小説家志望の男は、小説を書くのに苦悶する日々を過ごしていた。ある日、男が家で小説を書いていると、妻が犬を抱きかかえて帰ってきて、その犬を飼い始めた男の生活は次第に変わってゆく...。

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小説家

 朝、立ち上る熱気によって目を覚ますと、昨日と同様の退屈な一日が私を待ち受けていた。すでに南に昇った太陽の光がアスファルトを広く加熱していた。のみならず、私の部屋までをも小さい窓から差して温めていた。私はドロリとした汗にまみれる自分の肌をしばし観察した。窓より降り注ぐ熱と空調の涼しい風とが混ざり合って生暖かく、あるところは涼しくまたあるところは溶けてしまいそうな温度をもって渦巻くように私の部屋を回遊していた。

 このような状況に、私は起きしなに多少苛立った。剰え昨晩の私は(私は作家志望なのであるが)、書くことを途中で放棄していた。それは書きかけの原稿を見ずとも、キャップのついていないペンが無造作に原稿用紙の上に転がっている様子だけで、また、それが思い出させる私の記憶とによって、明らかなことであった。

 私の家は六畳一間といった大きさである。更に、私の右には私の身長を超える本棚が床を強かにそして食い込むように立っていて、要するにあまり多くの空間は無いのである。しかしこのような空間においても私の作業場としては十二分に機能する。筆の進まない言い訳としては不適当なくらいである。にも関わらず、私の原稿の文字数はほとんど増えていなかったのであるが。

 左手の方には私の服がある程度整然として積まれている。この両者に挟まれた構図で、私は普段小説を書いている。この圧迫感のある挟まれ具合が丁度よく私を書き物に駆り立てる。その良さは例えば右にテレビがあるのとは違う。あるいは例えば左に台所があるのとも違う。正面には机、正面上部に小窓、右と左とに物体として騒々しくないものを配置してあるこの状態が私にとってしっくり来るのだ。そして整然とした部屋。これが案外執筆には肝要なものである。

 私はまだ名の知れた文筆家ではない。どちらかというと、数多の応募の中から選出されて賞を受け取ってみたいなどと考えるだらしない生き物であった。今書き足りないのは量で言うと原稿用紙十枚分程度。だがその最後の踏ん張りを敢行すべき人間は、昨晩睡眠に落ちたのだ。私は悔やむべきであるのに且つ呆然と、いや寧ろ忘れ去って仕舞って、「今日頑張ればそれでいいだろう」という自己説得によって自らの罪を免れようとしていたに近かった。実にだらしなかろう?

 今月の家賃も亦懸念である。アルバイトをしていれば十分な生活ができるというのは多少の間違いを含んでいる。というのも、創作活動のための情報収集のために県外へ赴いたりするその経費までは賄いきれないからである。今月の家賃は、パートをする私の妻の協力によって食いつなげるかどうかといったところだ。

 私の妻は、小説家という身分不安定な職業に就きたいという私を、大変熱心に支援してくれる。したがって私は今もなお書き続けるに至っているというところがある。感謝に堪えない。妻との出会いは大学生のときであった。同じ文芸サークルに所属していた彼女からの告白を突然受けた時の私は、それはもう驚いた。大学時代の思い出の約半分は彼女だと言っていい。

 その後出版社に勤めるも、私は平生落ち着くことができなかった。何か人との軋轢が生じたわけでもなく、ただ単なる渇望が私を突き動かして辞めさせたのである。周囲の者たちの、「無謀だ」なり「正気であるか」なりという言葉は私にはちっとも入ってこなかった。むしろ、私は私のことを常に応援してくれている我妻に背中を押されながら小説家になるという夢が再燃したのである。

 しかし、現実はそう甘くない。小説を書くという仕事は決して易しくなかった。それは別段机の前に座ってペンで紙に文字を書きつければよいというだけの仕事ではなく、むしろもっと丹精込めて、心血を注いで絞り出すのに近いからして、当然心身はすり減る一方であるし、そして金もいま枯渇する寸前である。さらにそれでいて成果が実るのも遅い。私の書く小説が審査員をうならせたのは何年前の事であろうか。私に焦燥感があるのは至極当然であった。

 私は布団を出て妻を探した。探しながら、トイレに行った。本当にどこへ行ったんだ?トイレを出た。妻が玄関を開けるのが聞こえた。なるほど、買い物から帰ってきたようである。

「ただいま。あれ、起きたのね。昨日はどれくらい書けた? 」

 妻の言葉に喉の奥がグッと締め付けられたが、舌先だけは動いて、

「まあ、なんというか、少なくとも用紙三枚は書いた」

「その調子でね」

「うん」

 よしよしうまく会話を切り抜けたぞ、と思った自分を、今度は反対に軽蔑した。これでいいのか。良くはないだろうな、こうやって自分の不履行の上に嘘を重ねて厚く塗り付けるのは。いやしかし、自分を責めたとて何も出てこないのも分かってるんだ。いずれにせよ目の前にある事柄を進める必要があるだけな訳だしさ、等々と考えて、テレビを点ける。昼のニュースが第一に流れた。

「昼のニュースです。今朝、市内で強盗事件がありました。今日の朝十時頃、市内に住む飯尾さん宅に強盗が押しかけて脅し、現金百二十万円程度をせしめて逃亡しました」

物騒なもんだなと思った。すると電子レンジのチンという音が聞こえてきた。

「ご飯よ」

 食卓に並べられた冷凍ご飯と温めた鮭に納豆を見ながら、椅子に座った。「もう食べていい? 」と以前は一々聞いてから箸を手に取っていたが、現在はそんなことをしなくなった。時機を見て再開したいものだが。これも変わらない日常の一つである。

