殺人鬼達に救われる道はあるのか?   作:コミカド

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今回は時系列的には原作本編の2年前の出来事です。

長年追い続けてきた結果が実ると、細かいことや周囲の事なんか脳裏から吹き飛んで忘れてしまう事も時々あると思います。
今回はそういう話です。


仁久井村未来エネルギー研究所情報流出事件
なぜ情報流出は成されてしまったのか?


 まるで昭和にタイムスリップしたみたいだ。

 

 電車とバスを経由し、木造の吊り橋を渡った先にある町並みを見た珠樹は思わずそんな感想を抱いた。

 電柱は木造、家屋の壁にはホーロー看板、道路を走るのはクラシックカー、更にはダイヤル式の公衆電話が現役と言う、いまや教科書や映画のセットでしか見れない光景が目の前に広がっていた。

 

「ここが『仁久井村』ですよ。迎えの人間が着ている筈ですが…」

 

 スーツ姿の中年男性が珠樹に話しかける。

 彼は今回の珠樹の依頼人で同行者の寺田。

 彼は岡山県に本社を置く化学製品の開発を行う大企業、『エイトストーン』の営業課長である。

 2人は、ある事実の確認のためにこの村を訪れていた。

 

「しかし本当なんですかね?あの噂。」

 

「うーん、どうでしょう。我が社としては間違いであって欲しいと願っていますが…」

 

 珠樹の質問に寺田は腕を組んで難しい表情になる。

 するとそこへ、一台の自動三輪車が二人に向かって走ってくる。

 荷台を付けたその車から、眼鏡をかけた白衣姿の優男が下りてきた。

 

「どうも。緑川教授の使い出来ました、中神です。ええと…」

 

「はじめまして、弁護士の野々宮です。本日は突然の訪問で申し訳ありません。」

 

「いえいえ、お気になさらず。寺田さんもお久しぶりです。」

 

「ああ、久しぶりだね、中神君。緑川教授は研究所に?」

 

「はい、いらっしゃいます。申し訳ありませんが荷台に乗っていただいて宜しいですか?」

 

 中神に促され、珠樹と寺田は三輪車の荷台に乗り込む。

 

 三人を乗せた三輪車は町中を抜け、やがて古めかしい外観をした建物の前で止まった。

 

「ここが、そうなんですか?」

 

「はい。ここが緑川教授の研究所、『仁久井村未来エネルギー研究所』です。」

 

 珠樹の質問に中神が答える。

 

 三輪車を降りた珠樹と寺田は中神の案内で研究所はいる。

 外観こそ古びているが、中は最新の器具が揃った立派な研究施設である。

 

 ここで開発された物なのか、いくつかのプラスチック製の製品も飾られていた。

 

「教授は現在実験中なので、それが終わるまで此処での研究についてご説明します。」

 

 中神はそう言うと、珠樹達を水槽が並べられた部屋へと案内する。

 中を覗くと、どの水槽にも緑色の藻が大量に育っていた。

 

「これが例の『無尽藻』ですか?」

 

「はい!緑川教授が研究している未来のクリーンエネルギー、オーランチオキトリウムです!」

 

 この研究所で研究されているのは、いわゆるバイオエネルギ―、石油に代わりオイルを作り出す藻である。

 従来オイルを作り出すオーランチオキトリウムは成長に水や養分を必要とし、体内に蓄積されるオイルを精製するにはコストが掛かるものとされてきた。

 

「ですが、無尽藻は違います!光合成によって成長できるので二酸化炭素だけで成長しますし、オイルも自然と体外に排出されるので水槽の水を特殊なフィルターで濾すだけで大量のオイルを抽出できます!」

 

「しかもこの無尽藻の生成率従来のオーランチオキトリウムの数百倍。まさに『生きた油田』という訳だ。」

 

 熱を帯びる中神の説明を寺田が補足する。

 化学製品を扱う企業の営業らしく、こうした知識も豊富らしい。

 

「ただ、この無尽藻にはある重大な問題がありましてね。無尽藻は大戦中にこの村の小さな沼で発見されたんですが、なぜか村を離れるとオイルの精製能力が無くなってしまうんです。」

 

「なるほど。その問題を解決しない事にはこの未来のクリーンエネルギーも絵に描いた餅。だからそれを解決する研究をここでやっているという訳ですね?」

 

