転生特典が「キノコ栽培」だったので戦闘は避けるようにします。 作:菱形の面積
ブドランガでちょっとした高級な食事のできる場所、その名を「黄金のさじ亭」の二階にて。一般の客には決して足を踏み入れることのできないVIPルームには今、この異世界ではあり得ないはずの「郷愁」が充満していた。
部屋の中央に鎮座した深い鍋からは、細く、長く、白い湯気が立ち上っている。魔法に関してはからっきしだが、ハンカチのような布の上にのせられたその鍋は確かに沸騰している。
グツ、グツ、グツ、コト、コト、コト。出汁の香りが鼻腔を撫でる。その芳醇な香りの主役となっているのは、鍋を埋め尽くさんばかりのキノコたちだ。そしてキノコ以外にも近郊の森やダンジョンで採れた素材などがこれでもかとくらいに入れられている。
「いい匂いね。本当に。ズルいわ」
部屋の中には俺ともう一人だけ。給仕もいない。ワサビも家で留守番をしてもらっている。
テーブルの向かい側で、頬杖をつきながら鍋を見つめる女性、ギルドマスターのレーナさんが、うっとりと目を細めた。相手がレーナさんなので俺はものすごく緊張している。なんで俺はこんなことしてるんだ???
彼女は手元のグラスに、すこし温めたワインを注ぐと、その美しい唇に運ぶ。ここに来る前に「無礼講」と宣言されたとはいえ、前世の社会人経験がお酌をしようと手を伸ばしかけるが、レーナさんはそんな俺を目線だけで制圧する。この人は本当に苦手だ。
「……『あっち』で死ぬ間際、点滴の管に繋がれながら思ったものよ。『もうおいしいものはたべられないんだ』ってね」
その言葉の重みに、俺は少しだけ背筋を伸ばす。
俺とレーナさんは、同じ日本からの転生者だ。だが、生きていた時代と、積み重ねた経験値が決定的に違う。
俺は平和な平成の世で、しがない工場の作業員として生き、不慮の事故で三十年の人生を終えた若造。対して彼女は、戦後の何もない焼け野原から這い上がり、裸一貫で事業を興し、七十余年の生涯を全うし、そして転生したこの世界ですら若くして商人ギルドのマスターとして君臨する、本物の「怪物」だ。
見た目は二十代そこそこのそれはそれは美しい女性だが、その瞳に宿る光は、俺のような若輩者が束になっても敵わない。深く、静かな海のような叡智を湛えている。
「……お待たせしました。もう食べ頃ですよ」
俺はお玉で鍋の中を探り、一番美しく育ったマイタケをレーナさんの前に置かれた小皿に取り分けた。
カミュさんが管理するプラントで、徹底した管理のもと育てられた「特選マイタケ」。その傘は赤ちゃんが柔らかく握った掌ほどもあり、フォークで突き刺そうとするだけで、たっぷりと吸い込んだ出汁が溢れ出している。ナイフで切ったなら中身がすべて溶け出るんじゃないかという錯覚すら覚える。
そしてそのマイタケに、ダンジョンの深層で狩られた「ロックバード」のモモ肉と、「ワイルドボア」のバラ肉、そして彩りのために「お化けリーキ」を添える。いつも食事をしているあの酒場で何度か食べたことのある具材だ。うまいぞ。
「どうぞ」
「いただくわ。ふふ、お酌をされるのは慣れてるけど、こうして取り分けてもらうのは新鮮ね」
レーナさんは嬉しそうに微笑むと、優雅な所作でマイタケを切り分け、フォークを持ち上げた。
ふう、ふう、と熱を逃がす仕草さえどこか絵になる。彼女はマイタケを口に運び、ゆっくりと噛み締めた。
その瞬間、彼女の動きが止まる。閉じた瞼の隙間から、一筋の涙がこぼれ落ちそうになるのを、彼女はぐっと堪えたようだった。
「……んんっ」
喉の奥で、微かな声が漏れる。
彼女はしばらく無言のまま、口の中に広がる味を堪能し、やがて名残惜しそうに飲み込んだ。
そして、深いため息をついた。
「染みるわ」
その一言には約百年分の人生が詰まっていた。
「闇市で食べた得体の知れない雑炊とも違う。接待で食べた、目玉が飛び出るような値段の料亭の味とも違う。……これは、なんて言うのかしら。『報われた味』がするわ」
「報われた味、ですか?」
「ええ。一生懸命働いて、泥水をすすって。それでもくじけずに前を向いて歩いてきた人間だけが辿り着ける、安息の味よ」
彼女は愛おしそうに、もう一度マイタケを口に運んだ。
「ユウ君。あなたの作るキノコには、誠実さが詰まっているわ。誤魔化しのない、正直な仕事の味がする」
俺は自分の小皿に取り分けたシイタケを見つめる。誠実さ、か。
俺は前世で特別な何かを成し遂げた人間じゃない。毎日毎日、決められた職場の決められた仕事をするだけ。来る日も来る日も、朝から晩までその繰り返しだった。