 私は次に、長支度を終えて玄関へと向かった。ハンカチや腕時計に鍵の束を持ったのを再度確認して、ドアを開くと、ギラギラとした日差しがいきなり私の肌を貫いた。続いてモワッとした熱気が肌を取り巻いて蒸した。私は暑さを感じた。

 歩く道道は並べてつまらなかった。それは光景が単調であったからなのであるが、とはいえ経路を変更してみるということは少なからずストレスを感じる訳で、しなかった。高い塀に、その上から顔を出してみせる赤色の屋根と二階の窓と言えば町内の誰々さんの家で、それから視界の奥にずっと映っている背の高いマンションは、一見すると新しく見えるものだが、実際には10年前に建てられた物だ。目に入る物は建物と歩行者に数台の車。これ以外に有るはずが無かろうて、実に面白みに欠ける。

 私は郊外の巨大な物流倉庫へ向かっていた。私はアルバイトなんざしたくないが、必要に駆られて仕方なしにしている。喜んでする人間がいたら素晴らしいことだ。働くということがどれだけ苦痛に感じるように人間の体が作られているのかということを想像するかぎり、これを楽しいと思える人間は少数であろうと思われる。でもそれは出来ることなら私の体にも備え付けたいような特性だ、サイボーグと化したいという私の欲望はここから湧いて出る。

 タイムカードを押して倉庫に右足を踏み入れるなり、冷ややかで人工的な空気と、迫力のある機械音とが私を覆った。さて、私はこれから一つの歯車として機能するのみだ。ベルトコンベアを流れてくる物を、一つ一つ箱に詰めれば良いのだ。感情のスイッチをオフに切り替えた。目に映る物のうち、作業を進めるために認識すべきものだけを認識する必要があって、反対にそれに必要のない物は見る必要すらない。眼球には映っても、それを脳の視覚野に反映させる前にフィルターに通す。さらに嗅覚や聴覚というのは基本的にシャットアウト。

 一粒の汗が目に入り、その度に滲みる。私はそれをTシャツの袖で乱暴に拭い、只管に腕を動かした。私はなるべく大きな筋肉を使用した。私の頭の中では普段物語の登場人物たちが忙しなくペチャクチャと話すのだが、この時間は発言を一時停止して静かにしている。その活力は絶え間ない機械音およびそれが増幅した倍音とに剥奪されている為である。私の脳を渦巻く言葉は、一度蛇口を閉められたかのようにぴたりと流出をやめた。私が現在行なっている唯一の事とは、時給千円という人参を眼前に垂らされた家畜による肉体の醜い反復動作だった。

 アルバイトという言葉は、自分でなくても良いという事実を前提にしている--思考は未だ働いていて--あるいは、たとえ自分が自分であると確認できなくなっても、問題ない。私は機械でいい。むしろミスのない適切な動作を繰り返す存在でなければ、私は取って代わられる。でも恐怖はない。恐怖ではなくて、例えば不安定な構造物が眼前に設置された場合のような心持ちなのだろう。私はまた汗を拭った。

 帰り道、私は冷え切った体を日光に解凍されながら、徐々に感情を復元してきた。するとどっと流れ出すように主人公がペチャクチャ、それのパートナーがベラベラ、だからそれでどうこう云々と騒がしくなってきて、それを自ら抑えることの艱難を放り投げて、道中の安全だけを気を付けながら他の脳を彼らに預けた。

 その日の夕方、やれやれ困憊した私は先にアルバイトを終えて机の前で文章を綴っていた。その日の妻の帰りは少し遅く、私の心に心配が生じ始めたのだが、それでついと立ち上がった所を、丁度妻が玄関を入ってきた。一安心した。

 彼女の手には、なにか幾分と惹きつけられるような毛玉がうずくまって抱きかかえられていた。実際には、それは犬だと判明した。妻が言うには、それは道端で拾ってきた犬で、誰に飼われているという様子が無く、だが寂しそうに鳴いて着いてくるものだから拾ってきたという。茶色い毛並みと耳の先の白さとが映えていた。外見では雑種犬のようである。妻の、「かわいいでしょ」という一言に、私はこの犬を家に置くことに決めた。この判断が軽率であるか否かは当時の当人には知れない所がある。

 私はその拾い犬を見ながら、一方では私の嫌な過去を思い出さずにはいられなかった。これは昔の記憶である。私が小学生にあがったくらいの頃、私の実家には金魚鉢に金魚を飼っていて、その水を週に一度くらい交換するのが私の家族内での役目であったのだが、私は週末に友達と公園で遊びに出てしまうので、金魚は汚い水の中で苦しい思いをし、結局母親がため息をつきながら水を入れ替える。そういうことが続いていたある時、母親が右腕を骨折して自由に動かすことができなかったとき、また同様に私は公園へ外出し、また疲れ果てて水の交換を怠った。するとついにその一週間後に私は金魚が水面に浮かんでいるのを目撃することになった。母親がその金魚に「ごめんね」と言いながらじっと見つめるその後ろ姿の丸さを私は今でも覚えている。

 遍く動物を死なせたくないという思いから、ドッグフードを与えることや定期的な運動をさせることなど、最低限の飼い主としての行動はしないといけないなと思った。しばらくの後、その犬は小太郎と名付けられた。妻の命名である。

 次の日の朝早く、日の光が部屋に注ぎ始めた時分に、小太郎が散歩を催促するように私の前で踊って見せてきた。小太郎はやんちゃな性格であった。仕方なかろうと思って布団を出、リードを握って寝間着のまま家を出た。生活の矯正が自然と行えるという点では、特段悪くはないと言えよう。