「はい!その通りです!」

 

 研究に理解を示す珠樹に中神は高揚した様子を見せる。

 それは単に自分が地球のエネルギー問題を解決できる技術に関われる高揚感とは別に、もっと何か別の個人的な感情がある様に珠樹には見えた。

 

「お疲れ様です。実験、終わりました。」

 

「ん?ああ、お疲れ様、谷瀬さん。」

 

 するとそこに眼鏡をかけた黒髪の女性研究員が現れる。それに続いて若い二人の研究員、そしてその後ろから一人の中年の研究者が現れた。

 

「ふう、お疲れ様。あっ、寺田さん、いらしていたんですね。申し訳ありません。待たせてしまったみたいで。」

 

「いや、お気遣いなく、緑川教授。」

 

 この緑川教授こそ、仁久井未来エネルギー研究所の所長であり、無尽藻の研究の第一人者である。

 そして寺田が勤めるエイトストーンは、緑川教授の研究に多額の出資をしていた。

 

 寺田と緑川教授の関係は意外に長く、緑川教授が無尽藻に注目し大学で論文を執筆した際、それに注目した寺田が緑川教授に接触。

 無尽藻の実用性に強い興味を抱いた寺田は会社に働きかけ出資金を出してもらい仁久井村未来エネルギー研究所の設立に寄与した。

 ある意味寺田は、緑川教授を裏方として支えた存在と言えた。

 

 

 

 挨拶もそこそこに、応接室代わりの休憩室に移動すると珠樹は寺田と並んで緑川教授に対面した。

 中神が出してくれたお茶で口を潤わせつつ周囲の様子を窺うと、実験を終えたばかりの研究員たちが興味深そうに珠樹達の方へ聞き耳を立てていた。

 

「それで、今日はいったいどういうご用件でいらしたのでしょうか?電話では研究について聞きたい事があると伺いましたが。」

 

「…緑川教授、単刀直入にお聞きします。貴方は既に、無尽藻がオイルを精製するのに必要な環境因子を特定していますね?」

 

「え?どうしてそれを…」

 

 寺田の質問に緑川教授は戸惑った様子を見せる。

 

 無尽藻のオイル生成能力の鍵となる重要な環境因子、通称『緑川因子』が特定できたのはつい先日の事。

 それについて知っているのは研究所の職員のみ。

 さらに詳細なデータについては緑川教授個人が所有するチップに纏められた『緑川因子レポート』にしか記していない。

 

 なのにどうして『緑川因子』を特定した事を寺田が知っており、弁護士まで連れて訪問してきたのか緑川教授には全く分からなかった。

 

「どうなんですか?特定、出来たんですよね?」

 

「え、ええ、まあ。きちんと研究成果に纏めてから発表するつもりでしたが…」

 

「…それは、どちらで発表を?」

 

「えっ?ああ、いや実はインターネット上で無料公開しようと思っています。」

 

「……それは何故?」

 

「ええと、手前味噌ですが私は自分の研究をエネルギー問題の解決に寄与する研究であると自負しています。この無尽藻による油の精製技術が世に広まれば、世界を救う事にも繋がります!だから私は、この緑川因子の成果を世界の人々と分け合う事こそ自分の使命だと思うんです!」

 

 緑川教授は誇らしげにそう語る。

 自分の研究が世界の人々の幸福につながる。

 それは研究者にとって何よりも素晴らしい事だ。

 そしてその素晴らしい成果は欲を掻いて特定の個人が独占するものでは無く、出来る限り多くの人々と共有する事が世界を良くしていくことに繋がる。

 そう信じて疑わない様子で。

 

 だがその言葉が、寺田の怒りに火を着けた。

 

「馬鹿野郎!なんて事をしようとしてるんだ!」

 

 寺田は机を叩くと、怒りの形相で立ち上がり緑川教授を見下ろす。

 緑川教授は寺田の豹変に呆気にとられ、口を開けたまま興奮する寺田を見上げていた。

 

「ど、どうしたんですか、寺田さん?」

 

「どうしたじゃありませんよ!緑川教授、あんたウチとの契約を忘れたのか!?」

 

「ケイヤク?」

 

