ヒントは、このブラス・トレーサーは盛大な"シンデレラグレイ外伝"であること。
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レースは中盤に入る。
インシルカスラムは引き離されたことを勝手に挑発行為と思い込んで大逃げの一人旅を謳歌中のガルディアコダンに食らいつこうとするが、
まだその差は7バ身以上ある。
そして、南部杯は中盤から緩やかなコーナーと、上り坂に入っていく。
歩くだけなら問題ないほどの上り坂。
だが、インシルカスラムの消耗した弱い脚には、その上り坂がズシリと響く。
「クッソ……上り坂と遠心力でこんなにも走りづらいなんて!」
大逃げはそろそろスタミナを切らしてリードが急速に消滅していくはず。
しかし、インシルカスラムとガルディアコダンの差は、予想よりも埋まらない。
「ガルディアコダン、いまだ大きなリードをキープ!2番手のインシルカスラム必死に追いかけます!」
「大逃げはロマンと言ったな……取り消そう」
森内トレーナーは未だ大きく開いたガルディアコダンとインシルカスラムを見ながら歯痒い顔をした。
「ガルディアコダンの大逃げはロマンでも大博打でもない。実力と経験に基づいた確かな戦術だ」
「お褒めの言葉を頂き光栄です」
打出トレーナーは勝利を確信したかのようなニコニコを崩さない。
今の森内トレーナーにとってその表情は下に何かを隠した仮面の笑顔にすら見えてくる。
「しかし、今勝っているのは当たり前。最後までヒヤヒヤさせられるのもまた大逃げです。さあインシーさんはどう出てくるか」
森内トレーナーは拳を握り締め、走るインシルカスラムを見つめる。
トレーナーは格闘技のセコンドとは違う。
一度ウマ娘が走り出したらもう指示は飛ばせない。
できることは隣のトレーナーと議論を交わす。もしくは。
祈る。
「(諦めるなインシー!勝て!勝ってくれ!)」
インシルカスラムは上り坂でガリガリと削れていくスタミナ、そこから湧き上がる苦しさに耐えながらも。
ガルディアコダンから視線だけは外すまいと顔を上げる。
すると。
ガルディアコダンがいない。どこにも。
「えっ!?どこ行ったコダン!?」
コーナーを曲がってるから視線の外に行ってしまったのか?
慌てて首を振るが。いない。
それどころか……関係者席や観客席からも、人が消えていた。
後ろに気配を集中させるが、後ろにも誰もいない。
インシルカスラムは、いつの間にか1人で走っていた。
「どうして……アタシは1人に……?」
まるで急に世界から人が消えてしまったかのような世界で走っていたインシルカスラム。
雑音も、自分の足音さえも聞こえない。
なんて景色だ。なんて……
「--走りやすい!!」
インシルカスラムは意識をガルディアコダンから自分自身に向け、その脚で砂の感触を楽しむ。
邪魔なものも、惑わせてくるものも、何一つなくなった。
後はベストを尽くして、のびのびとゴールに向かうだけだ。
「インシルカスラムが第3コーナー途中から勝負を仕掛けた!その差5バ身!」
ガルディアコダンはそろそろスタミナを使い果たした。もうリードは広げられない。
それとほぼ同時にインシルカスラムはバ群から一足先に抜け出して、ガルディアコダンにどんどんと近づいていく。
「セーフティリード、とは言えないですね。思ってた以上にインシーさん、早めに仕掛けてきました」
打出トレーナーはこれは想定外だ、という風に唇を噛みだす。
しかし、森内トレーナーにとっても形勢逆転とは言えない。
打出トレーナーが言いたかったことは、森内トレーナーも同じだった。
「早すぎる!インシーだってあそこからスパートをかけたら保たない!途中で2人ともスタミナを切ら……」
そこまで言いかけて、森内トレーナーはインシルカスラムをよく注視する。
インシルカスラムの呼吸は荒々しいが、いつの間にかガルディアコダンの大逃げに激昂し、無駄な勝負を仕掛ける様ではなくなっていた。
自分自身の走りに集中し、自分が可能な限りの出力を発揮しようとしている。
まるでその目は……ガルディアコダンよりはるか高みにある自己ベストだけしか見えていないかのよう。
「いや……あれは……」
森内トレーナーは噂には聞いていたことを思い出す。
それは、極度の集中によって発揮される限界の先の先。
それは、時代を作るウマ娘のみが至る境地。
それは――
「領域(ゾーン)!!」
覚醒。