 我妻はパートの仕事があったので、朝の散歩は私の任務というのは相談せずとも分かっていた。無論大変に億劫だった。リードを握る手にも大した力が働かず、いよいよ手から離れそうなときになってから、慌ててギュッと紐を掴んだ。橋を渡って、しばらく堤防を歩いて、また橋を渡って、しばらく歩いて帰ってきた。

 その帰り道、小太郎は電柱に小便を気持ちよさそうに吹っ掛けた。飼い主として、飼い犬のこの行動をどのように捉えればいいのだろうかと困惑した。

 それからというもの、生き物を飼い始めた私はたいそう不器用だった。私は犬を死なせてはならぬ恐怖心から、彼が身を危険にさらす度(例えば河辺へ走り寄るなどした時)、しばしばさけぶことがあった。それでも小太郎は私の顔を見つめながら足元へ戻ってきたのちに、こびるように私の手を甲を舐めて来た。私は帰宅して直ぐ手を洗った。

 公園に連れて行けば、小太郎はほかの犬を発見するなり尻尾を振りながら共に泥へ飛び込み、転がりまわった。その後、十分泥だらけになってから私の方へ戻ってくる。そのたびに私は小太郎を風呂場へ運んで洗ってやる必要があった。私は仕方なしに風呂場に入れるが、毛が飛び散っているのを見るとため息の一つくらい出るものだった。が、大抵はきれいになった我が犬に満足して頭を撫でてやった。そういう日は、大抵原稿用紙一枚程度しか筆が進まなかった。このような生活でいいのだろうか。

 私は元来、外に出るのが好きではなかった。運動部に所属したことはないので、特に日差しが強いときほど、別に外に出る用はないと言って家に籠りがちであった。さらに小説家を目指し始めてからの日々は、用事無しに外に出ることは滅多に無かった。実際、それで満足していて困ることも無かった。しかし、飼い犬が家に来てからは、責務から相当強制的に外に出ることになった。朝、まだ東の空も薄紫色である時分にさえ散歩に行かされ、公園でほかの犬の飼い主たちと会った。

 私は初め、交流を拒むように挨拶もせずぶっきらぼうに立っていたが、時間は確かに解決するものだ。一部の人とは少々の会話を交わせる程度になった。とは言うもののこんな私よりも我が犬の方がよっぽど社交的であった。他の飼い主に「かわいらしい犬ですね」などと言われても、ぎこちなく「ありがとうございます」と言うしかしなかった私だったが、私の犬はその場でくるくると回って踊って見せていた。小太郎、お前は人間の言葉も分かるのか。

 朝の犬の散歩に慣れてくると、私は早朝の景色が存外美しいのに気が付いた。朝焼けの空の色調や草木の香、鳥の声が私の心を洗った。そして日差しが強くなる前に家まで戻ってきて、小太郎の足をふき取ってやる。小太郎の足は、その朝に元気に走るほど熱を持っていた。また、家での犬もそれほどに悪くなかった。私が居間で新聞を広げていると、その新聞で見えないところに小さく犬が座ってきて、凝と見上げてくるのである。私はわざと気付いて頭を撫でてやった。また、初めは我妻が担当であった餌やりも、気が付けば半分の機会は私が餌をやっていた。この生活で、本当に良いのだろうか。

 私は更に続く二週間、腹を空かせた小太郎に餌をやった。私は散歩に行きたそうな素振りをする犬を見てリードを握った。犬の汚れた体は洗ってやらねばならなかった。

また、私は部屋に掃除機をかけた。また、洗濯物を干した。妻がパートから帰ってきたとき、部屋が片付いているのを見て、彼女は「ありがとう」と言う。その言葉を聞いて私は毎度満足した。

 犬の世話や家事を終えると、私はいつも机の前に腰掛けた。しかし原稿用紙の空白を前にすると、私はどっと疲れ果てて、昼寝を始めてしまうのであった。自分は本当に物語を書きたいのだろうかという問いは、夢の中にも時折侵入してきて、私を苦しめ、飛び起きるに至らしめた。

 あるとき、悪夢が私を襲った。夢の中のもう一人の自分が私の欠点を指摘してきたのだ。「君という生物は、周りで起こったことにただ反応しているだけだ」と言うのである。「例えば、朝、小太郎が散歩を催促するから起きる。妻が「ご飯よ」と呼ぶから食卓につく。テレビから流れるニュースにああだこうだと思った事を零す。小太郎が足元にすり寄ってくれば、その頭を撫でる。これらすべては外部の刺激への反射運動なのではないか?能動的に何かを生み出す作家を志望する男は、一方で周囲の事物の傀儡ではないか?他にも片付いていない部屋があるから掃除をする。洗濯機の中に干すべき洗濯物が入っているから干す。機械にも分かる因果関係だ。」うるさいなあ。

 さて、翌日の午後、妻が玄関の錠を開ける音がしたので、迎えようと玄関へ向かった。すると、半開きのドアの向こう側に妻ともう一人の女性が立っていた。

「こんにちは!お邪魔します」

 快活な声と共に部屋に入ってきたのは、妻と同年代と見える、活発な女性だった。手にはビビッドな色の布でラッピングされた箱を持っている。おお。

「あなた、この間話してた、パート仲間の佐藤さんよ。家が近くにあるからって、寄ってくれたの」

 妻の紹介を半分聞き、もう半分の意識は佐藤さんを見る視覚へ注がれた。私は曖昧に頭を下げた。佐藤さんなる女性は、私の右手に万年筆が握られているのを見ながら「旦那さん、本当に作家さんなんですね!すごいわあ」と言った。

