日の東京大賞典で無念の競争中止のラインを超えて、インシルカスラムは走り続ける。
第3コーナーを過ぎて、最終コーナーのカーブを曲がる。
インシルカスラムの前にはガルディアコダンともう1人。
前は塞がっている。
まだだ。
「インシー!今度こそ、あなたに勝つ……!」
「去年の位置はとっくに超えたわインシー!私との真剣勝負、受けてもらうわよ!」
後ろから先行のテンカバスターとフルセイルサルートがラストスパートを始める。
どんどんと差を詰められる。
まだだ。
最終コーナーのカーブが間もなく終わる。
ガルディアコダンはうまく内側をついて最短距離で直線に入る。
そして。
もう1人の前を走っていたウマ娘が、遠心力に引っ張られて外に逸れた。
「お先に!」
ガルディアコダンの視界の横を、オレンジ色の髪が通り過ぎた。
外に逸れたもう1人のウマ娘との間にちょうど入れる隙間ができたところを、インシルカスラムが突いてきたのだ。
「なッ、速……!」
もしかしたら追い抜かれるかもしれない。
認めたくはないが、ガルディアコダンもどこかでそう思っていた。
だが、4のハロン棒を過ぎてわずか数秒で並ばれるとは、さすがに予想していなかった。
あと100m、50mなら最後の最後で力を振り絞れって振り切れるかもしれなかったが。
残り300m強で横に並ばれた時点で、もはやガルディアコダンに勝ち目はない。
「先頭変わったインシルカスラム!ここで差を広げにかかる!」
そして、ガルディアコダンから先頭を奪った時点で"1位になった"ことでインシルカスラムはさらに加速。
ガルディアコダンとの差をどんどん引き離していく。
東京大賞典は13人立てのレース。
スタンド前で、我に続けと言わんばかりに12人のダートウマ娘に対して道を切り開いていく。
いや、それだけじゃない。
ダートレースを見に来るファンたちに、道を切り開いていくのも。
弱き者に勇気を与え、道を切り開いていくのも。
これまで世話になった全ての人のために、道を切り開いていくのも。
インシルカスラムだ。
"インシーが道を切り開く(Incy Lead the Way)"、んだ!!
【レース後半で1位の位置に着けていると。スタミナを削って一気に突き放す。】