 気が動転した緑川教授は一瞬寺田の発した言葉の意味を計りかねる。

 すると珠樹が立ち上がると、顔を紅潮させた寺田を鎮めるようにそっと肩に手を置く。

 

「寺田さん、落ち着いてください。ほら、大きく息を吸って、椅子に座って。」

 

 珠樹に促され寺田はゆっくりと着席した。

 しかしそれでも苛立たしげな視線を緑川教授に向け続けている。

 

「…ここからは私の方から話をさせて頂きます。緑川教授、此方の研究所は無尽藻の研究の為に『エイトストーン』から十億円以上にも上る研究資金の出資を受けていますね?そしてその資金提供の契約を結ぶ際、研究成果を『エイトストーン』に提供する事について書面には書かれていた筈ですが。」

 

「えっ……‥あっ。」

 

 珠樹に指摘され緑川教授はようやく寺田の怒りの原因について理解した。

 

 そう、企業は決して善意で研究資金を提供していたわけでは無い。

 その研究が成果を上げた暁には、その成果を自社で活用できるよう期待を込めて研究者を応援するのだ。

 だからこそ、資金提供時には必ず契約書の中で成果の提供について約束するし、他者に対して勝手に研究成果を提供しないようにも約束する。

 

 仁久井村未来エネルギー研究所への資金提供に関する契約書にも、当然のようにこの項目は含まれていた。

 

「し、しかしですね、緑川因子の研究は世界のエネルギー事情を大きく変える事が出来ます。それを一部の企業が独占するというのは…」

 

「であるならば、こちらも契約に則った処置をさせて頂きます。もし仮に緑川教授が緑川因子のレポートを外部に流出させた場合、我々は契約を一方的に破棄されたと看做し、これまでに出資した資金、並びに利益所得機会を奪われた事に対する賠償として、約50億円の賠償請求をさせて頂きます。」

 

「ご、50億円っ!?」

 

 桁違いの金額に緑川教授は声を上擦らせる。

 とても個人がおいそれと支払える額では無い。

 もし請求が通れば、緑川教授は間違いなく破産するだろう。

 

「お、横暴だっ!」

 

 そう声を上げたのは中神だった。 

 子供の頃から緑川教授に師事し、その研究を間近で見続け、その思想に感銘を受けていた彼にとって、珠樹の言葉が師の理想を潰そうとする大企業の横暴に聞こえてしまった。

 だが珠樹はそれに対して毅然とした態度で答える。

 

「いいえ、横暴ではありません。これは『権利』です。『エイトストーン』は決して少なくない額をこの研究所に対して支払っています。そしてその資金を提供する際の対価については契約の時点で結ばれています。契約違反をしようとしているのは緑川教授です。」

 

「もし無料公開なんてされてたら、あんたの研究を会社に売り込んだ俺は巨額の損失を与えたとして会社に居られなくなっただろうよ。危うく路頭に迷う所だったぜ…」

 

「というか未来のクリーンエネルギーに関する重大な情報をいきなりネット上で世界中の人が見れるようにするなんて、ちょっと想像できない規模の影響が出そうで怖いです。まず間違いなく原油価格や石油関連産業の株価に影響して、最悪世界的な経済的混乱が発生しかねません。」

 

 緑川教授がしようとしていた事が一方的な違反行為であること、これまで研究に協力してくれていた人達に大損害を与えかねない事、更には世界市場に大混乱を与えてしまう可能性を指摘され、中神も流石に口を閉ざす。

 

「…緑川教授、アンタにとっちゃ私はただ金だけ出しているだけの存在でしかなかったのかもしれませんけどね、その金だってウチの会社の社員たちが必死に働いて稼いだり、銀行に事業計画を説明して頼み込んで融資して貰ったりしたのが出所です。みんなアンタの研究が会社の利益になると期待していたんだよ!アンタは最初っから、そんな事は微塵も気にしていなかったみたいだがな。」

 

「そ、そんな事は…」

 

 恨み言を言う寺田の言葉を否定したかった緑川教授だが、その声には力が無く震えていた。

 少なくとも緑川因子のレポートを無料公開しようと決めた時、その脳内からは寺田やその会社の事は丸っきり消え去っていたからだ。

 