「いえ、まだそんな……」

 自分の言葉だのに、それを発する途中でそれが自分でぞっとする内容だったから言い差した。口ごもる私をよそに、妻は「ささ、上がって」と佐藤さんをリビングに招き入れていた。小太郎が興味津々と佐藤さんの足元へ寄っていって、尻尾を振った。佐藤さんは「あら、可愛い! 」と声を上げ、慣れたような手つきで小太郎の喉を撫でた。

 佐藤さんは、実に快活な人だった。彼女が持ってきてくれたのは手作りのパウンドケーキ、そのラッピングも自分で施したのだという。

「最近、お菓子作りにハマっちゃって。これはオレンジピールを入れたの。旦那さんも、よかったらどうぞ」

 勧められるままにケーキを口に運ぶと、爽やかな香りが口の中に広がった。香りは少し過剰とも思われた。不味くはない。

 暫くして私は席を外した。妻と佐藤さんの会話は弾んでいるようだった。パート先の人間関係のことから、最近見たテレビドラマの話、そして佐藤さんが今夢中になっているというガーデニングの話。ベランダで育てているというハーブの写真を見せながら、「このバジルでジェノベーゼソースを作るのが最高なのよ」ととめどなく話す彼女の声は、自室にいる私にも聞こえてきた。

 自分の趣味嗜好を何の衒いもなく語る彼女の声は、何故だか私を不快にした。彼女の世界は、具体的で、彩り豊かで、地に足が着いている。それに比べて、私の世界はどうだ。書けない小説のことで頭を悩ませば、家賃の心配をし、唯目の前で起こる出来事に反応するだけのロボットの視点ではないか。二人の女性の楽しそうな笑い声は、扉を隔てた向こうで響いていた。不図足元に目をやると、小太郎が私の膝に顎を乗せて、つぶさに私を見上げていた。見てこないで。

 作業机を前にした私は、暫し考え事をした。夢の中の自分が説明したことも亦真実ではないかと思い始めたのだ。今まで私は小太郎や妻のために何かをしていると思っていたが、そうではなく実際問題私が居なくても世界は成り立つし、犬や妻の存在に、私が生かされていただけなのではないか。彼らの太く強い生命力の傍らで、書けない自分を慰めてもらいながら、同時にやるべき事を自ずから提示して貰うことで、何もせずに一日を終えることを辛うじて回避しているのではないか。誰かのためにあれこれするという、外見では明白で疑いようのないほどに親切な行為は、実効的に、書けない又は書きたくないという漠然たる拒絶に基づいて、上手くいかないことから目を背けるための、心地よい逃避理由だったのではないか。そうだそうだ、そういうことだ。はっはっは、ああ苦しい。

 暫くして佐藤さんは帰った。妻は「楽しかったね」と満足顔で言った。小太郎は遊び疲れたと見えて、クッションに横たわっていた。妻は「パウンドケーキがあるから、夕飯が終わったら食べてね」と言って、冷蔵庫の方へ向かった。私の目の前に広がった原稿用紙は、佐藤さんが来る前と後とで些かも変わらなかった。次の空欄を埋めるべき文字の候補すら、私は持ち得ていなかったようだ。

 小太郎の散歩、妻との会話、家事の手伝い。それらに対して、小説を書き進めることというのは、どちらが私の本望なのか。私は混乱し始めた。私の具合が悪くなり始めたのは丁度この時からだった。

 その日の夜、私はなかなか眠ることが出来なかった。隣で眠る妻の寝息と、足元に丸く眠る小太郎の気配とが取り巻いたこの空間で、私は天井を見つめていた。天井は広く私の視界を埋めつくしていた。するととみに私を幻覚が襲った。天井が迫り落ちてくる幻覚である。その加速度は重力加速度九・八メートル毎秒毎秒、現在の速度は五メートル毎秒に達したようで、更に更に重力という鉛直下向き方向の引っ張りがすぐに天井と床とを接近させて、私を押し潰さんばかりの勢いをもって、およそ私の鼻の先より僅か三寸ばかり先のところまで来ると、私は意識を失うように、コトリと眠りに落ちた。

 翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。以前見た薄紫色の空が、今日も広がっていた。小太郎はまだ眠っているようだった。私はそっと布団を抜けて、机に向かった。万年筆を手に取り、原稿用紙の前に再度座る。だが、筆は動かなかった。私の脳内の人物たちは、まるで毒キノコを食らったかのように静かで動かなかった。指先は震え、体全体は冷や汗に塗れていた。私はひとまず風呂に入ることにした。

 風呂を出ると、玄関のドアがガチャリと鳴るのが聞こえた。妻がパートへ出かける時間だった。私は慌てて下着を着て、彼女の元へ駆けて

「行ってらっしゃい」

と言ってみた。妻はいつも通りの「行ってきます」を言って玄関を出ていった。

 ドアが閉まり、静寂が帰ってきた。私は再び机の前に戻った。すると、小太郎が顔を出して、私を見上げてきた。

「散歩の時間か」

 小太郎を散歩に連れ出していると、向こうの堤防のところに、何やら怪しいくらいに派手な屋台が立っているのが見えた。虹色の旗を掲げて紅白の色のテントの中に一人立っていたのは、紫色のマントを纏いプリキュアのお面を顔につけた老人だった。私は少し気味の悪さに、反対に惹きつけられた。というのも、屋台テントに大きく「言葉屋」と書いてあったのだ。小説家を目指している私にとってこれは飛びつくしかない。

「いらっしゃい。良い言葉置いてあるよ! 」

「何があるんですか? 」

「それは開けてからのお楽しみさ。一個二百円だよ」

「二つください。五百円でお願いします」

 私はポケットから五百円玉を取り出して渡した。

「毎度あり。はい、百円のお返しと、これ言葉二つね」

 それはスクラッチくじのように、派手なチラシの上に銀のシートが、いかにもコインで削ってくれとでも言わんばかりに横たわっていた。早く中を見てみたいという好奇心から、私は小太郎を抱きかかえて家にすぐ戻った。