機械の駆動音と部署内の人間関係の調整、そして生産計画の急な変更への対応だけが俺の思い出だ。碌な思い出がねえな。
……クリエイティブなことなんて何一つとしてなかった。世界を変えるような発明も、大金を動かす商談もなかった。
ただ、目の前の「規格」を守ることだけが、俺の仕事だった。俺が信じられる商品を作ることだけが、俺の仕事だった。
「……俺は、俺ができることをしただけです」
俺は自嘲気味に笑って、ロックバードの肉とシイタケを一緒に口に入れた。
美味い。
カミュさんが「Aランク品」と太鼓判を押しただけのことはある。
だが、それ以上に、この出汁の味が、俺の乾いた心を潤していく。
「カミュさんが作ったあの巨大なプラントも……正直、俺には眩しすぎるんです。俺の性分には、言われるがままに仕事をするくらいがちょうどいいんですから」
「あら、そうかしら?」
レーナさんは、グラスを傾けながら、面白そうに俺を見た。
「私はね、その『継続』こそが、一番得難い才能だと思っているのよ」
「……才能?」
「ええ。ゼロからイチを生み出すのは、私の仕事。でもね、イチを百にして、それを万全の品質で維持するのは、あなたみたいな『職人』の仕事よ」
彼女はフォークの先端で、鍋の中のシイタケを指した。
「見てごらんなさい。このシイタケ、大きさも形も揃っているでしょう? これは偶然じゃないわ。あなたが書いたあのマニュアル……あれは現場を知り尽くした人間にしか書けない『標準化』の極意よ」
ドキリとした。
確かに、俺がカミュさんに渡したメモは、前世の職場の作業手順書を無意識に真似ていた……気がする。なんてったって作業手順書なんて文字通り穴が開くほど読み返したのだから。
温度は何度プラスマイナス何度以内。
湿度は何パーセント。
菌打ちの間隔は何センチ。
写真を入れられないのが本当に悔しかった。
だがそれは、「誰がやっても同じ結果が出る」ようにするための、俺なりの「手抜き」のための工夫だったのだ。
「カミュが暴走しちゃうのも無理はないわ。だって、この世界には『魔法』はあるけれど、『品質管理』という概念はなかったんだもの。彼にとってあなたは、新しい宗教の開祖みたいなものよ。フィリアスもこれを知ったらあの悪い癖が出るだろうし、マルコは特に喜ぶでしょうね。いや、むしろ怒っちゃうかもね」
「だからって、肖像画を飾ろうとするのは勘弁してほしいです」
「ふふふ、いいじゃない。拝ませておきなさいな」
レーナさんは楽しそうに笑い、俺の空いたグラスにお酒を注いでくれた。
「ねえ、ユウ君」
不意に、彼女の声色が少しだけ真面目なものに変わった。
「私ね、前の人生では、随分と走り回ったわ。家族も持ったし、会社も大きくした。でも、心のどこかでずっと乾いていたの」
彼女は遠くを見る目をした。
「勝たなきゃいけない。奪わなきゃいけない。守らなきゃいけない。……そうやって肩肘張って生きてきたから、食事の味なんて覚えてないことの方が多かった」
戦後の動乱期。高度経済成長期。バブル。そしてその崩壊。
彼女が駆け抜けてきた時代は、俺の想像を絶する激流だったはずだ。そんな激流を、「女」が生き延びるのにどれだけ苦労したのかなんて、本当に想像もつかない。
「でも、この世界に来て、あなたに出会って、こうして鍋をつついていると……なんだか、やっと『肩の荷』が下りた気がするのよ」
彼女は俺の手元に視線を落とした。
「あなたのその欲のない、でも丁寧な生き方が、私みたいな年寄りには心地いいの。……ありがとうね、ユウ君」
その言葉は、俺の胸の奥深くに染み込んだ。
工場のラインで、黙々と生産を続けていた、かつての俺。
「誰でもできる仕事だ」と自分を卑下していた俺の人生が、この異世界の怪物に、肯定されたような気がした。
「……こちらこそ、ありがとうございます。レーナさんがいなかったら、俺はとっくにこの街から逃げ出してました」
「もう逃がさないわよ? あなたは私の大事な……そうね、『投資先』なんだから」
彼女が悪戯っぽく微笑むと、俺たちは顔を見合わせて笑った。
窓の外では穏やかな夜風が吹いている。日常の中心で、俺はこの偉大なる先達と、静かな夜を共有していた。
立ち上る湯気の向こうで、昭和を駆け抜けた女傑が、少女のように無邪気に笑っている。
俺の前世はただのライン工だったが、その経験が巡り巡って、この人の笑顔を作れているのなら。
まあ、悪くない前世だったのかもしれない。俺は心の中でそっと、前世の自分に乾杯をした。