「…確かに私達はアンタに金を渡す事しか出来なかった。だけどそれでも、アンタの研究が実を結び、それが社会を変える事を切に願っていた。仲間のつもりだった!どうやら、そう思っていたのはこっちだけだったみたいだがな。」

 

 寺田の言葉に打ちのめされ、緑川教授は完全に意気消沈し項垂れる。

 初めて見る教授の姿に研究員たちも愕然とし、言葉を失っていた。

 

 それでも、やがて緑川教授は神妙な面持ちで背筋を伸ばすと、寺田に向かって深々と頭を下げた。

 

「申し訳ない、寺田さん。私が早計だった。決して貴方や御社に迷惑を掛けるつもりはなかったんだ。」

 

「…緑川教授、寺田さん達が被りそうになったのは迷惑ではなく、実害です。」

 

「…ああ、その通りだ。浮かれるあまり、自分達の研究が誰に支えられ、どれ程世間に影響を与えるか失念していた。本当にすまない。」

 

 真摯に謝罪をする緑川教授に、寺田の視線も先程よりかは刺々しさが和らぐ。

 すると珠樹は鞄から1枚の書類を取り出した。

 

「今回の件は未遂で終わりましたが、今後同様の事が起きないように対策を求めます。そこでエイトストーンは新たな契約を結びたいと思ってます。」

 

「と、いいますと?」

 

「緑川教授、貴方がこの研究所で得た成果、そのデータをエイトストーンに早急に提供し、この施設の運営権を譲渡してください。」

 

「なっ!?」

 

 珠樹の言葉に緑川教授のみならず、話を聞いていた研究員たちも驚愕する。

 

「待ってくれ!それはつまり…」

 

「はい。仁久村未来エネルギー研究所には、今後は企業傘下の一研究所になって頂く、つまりここでの研究成果を全て企業側に帰属する物としたいんです。」

 

「そ、そんな…それはあまりにも…」

 

「…緑川教授がこの研究所で心血を注いでこられたことを考えれば、受け入れがたい話である事は重々承知しています。しかしながら、貴方が資金提供を受けて行った研究の成果を、出資者に無断で外部流出しようとしていたのを知ってしまった以上、エイトストーンとしては今までと同じような契約を続けることは出来ません。」

 

 珠樹の要求は研究所に首輪をつける様なもの。

 今後一切緑川教授の自由裁量を制限し、企業の意向に従うように求め、これまでの緑川教授主体の研究体制に楔を打つに等しい物だ。

 

 通常であれば緑川教授もこの要求を突っぱねていただろう。

 だが今の教授に企業側の要求を問答無用で拒否することは出来なかった。

 

 自身の浅はかさ、傲慢さを拗らせた結果、これまで自身の研究を支えて来てくれた存在を蔑ろにしようとしていた事実を突き付けられ、これまで通り自由に研究させてくれとはとてもではないが言えなかった。

 

「もちろん、相応の報酬はご用意します。今回の緑川因子の特定の功績に対して、データ提供の見返りとして研究成果の商品化に際し緑川教授個人に対して数億円、研究員の方々にも相応の金銭的な提供をお約束します。」

 

「お、俺たちも金がもらえるのか!?」

 

 珠樹の説明に若い男の研究員たちが色めき立つ。

 これまで話の展開に着いていけず白黒していた瞳には、欲望の灯火が浮かんでいた。

 

「ええ、もちろん。希望に応じては本社の研究員としての配属も検討します。無論、この研究所で引き続き研究を続けたいのであればそれも構いません。研究に関し、会社の方からは定期的な報告以外に指示を行う事は基本的無いと考えて貰っても構いません。」

 

 若い研究員達の目の輝きが増す。

 大企業の研究員となるというのは、金銭面は元より研究者としての英達への道が大きく開けるという事。しかもボーナス付きだ。

 

 また仁久井村未来エネルギー研究所に対して定期的な報告以外研究方針に介入しないというのも、心情的には格段に受け入れやすくなる条件だった。

 

 するとこれまで無言を貫いていた女性研究員、谷瀬が一歩前に進み出る。

 

「教授、この申し出を受け入れましょう。これ以上の好条件、他に無いと思います。」

 

「谷瀬、さん、何を…」

 

 研究仲間が緑川教授を説得する様に中神が激しく動揺する。

 しかし他の若手研究員達も谷瀬に追随する。

 

