はじまりの日
正治という名の男から全てを奪った夜は、血の匂いから始まった。
それは、彼がこれから先、その贖罪の道程で飽きるほど嗅ぐことになる匂いだった。月もない夜の闇は、ただ光がないというだけではない。まるで質量があるかのように、音も、温度も、希望さえも飲み込んでいく。その闇の中で、男の五感を支配していたのは、命が性急に溢れた鉄錆の甘さと、獣が己の縄張りを汚された時に放つ、本能的な不快な臭気。
その臭いの発生源は、外ではなかった。男は、己の手を見下ろした。岩のように硬く、節くれだった指。かつては家族を養うために鍬を握り、獣を仕留めるために罠を編んだその指が、今は赤子の柔らかな産着を、まるで根のように掴んでいた。
声は出なかった。喉は、意味のある言葉を紡ぐ機能をとうに失っている。ただ、腹の底から這い上がってくる、魂ごと焼き尽くすかのような飢餓感だけが、男という器を支配していた。脳髄の奥深く、あの御方によって刻みつけられた命令が、呪いのように反響する。
――これを喰らえ。喰らえば、渇きは癒え、力は満ちる。
抗う術はない。男は、まるで操り人形のように、ゆっくりと腕を持ち上げた。
その時だった。
甲高い生命の叫びが、闇を震わせた。
静寂を切り裂いた産声にも似たその声が鼓膜に届いた瞬間、男の頭蓋の内側で、何かが硝子のように砕け散る音がした。それは、鬼としての時間が終わり、人としての地獄が始まる合図だった。
優しい声が聞こえる。
『正治、起きなさい』
陽だまりの匂いがする。あれは、母の声だ。
小さな手が、自分の着物の裾を引く。
『正治兄ちゃん!見て、カブトムシ!』
夏草の匂い。屈託なく笑う、弟の顔。
分厚く、節くれだった指が、不器用に自分の頭を撫でる。
『さすがだな、正治。罠の作り方も、もう一人前だ』
土と火薬の匂いが染みついた、父の大きな手。
頭が割れるように痛い。違う。これは誰の記憶だ。俺は、鬼だ。人を喰らい、力を求める、ただそれだけの存在のはずだ。そうだ、あの夜、全てを失った俺に、あの御方が血を与えてくださった。俺は選ばれた。下弦の弐にまでなったのだ。そうだ、俺は――
赤子の泣き声が、再び思考の濁流を断ち切る。
やめろ。泣くな。その声を聞いてはならない。
転んで擦りむいた膝に、小さな妹が手を当てる。
『兄ちゃん、痛いの痛いの、飛んでけー』
ふっくらとした、柔らかな手。
囲炉裏の火に照らされた母が、愛おしそうに目を細める。
『お前は、本当に優しい子だねぇ…』
やめろ。
脳裏に焼き付いて剥がれない、血塗れの光景が蘇る。絶叫。悲鳴。肉を裂く音。骨を砕く感触。俺が喰らった人間たちの、最後の顔、顔、顔。違う、これは俺の力だ。俺が積み上げた、強さの証だ。
なのに、なぜ。
なぜ、父の無骨な手が、母の優しい声が、弟妹の屈託のない笑顔が、俺の胸を内側から引き裂くのだ。
獣の咆哮のような、人の悲鳴のような絶叫が、夜のしじまを切り裂いた。
気づけば、腕の中の赤子をそっと畳の上に下ろしていた。産着一枚、傷つけてはいなかった。
正治は、己の頭を両手でかきむしる。
思い出したくもなかった記憶。忘れてはならなかった記憶。人間だった頃の幸福と、鬼として犯した罪の全てが、濁流となって彼を苛む。
もはや、その場に一秒たりとも留まることはできなかった。
正治は、障子を突き破り、闇夜の中へと転がり出る。そして、当てもなく、ただひたすらに、己の内側から響く断罪の声から逃れるように、夜の森を駆け抜けていった。
***
夜明けまで、男は走り続けた。