 いよいよ買った言葉とのご対面である。私は先のお釣りの百円玉を右手に息を呑んだ。そして硬貨の下の部分を銀のシートの端の部分に当て、そのまま擦っていくと、短い言葉が出てきた。私はそれを読み上げた。

「君死に給ふこと勿れ」

 これは何だ。与謝野晶子の詩にある言葉じゃないか。私はもう一つのシートも勢いで削ってしまった。

「恥の多い生涯を送ってきました」

 これは。太宰治の人間失格か。つまりは、四百円の損害が出たって訳だ。あの老人め。

 私は書く気が起きないままぐうたらしている内に、体が自然と布団に潜り込んで、昼寝してしまった。二時間の後に起きて、時計を見た。私は嫌な予感がした。カレンダーをパッと見ると、カレンダーの今日に日付のところに大きな赤い丸があった。数字をすっぽりと大きく囲んだ丸が、一瞬ぎょろりとした目玉に見えた。文学賞の応募締切日、当日消印有効と書いてある。一方私の原稿は未完成。それは、推敲をする以前の問題として、未だ書き切っていないということだった。

 少しして、妻がパートから帰ってきた。玄関のドアが開く音を、私は聞き逃したかった。しかし私の心臓が速い鼓動を打ち出したので、嘘はつけないな、と思った。

「ただいま」

 普段と違う声色だった。

「おかえり」

 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどの掠れた音として鳴った。妻はリビングに入ってくるなり、まるでそれを待ち設けていたかのように、私の背中に向けて明るく質問した。

「今日、締切日だったっけ?出せた? 」

 私は沈黙した。というより、口を開いても言葉が出なかった結果沈黙が出来上がった。妻の足音が近づいて来た。

「ねえ、どうなの? 」

 私はとうとう観念した。それでも妻の顔を見ることができず、私は背中を向けて発声した。

「……ごめん。間に合わなかった」

 再度沈黙が場を席巻した。

「……え? 今、なんて言った? 」

「だから、書けなかった。応募、まだできてない」

 妻は絶句した。私は居た堪れなくなって、妻の顔を見ないようにしながらすり抜けてドアを通り抜けて、玄関を走り出た。涙は出なかった。

 私は小さな鞄ひとつとなけなしの金を持って町の小さなカフェに駆け込んだ。私は「アイスコーヒー」と店員に言い放って席に着いた。私は横柄だった。暫くして店員がコーヒーを持って来た。そのコーヒーに、私はパステルカラー縞の入ったストローを、氷を掻き分けてぐんと突き刺した。一口飲んでから顔を上げると、向かいの椅子に、もう一人の僕が座っていた。私が困惑している間に、彼は話し始めた。

「君は自分自身のことを、小説を書きたい人間だって信じてやまなかったけど、本当にそうなのかという確認を怠っていて、結果、その言葉を信じて応援してきた愛妻を今裏切ったことになった。人には準備というものがあって、例えばショックなことを伝えるときに、それをいきなり提示されるよりも、今から聞く話を驚くなとかそういうことを言っておけば多少和らぐというものだろう。それを何だ、自分はこれまで小説が自分自身好きなんだという暗示をかけながら、実際には犬と家事ばっかりにかまけて、少しも書けていやしないじゃないか。それを俺は物書きとは言わないと思うね。いや、例えばそれが君の意図通りで、アイデアが出てくるのを熱心に待っている最中だというならまだ分かるが、それでも書き上がっていないというなら呑気で無計画な物書きだね。いや、それはただの趣味だろう。それが仕事になると思ってる時点で中々におかしいね。第一、何をしたいのかがとんと検討が付かない。君は小説を書きたいとしか自身にも言い聞かせていないし、犬が可愛いとも妻を大事にしたいとも聞いたことがない。確かに、妻に対しては感謝に堪えないと言っていたかもしれないが、じゃあいずれにしても態度として、意思表示してみろって話だ。先に食べるね、を時機を見て再開したいとか言っていたが、それはいつ敢行する予定なのか僕に聞かせてくれよ、今。今言えないというなら、じゃあそれはいつ考えるのか言ってみろ。ほら、無計画だろう。そういうところなんだよ。無計画なのに文字を思うがままにつらつら書いてみたり、たまに気が進まないからといって書くのをやめたり、しまいには自分の妻にさえ嘘をついてやり過ごす始末さ。で、何がしたいんだって俺は君に聞いてるわけなんだけど。君はどうせそれも無計画なんだろう。今後の人生も成り行きに任せてるわけだ。そうやって、自分が何をしたいのかを見誤って、あるいは偽の目標を自分に言い聞かせて失敗して、今俺が計画を立ててみろと成長を促しているにもかかわらず、君はどうせ答えないんだろう。わかってる、君は怠惰なんだ。そうだろう?いい加減認めなさいよ。君は怠惰なんだ。怠惰だから、そうやって自分の人生のみならず周りの人間にも迷惑をかけて、謝罪する気があるのかい。でもね、人っていうのは本当は謝罪ではなくて改善がほしいと思うものなんだよ。君みたいに、謝ればいいんでしょとか思って、形だけ謝って次に何をするのか宣言もしない。そんなこと思ってない?でもね、結局実際に改善していなければ同じでしょうよ。心から謝っていようがいまいが、そこは肝心でないんだ。改善してみせろよ、または改善の計画を立ててもいい。少なくともそうやって愚図愚図して、今は体調が悪いんだとか言い訳してる場合じゃないんだよ。次に何を書けばいいかわかんないとか他の人には知った話じゃないしね。君が書きたいか書きたくないかなんて、誰も興味なんか無いんだよ。とにかく君は書けばいいんだ。そうすれば妻を悲しませずに済むだろう?別に小説を書くこと以外何もするなと言ってるわけじゃない。ただ、休むなら計画的にしろって言ってるだけなんだ。または初めから書くという夢をあきらめてくれても僕は困らない。とにかく他の人に対して、自分が今何をしたくて、将来どうなりたくて、だからそのために今できることは何で、そうするとどういう良いことがあるのか、これら全ては現在の君が他人に説明するにあたって最低限必要なことじゃないか?反論するのに時間がかかるならまずやってみなよ。君には時間がないんだ、残念ながら。だから俺が君を幸せな方向に導こうとしてるというのに、これが要らないと言うなら、どうぞご勝手に。ただし、やってもみないことを頭ごなしに否定するってのは好ましいことじゃないね。あとは自分で考えてみなよ。ただでさえ今は時間が惜しいんだからさ」

