第8話
インシルカスラムとの担当契約を正式にかわしてから数日。
森内トレーナーはインシルカスラム向けの明日の練習メニューと出走ローテーションを考えていた。
「(あまり難しく考える必要はない。もともとパワーには素質がありそうだから、その長所を伸ばすのが一番効果的だろう。)」
「(ローテーションは……ジュニア級からでもレースには出れるタイプだ。G1の『全日本ジュニア優駿』、それからクラシックG1の『ジャパンダートダービー』に向けていくのが一般的か)」
「シンプルイズベストだ」と森内トレーナーは独り言を言って練習メニューを完成させた。
休憩がてら、森内トレーナーはふとテレビを見る。映っていたのは天気予報だ。
「--明日は例年に比べ、最高気温が大幅に高くなるでしょう。本格的な夏はまだまだ先ですが、外出の方は熱中症対策を忘れずに……」
「明日は暑そうだな。冷えたスポーツドリンクでも持って行ってやるか」
翌日。
芝に比べれば狭いダート練習場で、インシルカスラムは森内トレーナーの練習メニュー1本目をしっかりとこなしていた。
「よし、その調子だ!しっかり踏み込め!」
メガホンでインシルカスラムに檄を飛ばしつつ、森内トレーナーは近くにあった温度計を確認する。
現在の気温は25℃前後といったところだろうか。湿度的にも暑がりな人ならそろそろ大変と感じるくらいだろう。
「戻ってきたら一度休憩をはさむか」
最後のコーナーを回ってくるインシルカスラムを見て、森内トレーナーは冷えたスポーツドリンクを出そうとして……
違和感に気づいた。
コーナーを走ってくるインシルカスラムの体幹バランスがやや崩れている。
おかしい、模擬レースを走っていた時には走り方に癖はなかったはずだ。
それに息もかなり上がっている。スタミナ配分を間違えたり、適性を超えた距離を走ったの息の上がり方じゃない。
「おーい!もういっしゅーいくのー!?」
インシルカスラムは森内トレーナーに無理やり音量を上げたような声をかけるが……
「まずい……インシー、ストップ!!こっちに!」
慌てて森内トレーナーは日陰にインシルカスラムを誘導する。
インシルカスラムは頭にハテナマークを浮かべながら森内トレーナーの方向へ走っていく。
近くで見れば明らかにフラついた走りであることが見て取れた。
森内トレーナーはフラつくインシルカスラムを受け止め、「触るぞ」と額を触る。
熱い。それに、立ち眩みもしているし、汗の量もすごい。軽度の熱中症の初期症状だ。
「一度横になろう!」
「えー?大丈夫だって、アタシはまだまだー……」
インシルカスラムはそう強がりながら、森内トレーナーによりかかって膝から崩れ落ちそうになる。
「ったく!どう見ても大丈夫じゃない、運ぶぞ!」
倒れかけたインシルカスラムを抱え、森内トレーナーは屋根のついた場所にあるベンチへと急いだ。
涼しい場所でインシルカスラムを横にさせてから数分後。
「んぁー……」
インシルカスラムは起き上がってあたりを見回し始めた。幸い、大事には至らなかったようだ。
「大丈夫か、気分はどうだ?飲めるならこいつを」
森内トレーナーは少しバツが悪そうに冷えたスポーツドリンクを差し出す。
インシルカスラムはやや大げさにうなずくと、奪い取るようにスポーツドリンクを取り、おいしそうに一気飲みし始めた。
「ぷはー!ありがとうトレーナー、もう平気!」
「そうか、よかった。……その、すまなかった」
森内トレーナーはインシルカスラムにおそるおそる目線を合わせつつ謝罪した。
今まで担当してきたウマ娘たちは、特別暑さに弱くはなく、これくらいの気温と湿度であれば問題なく全メニューのトレーニングをこなせていた。
1本目のトレーニングで熱中症で倒れかけるインシルカスラムは暑さに弱い。
いや、特別健康面に不安があるといってもいいだろう。
ウマ娘の体調の変化に気づけないで何がベテラントレーナーか。
基礎能力ばかりに目を取られ、トレーナーとして最も大事なところに気づかなかった森内トレーナーは自らを深く恥じた。
インシルカスラムのこの健康面での弱さをどうする?というのがブラス・トレーサーという物語において最大のテーマになります。
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