「そ、そうっすよ教授!こんな美味しい条件他に無いっすよ!」

 

「元々先方に無断で無料公開なんて馬鹿な事をしようとしたのは教授ですよ!それを許して貰えるんだから贅沢は言えませんって!」

 

 仲間だと思っていた者達が続々と緑川教授に研究成果の譲渡を促していく。

 中神にはそれが、緑川教授が築き上げた研究所が崩壊していくように見えた。

 

 やがて緑川教授は深く頭を垂れると、力無く口を開いた。

 

「分かりました…研究成果をお譲りします…」

 

「先生っ!?」

 

 中神の悲痛な叫びを上げるが、それ以上言葉を続けられなかった。

 もうどうしようも無いと分かってしまっていたからだ。

 

 緑川教授の純粋な理想は、『築き上げるには時間が掛かり、崩れるには一瞬のモノ』を深く傷付けたのだ。

 それ即ち『信頼』である。

 

「…賢明なご決断、感謝いたします。では契約書へのサイン、お願いします。」

 

 珠樹から促され、緑川教授は震える手でペンを持つと契約書の氏名記入欄に自身の名前を書く。

 その瞬間、中神の目から涙が溢れ落ちた。その理由は、中神にはまだ分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 珠樹と辻丸が帰った後、緑川教授は研究員達を集めて本日は解散する旨を伝えた。

 解散後、若い男性職員達は意気揚々と村の飲み屋に酒盛りをしに行くと言い中神を誘ったが、中神はそんな気分には成れないと断った。

 いまは出来るだけ緑川教授の側にいたいと中神は望んだ。

 

 しかし緑川教授は首を振ると、今夜は1人にして欲しい、と望んだ。

 後ろ髪を引かれる中神だったが、最後は師の願いに応じ研究室を出る。

 部屋を出る前に中神が振り向くと、尊敬する師の背中が酷く小さく見えた。

 

 中神が研究室を出ていったあと、緑川教授は暫し部屋の真ん中で佇んだ。

 そして程なく白衣のポケットから携帯を取り出すと、とある番号を押す。

 

「…ああ、私だ。すまないが研究室に来てくれるか。時間は取らせない。」

 

 電話の相手は戸惑った様子だが、それでも緑川教授の要請に応じすぐに向かうと告げる。

 

 それから十分後、研究室のドアが再び開かれる。

 

「お待たせいたしました、緑川教授。」

 

 現れたのは谷瀬である。

 僅かに息を切らし、緊張気味に部屋に入ってきた彼女に緑川教授は疲れた笑みを見せる。

 

「いや、こちらこそ急に呼び出してすまない。どうしても確認したい事があってね。」

 

「………なんでしょうか?」

 

「……緑川因子を特定したことを、寺田さんに伝えたのは君かい、谷瀬君?」

 

 その問い掛けに谷瀬は息を飲み目を見開くと、震える唇を開いた。

 

「どうしてそう思われるんですか?」

 

 谷瀬の返答を聞き、緑川教授は思わず苦笑する。

 

『本当に心苦しい図星を突かれた人間は否定も肯定もせず、何故それがバレたのか気にする。』

 

 昔読んだ小説の一文と全く同じ現象に、不思議と可笑しさが込み上げてくる。

 

 一方で唐突に笑みを溢した緑川に谷瀬は怯えた様子を見せる。

 

「ああ、いや、すまない。決して君を責めようという気は無いんだ。ただどうしても確認したくてね。」

 

 身を竦める谷瀬に緑川教授は出来るだけ優しい声で語り掛ける。

 それでも谷瀬の警戒は解けず、顔を俯けて緑川教授から視線を外す。

 

「…そうだね。どうして私が谷瀬君が緑川因子について寺田さんに伝えた、と思ったかと言うと、弁護士さんが研究成果と研究所の運営権を要求した時、君だけは動揺していないように見えたからだ。」

 

 まるでそうなるのが分かっていたように、谷瀬の顔には驚きも、戸惑いも、不安さえも見えなかった。

 緑川教授がそう告げると、谷瀬は唇を噛んで黙り込む。

 