 彼は僕のコーヒーをストローから一口吸い出した。

 彼が一口つけたコーヒーを私がもう一口飲むと、先より増して苦味が広がった。どうして僕は僕に叱られなきゃいけないんだと我に返った時、見上げると、もう一人の自分は既に居なくなっていた。頭は自然と俯いてしまった。私に私の、得意と錯覚した不得意を指摘されるほど悔しいことはない。拳をギュッと握った。

 私は不図、自分の手が自然と再び何かを握っているのに気がついた。それは、ポケットの中に捩じ込んでいた私のボロボロの万年筆であった。この万年筆の上の様々な傷を見て、私は、これまでの日々に思いを馳せた。そして、鞄の中でクシャクシャになった原稿用紙も取り出した。笑えるくらい酷い皺だった。それでも私は一生懸命紙を平らに広げようとした。昔、私が小説を面白いと思い始めてから、今、私がいかなる不幸を背負っている時でさえ、それを言葉にしてきたのが私という存在だった。万年筆を持った。私には一生涯この方法しかなかったのだ。万年筆のキャップを抜いた。私はこのような窮地でさえ、私は私であろうとしたのだ。震える筆を指による筆圧によって抑え込んで、初めの一文から、今一度書き付けようとした。その時、

「苦しさ蹴り飛ばすリズム」

私に舞い降りてきたその言葉を、私は脳内で数度反芻した。すると私の頭の中に、ある一定の愉快なリズムが鼓動し始めた。私の体は自然とそのリズムに乗り始め、脈動も正しく強く聞こえた。ダンダカダンダン。ダンダカダンダン。苦しみがあるからなんだというのだ。どんな苦しみがあろうと、私のこのリズムがすべてを突き飛ばす。私の体中をリズムが循環した。私は楽しくなってきた。そして私の頭にあった全ての重荷の前に、雄健なリズムが堂々登場し、その屈強な脚を後ろへ引き、悉くを破壊し尽くさんばかりの力を蓄えて、今大きく蹴り飛ばした!私の苦しみは遠い空へと打ち上がった。

 苦しさを捨て去った私を止められる物はもう無い。私が何年小説を書いてきたと思っているのだ。私がどれだけ苦心しながら言葉と向き合ってきたか。そして私は漸く、私がむかし持っていた文学の楽しさというものを思い出した。リズムは止まらない。止まるはずが無い。私が筆を持つ限り、剛健なリズムは鳴り続ける。ダンダカダンダン、ダンダカダンダン。

 私は書き始めた。私の歴戦の万年筆の先端が、普段使いの書き心地のよい原稿用紙に触れ、濃厚な黒のインキの滲みが、圧倒的な言葉を連ね始めた。私の言葉は止まることを知らない。とめどなく噴き出した我が独特のランゲージは、手中の細き筆を純然サラサラと流れ抜けて、その中で静かに統合されて端的に変質し、いやしかし著すべきことの一片を露程も欠落させることなく、ペン先のインキの緩やかな滲出の姿を現して、紙上の繊維に触れるやいなや、ドクドクとグロテスクな痕跡を紙一杯に広げだすと、筆の後方に残された単語達は各々で踊り始めた。

 同時に、私の小説世界も原稿より弾け出した。張り始めた世界のフロンティアが、窓の奥の地平線の先で拡大していくのが見えた。私は完全に没入世界の住人として、それも最古からの、創世に関わって久しい住人として、愉快な新しい登場人物達に色を塗りつけていった。各々は鮮やかな色彩を持って、生き生きと躍動した。

 そうして出来上がった世界は、現実世界に対して垂直に堆く聳え立って、のみならず天国と地獄とを忽ち横の位置から大きく揺るがしてしまうような危険性をさえ持っていたので、私はそのあまりの強大さに舌なめずりをした。果たして私は最後の見回りをして世界を立ち去って、書き付けた用紙を丁寧に並べてクリップで留めた。世界は存外数十枚の紙に折り畳まれて、周りが急に静かになったように感じた。私は懇ろに茶封筒に封をしながら、これが開かれた先で人々にどれほど愉快な世界を展開してみせるかを想像した。実に清々しく思った。

 私の視線は時計へと向けられた。時計の針は十七時を過ぎていた。郵便局はもう閉まっている時分である。ということは、提出ができない。全ては間に合わなかった。先のリズムはもう鳴っていない。やはり時は残酷であるな、などと思うとやっと涙がホロリと流れ出してきたので、自然な動きで拭おうと顔に手を伸ばした。あれ、拭うことは出来なかった。おかしいなと思って両手で顔を触ってみた。すると驚くべきことに、私はお面を被っていたのだった。後ろ頭のゴム紐を外してお面を外してみると、それはピンク色のプリキュアのお面だった。「ああ、あの屋台のか」と私は変に納得してしまった。

