さて問題です。現実では「1990年12月」に何があったでしょう?
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「しっかりしろインシー!!」
レースが終わるや否や、森内トレーナーもまたフェンスを乗り越えてインシーに駆け寄る。
かなりの値が張るであろう赤いスーツジャケットが砂まみれになるのもお構いなしにインシルカスラムに近づいた。
インシルカスラムは、折れた左の足首を両手で抱えながら悲鳴を上げたり殺したりを繰り返している。
「大丈夫だインシー!もうすぐ救急隊が来る!」
「がっ……あ゛あ゛あ゛!ぅああああああああああ!!」
インシルカスラムは森内トレーナーに何かを伝えようとしたようだが、やはり言葉にならない叫び声を上げ続ける。
そして、そこへ救急隊員たちが駆け寄ってきた。
「こちらがインシルカスラムさんですね、診察します!」
「頼む!こっちだ!早く!」
救急隊員たちはキットを開けると手慣れた様子でインシルカスラムの脚を診ていく。
触診をしていくうちに救急隊員の表情や声はだんだんと険しくなっていった。
「思ったより酷いな……」
「鎮痛剤を打て、一番強い奴だ!」
「先生に緊急オペの連絡を!」
インシルカスラムの左足には痛み止めのような注射が打たれた。
暴れまわっていたインシルカスラムの動きはだんだんなくなり、やがて眠ったようにバタリと倒れこむ。
とりあえずの応急処置が済んだ救急隊員の1人が森内トレーナーに視線を向ける。
「インシルカスラムさんのトレーナーさん、付き添いをお願いできますか?」
「はい……分かりました」
担架で運ばれていくインシルカスラムと、森内トレーナーだけがレース場を後にし、やがてもともと遠かったサイレンがさらに遠くなって消えていく。
大井レース場には放心したウマ娘たちとトレーナー、観客たちが残された。
「インシー……大丈夫かな……」
静寂をテンカバスターが不安そうに切り出す。
「大丈夫よ……インシーはきっと元気になるわ!」
フルセイルサルートは明るい言葉を口にはしたが、その根拠は全くない。
ガルディアコダンは後ろで砂を蹴り上げて何にもぶつけられない悔しさを吐き出した。
「こんなの勝ったうちに入るかよ……」
サイレンがけたたましく鳴り響く救急車の中で、森内トレーナーは救急隊員から診察結果を聞く。
「その、トレーナーさんには言いにくいのですが……」
救急隊員の迷いのある表情から、やはり結果は良くないことが容易に想像できる。
しかし、目をそらすわけにはいかない。
「話してくれ。覚悟はできている」
「--左足首の疲労骨折です。症状はあまり良くありません……」
救急隊員は唾を飲み、言葉を続ける。
「詳しく病院で手術してみなければ断定はできませんが……最悪の場合……」
「義足や車椅子も、覚悟しておいてください」
病院に到着し、手術室の赤い手術中ランプが点灯した。
「最善を尽くします」と外科医は森内トレーナーに告げて手術室に入っていったが。
先ほどの救急隊員が放った、義足や車椅子、という言葉は、インシルカスラムは一生自分の足で歩くことができなくなる、ということ。
レースを走るウマ娘としては死と同義であるその言葉は、森内トレーナーを絶望のどん底に叩き落すには十分すぎた。
森内トレーナーは近くのベンチで顔を覆っている。
2連闘がリスクになることなど、分かっていたではないか。
それなのに連闘してしまった。
その結果1戦を無駄にし、担当ウマ娘を負傷させ、今後のレース人生をすべて棒に振るかもしれない事態になってしまった。
チャンピオンズカップか東京大賞典、どちらかを。インシーの頬をひっぱたいてでも止めてやれば。
こんなことは防げたはずなのに。
「インシー……すまない……俺の、せいだ……」
森内トレーナーは涙声で肩を震わせる。
その手の隙間からは、涙が伝っていき、地面へとボタボタ落ちていった。
ほぼ同時期。
今年の有馬記念は、過去最高の盛り上がりを見せていた。
そこで走っていたのは誰もが知るあのウマ娘。
「--オグリキャップ先頭!メジロライアン来た!ライアン来た!」
「しかし!!オグリ先頭!!オグリ先頭!!」
実況の絶叫に後押しされるかのように、オグリキャップは、ゴール板を駆け抜ける。
「オグリ1着!!!オグリ1着!!!オグリ1着!!!」
「右手を挙げたオグリキャップ!スーパーウマ娘です!オグリキャップ!!」
実況の言葉通り、オグリキャップはレース人生のラストランで有終の美を見事に飾り、右手の拳を高らかに上げる。
その裏で、生死をさまよっていたウマ娘がいたことを。
この時点で、果たして何人が知っていただろうか。
答えは「オグリキャップのラストラン」。
つまり、シンデレラグレイ最終話と同じ時期に、この悲劇は起こりました。