己の内側から響く断罪の声から逃れるように、夜の森を駆け抜けた。夜明けの気配が東の空を白ませ始めると、その光は、彼の肌を焼く地獄の業火そのものだった。陽光を避けるように転がり込んだのは、山の奥深く、湿った土と苔の匂いが満ちる洞窟の闇。
だが、闇は安らぎを与えてはくれなかった。
瞼を閉じれば、喰らった者たちの断末魔が蘇り、目を開ければ、惨殺された家族の姿が幻影となって闇に浮かび上がる。罪悪感が、灼熱の鉄となって心臓を焼いた。
自らの喉笛に爪を立て、引き裂いた。肉が裂ける鈍い音がしたが、傷は瞬く間に再生していく。洞窟の壁に頭を叩きつけても、砕けたはずの頭蓋骨が軋みを上げて元に戻る。物理的な破壊では、この呪われた体は死ぬことさえ許さない。
ならば、と正治は洞窟の入り口へと這い寄った。
東の空が、わずかにその色を変えている。鬼にとって唯一の、絶対的な死。日光による消滅。あと少し。あと少しで、この苦しみから解放される。罪を犯したこの身を、朝日の中に差し出せば、全てが終わるのだ。
だが。
入り口から差し込む朝の気配が肌に触れた瞬間、全身の細胞が恐怖に叫び声を上げた。焼ける。溶ける。塵となって消滅する。鬼としての本能が、死ぬな、逃げろ、と魂に絡みつく鎖のように彼を縛り付ける。
あと一歩が、踏み出せない。
陽光の下で焼かれ消え去る、その途方もない苦痛と恐怖に、心が屈した。彼は、己の弱さのせいで、死ぬことすら選べなかった。
洞窟の闇の奥へと転がるように逃げ戻り、正治は自嘲の笑みを浮かべた。
そうか。これも、罰か。
犯した罪を永遠に記憶したまま、死ぬ恐怖に打ち勝つこともできず、この飢餓と苦痛を味わい続けろというのか。
絶望が、彼の心を完全に支配しようとした、その時。
脳裏に、一つの顔が浮かび上がった。
涼やかな顔立ちの、しかしその瞳の奥に底知れない闇を宿した、あの男。己の家族を殺し、自分をこんな化け物に変えた、全ての元凶。
鬼舞辻無惨。
その名を思い出した瞬間、絶望の底に沈んでいた心に、一つの感情が灯った。それは、憎悪という名の、黒く冷たい炎だった。
そうだ。俺の家族を殺したのは誰だ。俺をこんな化け物にしたのは誰だ。俺に、数えきれないほどの人間を喰わせたのは誰だ。
全て、あの男から始まった。
ゆっくりと、彼は立ち上がった。
死んで罪を償うことは、己の弱さが許さなかった。犯した罪が消えることもない。ならば。
ならば、この呪われた命と、人を喰らって得たこの忌まましい力で、全ての元凶を滅ぼす。
それは、贖罪と呼ぶにはあまりに独善的で、復讐と呼ぶにはあまりに切実な誓いだった。
俺と同じような悲劇を、これ以上増やさせはしない。俺のような化け物を、これ以上生まれさせはしない。
それが、論理だった。
それが、死ぬこともできず、人として生きることもできない自分に残された、唯一の道標だった。
「……正治は、あの夜に死んだ」
ぽつりと、呟いた。
家族と共に、あの山村で幸福だった人間はもういない。
では、今ここにいる自分は何者だ。
脳裏に、無惨に血を与えられた日の記憶が蘇る。薄れゆく意識の中、あの男が冷ややかに告げた名を思い出した。
――お前の名は、
忌まわしい名だ。あの男に与えられた、呪いの名だ。
だが。
斎鬼。過去の罪を
自嘲ではない、決意の笑みが、初めてその口元に浮かんだ。
与えられた呪いの名に、自ら新しい意味を課す。
「……必ず、俺が、お前を殺す」
斎鬼と名付けられた鬼が、己の創造主に反旗を翻した瞬間だった。