 さて、私はもう一度時計を見た。針は十四時半を示していた。確実に間に合う時刻だった。やった。私は足早に喫茶店を出た。そして郵便局に入り、消印を押してもらった後、家に戻った。

 少しして、玄関のドアが開く音を聞いた。妻がパートから帰ってきたようだ。

「ただいま」

 普段と違う声色だった。

「おかえり」

 続けざまに妻は私の背中に向けて明るく質問した。

「今日、締切日だったっけ?出せた? 」

 今度の私はハッキリと聞こえるように

「うん」

と答えた。

 しかしどうした事だろうか、普段に比べて部屋が幾分静かなのがわかった。

「小太郎は? 」

「小太郎?誰のこと? 」

 私は「えっ」と言いかけたが口からは出なかった。小太郎は初めから居なかったと妻は言うのである。そんな訳が無かろうて。私は家中の部屋部屋の電気を点けて隈なく机の下まで探した。妻は不思議な顔をして、捜索には参加しなかった。寧ろ私の事を心配がって、「大丈夫? 」とか言った。私の頭脳は只今ヘンテコリンに候。

 夜、小太郎のいない家は実に静かでつまらなかった。吠える音もなく音もひとつも無いとなると今度は寂寞の音が代わりにゴーンと聞こえてくる気がした。私は感傷に浸ろうと布団に入って、結局忽ちに寝た。

 私は再度夢を見た。しかし、これまでの悪夢ではなく、なんとも奇妙な夢だった。勿論もう一人の自分は登場してきたのだが、感じの悪いくらいにニコニコと微笑しているのである。

「よくやったね。それでこそ自分。さて、今からまたあの河川敷に来てくれ」

ともう一人の自分が話し終えた時、イテテテ!私の右足が攣った。私は酷いやり方で起こされたというわけか。一々癇に障る。起きて河川敷に向かった。

 河川敷には、例の言葉屋の老人が立っているのが見えた。初めは遠く小さく見えたのだが、歩いて近づいていくにつれて、その老人自身が実際に一回り小さくなっているのに気がついた。老人は話し始めた。

「小太郎がいなかっただろう?フッフッフ。私が小太郎を拵えたのだ。機械仕掛けの知識をふんだんに利用してな。それで小太郎は、君が自分自身を怠惰だと思うための装置だった。また、都合のいいことに、君は周りの現象に反応しているだけだった。私はまんまと引っかかってくれた。アーッハッハッハ。実におかしいよ」

 そう言うと老人はサラサラと消えていった。ごめん、どういうこと?理解に苦しんだが、なんだか腹が立った。

 翌々日、私がバイトで再度ロボットと化していると、良くない報せが私のところに来た。警察からだった。強盗が家に押し入って妻を刃物で刺したという。なんだって!

 私はまず妻の居る病院へ向かった。妻は私のことをあれだけ熱心に応援してくれる、私には無くてはならない存在で、病室に入ると、妻は意識がなかった。私の呼びかけのどの一つに対しても応答する仕草を見せなかった。このような事件が起こるということを事前に予期することは出来ないと考えると、私はどうすることも出来なかったし、それだけ非力な存在なんだろうと思った。世界とは、無慈悲なのであるよ。私は再度お面を被っているか確認したが、今回は無いようで、それからリノリウムの床に崩れ落ちた。

 家に帰ると、金目のものがおおよそ盗まれていた。大変ふざけた犯人だ、私一人をこのように窮地に追い込んで何がしたいのか見当もつかないよ。私はしがない物書きだ、別段私が世界に居なくたって全ては機能するし、そういう影響力を持たない生物。害をなさない昆虫と考えてくれたっていい。何れにせよ、このようなか弱い生物を虐めるようなことはしないで欲しいな。私はとっても悲しくなった。

 帰り道、また私は河川敷に向かった。それは一つの素晴らしいアイデアが脳内に浮上してきたからである。そして私は無人の草原に向かってこう言い放った。

「私は私だが、実は貴方ももう一人の私なんだろう?それでは一つ手伝ってもらいたいことがある。私は大きな小説世界を現実世界に横向きに創造した。この小説世界を使って、不都合な現実世界の深淵を覗きたいと思う。できるか? 」

 私が言い切った時、もう一人の自分が塵から甦ってきて、私の横に立った。その容姿は正に私に他ならなかった。現実世界と私の小説世界という二つの世界があるため、私も二人いるというわけだ。彼は小説世界の私だという了見を私は既に得ていた。もう一人の自分は答えて言った。

「我ながらいい案ではないか。しかし世界という巨大な劇場機械の構造を覗くには、残念ながら一度全てを分解する必要がある」

 指をパチンと弾くと、遠くの町の郵便局から大きな爆発音がした。見覚えのある原稿用紙から開き出した薄紫色の朝焼けが、空を塗り替え始めた。横向きに聳え立った我が摩天楼も始動した。屋上から極上の音楽が地面へと波を打ち、到着した波動が、地面を猛烈に揺すり始めた。すると忽ち地面は芯から散り散りに割れ、天は激甚の竜巻七つが吠えた。現実世界は私の小説世界の五秒に耐えられず分解した。その上に、新世界が安全な歩道を無限遠へと引いた。陸と海を失った星に残ったのは、重くゆっくりと回転する巨大な歯車と、その中を精緻に刻々と回転する歯車の数々だった。しかし元来地面であった塵は、大きな星の機械部品を包み始め、更にそれを天球が包む格好が今一度構成されていった。