「それに加え、君がいの一番に寺田さん達の要求を飲むように促したのも今思えば不自然だった。君は本来、ああいう場面で自分から動くような人間では無いからね。」

 

「…はい。自分でも『らしくない』なって思ってました。だけど場の流れを作るためには、ああするのが良いと打ち合わせで。」

 

 谷瀬は小さく溜め息を漏らすと、判決を待つ罪人のような面持ちで緑川教授を見た。

 

「父の研究所が金銭的に厳しい。だから、ここで緑川教授の研究に貢献し、その成果の一部を提供して頂き父の研究所の巻き返しを期したい。採用面接の時、そう話しましたよね?その時教授は、『実に親孝行な人だ。私も娘がいるから君のお父さんの気持ちは分かる。是非力を貸してくれ。』、そう言って頂きました。」

 

「………そう、だったね。」

 

 緑川教授の返答に谷瀬は拳をギュッと握りしめる。

 悪気は無いのは分かる。教授に理想があったのも分かる。

 だがそれでも、自分があの日必死に伝えた切実な心境が、緑川教授にとって多大な成果の前では頭から吹き飛んでしまう事だったという事実に谷瀬は虚しい怒りを感じた。

 

「…教授が研究成果の無料公開を言い出した時、私は絶望のあまり自殺すら考えたんです。だけど、父から電話が掛かって来て『最近連絡が無いが無理をしていないか?借金の事は心配するな。お父さんの事は自分でなんとかするから、あやねは自分の事を大切にしなさい』って。私、耐えきれずに泣きながら父に教授が研究成果を無料公開しようとしていると伝えたんです。そしたら父が『それは出資者の了解は得ているのか?』って言って、知り合いの弁護士さんを紹介してくれたんです。」

 

「…なるほど、それが野々宮さんだったわけか。」

 

「ええ。正確に言えば野々宮弁護士が所属する事務所に父の研究所が特許関連でお世話になっていて、そこが『エイトストーン』に連絡を入れて確認したそうです。」

 

 そしてエイトストーンの寺田と谷瀬の間に入り、野々宮は今回の一連の出来事の打ち合わせをしたのだと言う。

 エイトストーン側も当初は研究初期から支援をしてきた緑川教授が契約を反故して勝手に研究成果を無料公開するなど信じられず半信半疑だったらしい。

 

「…エイトストーンは、谷瀬君には頭が上がらないだろうね。」

 

「…かも、しれませんね。」

 

「………今まで苦労を掛けたね。」

 

 緑川教授のその言葉に谷瀬は口をキュッと結ぶと、深々と頭を下げた。

 

「お世話になりました、緑川教授。」

 

 そう言い残し谷瀬は研究室から出ていく。

 

 閉じられたドアを背に、緑川教授は水槽の中の無尽藻を眺める。

 

「緑川、教授か。思えばこの研究所で、私を『先生』と呼んでくれるのは、中神君だけだったな…」

 

 先生とは自分に何かを授けてくれる人。

 教授とはただの役職。

 

 そんな事を思いながら、緑川は水槽に手を触れる事しか出来なかった…




その後の彼ら…
・緑川教授
契約通り研究成果をエイトストーンに譲り渡し、暫くは同研究所で製品化の研究を続けるも程なく第一線を退く。
本人曰く、「いま一度初心に返り科学が人類を幸せにする意味について考えると共に、後進の育成に尽力したい」とのこと。研究所については娘に譲り、中神を副所長に任命した。

・谷瀬あやね
父の研究所に戻り、エイトストーンとの共同研究で無尽藻を利用した新製品の開発に取り組み研究所を立て直す。
数年後、緑川とは公の場で再会し和解する。

・若手男性研究員2名
実は研究成果を無料公開しようとしていた緑川を殺害し、レポートが纏められたチップを奪おうとしていた。
エイトストーンの介入でそれが出来なくなったが、結果的には報償金を貰えて大企業のエイトストーンに転籍出来たのでそれなりに満足している。

・エイトストーン
本作のオリジナル要素。
岡山県に本社を置く企業で元々セメント会社であった。
二十年ほど前に海外展開を見越し「タジミセメント」から「エイトストーン」に社名を変更。それに伴い事業を拡大し化学製品開発会社を買収し業績を上げている。
社名の由来は創業者の出身の『村』に因んでいる。
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