「さあ、君はこの間に、どのような構成要素が世界をどのように組み上げているかを確認しなさい。急がないと規律に基づいて世界が元に戻ってしまう」

 私は私の住む家を探した。初めに最寄駅を発見した。続いて河川と思しき水流を発見した。すると、その河川敷から伸びた道を辿って一人の女性が私の家へ侵入する様子を目撃した。その女性は妻と目が合うなり、手に握っていた刃物を手慣れたように素早く腹に突き刺した。私はその犯人の顔を窺って、恐懼した。その女性は佐藤さんであった。

「そろそろ世界が組み上がる。見たいものは見れたか? 」

 私は確信して答えた。

「ああ。そして次に為すべきことも分かった」

 隣のもう一人の自分は頷いた。

「ならば行ってきなさい。因果律を断ち切りに。そして君がどんな物語を織りなして見せるか、私はこの世界から楽しませてもらうとしよう」

 彼がそう言い終わると、世界は元の様相を回復した。アスファルトの生臭さ、遠くを走る車たちの喧噪、嫌に生暖かい風。悉くは元通りになった。そしてもう一人の私は、気付けば姿を消していた。

 私は病院へと踵を返した。妻の寝ている病室へと戻ると、妻は未だ静かであった。だが、粘着質の黒い糸が彼女の身体に走っているのを見た。それは、妻が佐藤さんに刺されて命を落とすという不可避の因果律を表した一本の線だった。それは、この世界の創造主が制定した絶対的なプロットの一行であった。私は暫し熟考した。

 病室を出た私は、近くの公園のベンチに座り、鞄から原稿用紙を取り出した。そして私は実験のために次のように書きつけた。

『その作家は、一匹の愛くるしい犬を飼っていた。名前は小太郎。主人の帰りを毎日待つ、忠実な犬だ。主人は家に帰るといつもその犬を撫でまわした。』

 書き終えた私は、さて、我が家へと向かった。この実験が正しく行われたならば、したがって次のことが起こった。玄関のドアを開けるや否や、「ワン! 」と聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきた。そこにいたのは、小太郎だった。私は成功したと思い独り嬉しがって、よくよく小太郎を撫でまわして、それを腕に抱いて机に向かった。私はようよう元気を取り戻して、同様の手順によってあれこれの不都合を多少何とか出来るだろうと類推した。

 私は原稿用紙の束を前に、深く息を吸った。次に私は幾許か試みるために何か書きつけようとした。ペン先が紙に触れた瞬間、卒然私の意識は六畳一間の部屋を抜け出して、暗い森の中へ移動した。一体全体どういうことだ。森の奥へ進むと、蔦に被覆された古く堅牢な城があった。この城は何だ。訳が分からないけれども、私がこの城の前に飛ばされたということは、常識的に考えて入ってくれという話だろうな。

 城の中はしんと静寂に満ち満ちていた。壁面には、複雑な数式に判然としない言語で書かれた設計図が無数に貼られていた。最奥の玉座に、若い女性が座っていた。

「愚かな作家よ。漸くここまで辿り着きましたね。私はこの世界の秩序を守る者。汝のような、物語の理を搔き乱す者は排除される運命にある」

 彼女は立ち上がった。

「あらゆる世界には、その創造主がいる。その作家が定めた因果律、プロット、ト書きこそがこの世界の絶対的な規律。しかしあなたは、この世界を一度破壊した。その上、小太郎という存在しない犬を創り出した。否、丁稚上げた。汝のインキが、この世界という神聖な紙を汚し、世界に大きな変化を齎そうとしている。佐藤が汝の妻を殺したのは、その死によって汝の筆を停止し、世界の平穏を守るため。それは世界の創造主の宣告であり、私刑ではない」

 そうか、と私は納得した。彼女はこの現実世界の創造主だったのだ。

「汝は生涯小説を書きあげることの叶わない人物。それは絶対的な設定事項。だのに汝は何某かからの干渉に従ったため、規律に違反した。それどころか、汝は今この世界の物語の進行の阻害を試みている。そのような者には天罰が下る」

 しかし勇敢な私は恐れずに彼女の瑕疵を指摘した。

「貴人は一つの間違いを犯した。私は、最早貴人の物語の登場人物にあらず、自ずから意思決定をする人物だ。そして今、私が進行すべき物語の顛末は、私自身によって決断される」

 私は最後のページに、斯く最終文を書き付けた。

『かの城に住まう創造主の定めた因果律は彼女の恣意に他ならず、私という新たな創造主からしてこれは看過されない。再び私の物語がそれを崩し去る。世界は私の物語を軸に回り始める。』

 彼女の冷静な面持ちは一転して驚愕に歪んだ。

「まな、愚かな作家よ、世界が崩壊するのだぞ! 」

「問題ない。『私の物語は余程頑丈な作りである。』と今書き足した所だ。」

 彼女の絶叫と共に、城はガラガラと崩れ始めた。ざまあ見やがれ。現実世界は再び私の小説世界の五秒に耐えられなかったのだ。十秒もすると美しい世界の幕開けが、薄紫色の空とともに眼前に広がっていた。この結末が意味することとは、すなわち、私が終に、真に作家となったということだ。作家とは、畢竟、何れの外界の仕組みの囚人にあらず、寧ろ内より開けてくる世界の上で前進する他ない人物なのであった。

 私は直って、新しい世界を次々に建てていった。まずは地形。見慣れた光景でないと私はストレスを感じるから、旧世界の全てを移植した。例えば高い塀に、赤色の屋根と二階の窓を見せる町内の誰々さんの家や、背の高い十年前からのマンション。私のバイト先の物流倉庫も凡そ元通り。次に人間を含む生物を、その体内にそれぞれ自動的に働く心を詰めて配置した。勿論妻も再生させた。

 私はこのように私好みに作った世界で楽しく後生暮らしたのだった。

 

 


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