境界の斎鬼   作:eebbi

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氷の蓮、散りゆく花(前編)

 空気が、凍っている。

 カナエがそう感じたのは、眼下を歩く男――童磨が、ただそこに存在するだけで、周囲の温度を根こそぎ奪い去っていくからだった。

 

 好機は一度きり。

 花の呼吸を極めた彼女の肺が、吸い込む息の冷たさに悲鳴を上げる。日輪刀を持つ手が、わずかに震えていた。

 童磨が人気のない町外れの道に差し掛かった、その瞬間。カナエは屋根を蹴った。

 

「花の呼吸、伍ノ型・徒の芍薬」

 

 音もなく、蝶が舞うように。

 相手の懐に深く踏み込み、囲い込むように一点に放たれる九連撃。それは、相手に気づかれることすらなく頸を断つための、彼女の持つ最も速く、静かな技だった。

 必殺の間合い。刃が童磨の頸筋に触れる、その刹那。

 

「――やっぱり来てくれたね」

 

 鼓膜を揺らしたのは、刃が肉を断つ音ではなかった。

 まるで、背中に目がついているかのように。童磨は振り向きもせずに、手に持った金色の扇子を背後へと軽く振るった。それだけの、舞のような優雅な動作。

 金属同士がぶつかる甲高い音とともに、カナエの渾身の一撃は、ありえないほど容易く逸らされた。

 まずい、とカナエが体勢を立て直すよりも早く、受け流された刃の勢いを利用するかのように、童磨の体が滑らかに半回転する。

 

 灼熱のような、それでいて凍てつくような激痛が、右肩に走った。

 扇子の一閃が、彼女の肩を深く、的確に切り裂いていた。骨にまで達するほどの、致命的な一撃。

 カナエは数歩後ずさり、滴り落ちる己の血で、足元が濡れていくのを見つめた。たった一合。それだけで、勝敗は決してしまったのかもしれない。

 

「……そうか。君、柱だね?ああ、素晴らしい。今夜はついているなあ。安心して、俺がすぐに救ってあげるから」

 

 その言葉は、慈愛に満ちた聖者のそれのようでありながら、その虹彩の瞳は、底なしの沼のように何も映してはいなかった。

 

 童磨が、手に持った金色の扇子を軽く振るう。それだけの、舞のような優雅な動作で、無数の鋭い氷の結晶が礫となってカナエに襲いかかった。一つ一つが、肉を容易く抉るであろう凶器の礫。

 

「花の呼吸、弐ノ型・御影梅!」

 

 カナエは瞬時に連撃で氷礫を弾き、返す刃で童磨の頸へと肉薄する。柱としての練達した踏み込み。常の鬼であれば、反応すらできずに頸を落とされているだろう。だが。

 

「速いねえ」

 

 童磨は、まるで舞でも舞うかのように軽やかに身を翻し、最小限の動きで刃を避ける。

 

 ――速い、だけじゃない。動きの無駄がない。それに、私の太刀筋がどこから来るか、全て見えているみたいに……!

 

 焦りが、カナエの心を焼く。だが、彼女は鬼殺隊の柱。妹のしのぶ、そして多くの隊士たちの命を背負う存在。ここで退くわけにはいかない。

 

「肆ノ型・紅花衣!」

 

 衣のように体を包み込む、捻りの効いた一閃。防御と攻撃を兼ねたその斬撃は、しかし、童磨が展開した氷の蔓に阻まれ、甲高い音を立てて弾かれた。

 

「綺麗な技だ。でも、それだけじゃ俺には届かないよ」

 

 その言葉と同時に、童磨が深く息を吸い込んだ。

 

 ――血鬼術・凍て曇

 

 次の瞬間、彼の周囲から霧氷を含んだ冷気が、津波のように押し寄せる。カナエは咄嗟に後方へ跳躍するが、その冷気を、わずかに吸い込んでしまった。

 

 肺に、焼かれるような激痛が走る。

 あまりの冷たさは、熱と同じ痛みをもたらす。肺が内側から無数の針で突き刺されるような痛みに、呼吸が乱れた。鬼殺隊士の根幹である呼吸が、その源である肺が、直接攻撃される。それは、彼女にとって致命的な一撃だった。

 

「ああ、吸っちゃったか。肺胞が壊死してるからね、つらいよね」

 

 深い呼吸ができない。技を繰り出すための酸素が、体に巡らない。頸を狙うための大きく華麗な踏み込みは消え、相手の攻撃を捌き、受け流し、距離を取る。

 その変化を、童磨が見逃すはずがなかった。

 

「もしかして、夜明けまで俺と遊んでくれるつもりかい?うれしいねえ」

 

 見抜かれている。討伐ではなく、時間稼ぎに切り替えたこと。そしてそれが、絶望的な行為であることさえも。

 

 絶え間なく繰り出される童磨の血鬼術。そのどれもが、即死級の威力と範囲を誇る。鋭い氷の蔓が鞭のようにしなり、地面を叩けばその場所が凍てつく。扇子から放たれる氷の礫は、弾丸のように空を裂く。

 

 カナエは、防戦一方に追い込まれた。浅く、速い呼吸を繰り返し、花の呼吸の型を最小限の動きで繰り出す。それは、もはや舞のような優美さはない。ただひたすらに、生き汚く、泥臭く、生存のためだけの剣技だった。

 

 羽織は裂け、隊服は己の血で濡れ、じくじくと痛む。初撃での傷から血が流れ、意識がぼやけている。だが、それ以上に彼女の体力を根こそぎ奪っていったのは、呼吸のたびに悲鳴を上げる、凍てついた肺の痛みだった。

 

 ――しのぶ…ごめん。まだ、帰れそうにない。

 

 脳裏に浮かぶ、大切な妹の顔。

 そして、もう一人。今頃どこかで戦っているであろう、不器用で、悲しい目をした鬼の顔。

 

 ――斎鬼くん……あなたとの約束、まだ果たせていないのに。

 

 彼のような鬼がいるのなら、鬼と人が手を取り合えるかもしれない。その夢を、ここで終わらせるわけにはいかない。

 カナエは、己を奮い立たせるように、最後の力を振り絞ろうとした。だが、裏切ったのは彼女の肉体だった。酷使され、凍てついた肺が、ついに酸素の供給を拒絶する。連撃を捌く中で、ほんの一瞬視界が暗転し、脳が揺れた。体が命令を聞かず、足がもつれる。

 

 それは、常の鬼であれば見逃してしまうほどの、あまりにも小さな硬直。

 だが童磨にとって、それは永遠にも等しい好機だった。

 

「ああ、残念」

 

 ぞっとするほど甘い声が、耳元で響いた。いつの間にか、背後に回り込まれていた。肌を刺す冷気が、死そのものの気配を纏ってまとわりつく。

 扇子が一閃される。衝撃はない。ただ、背中に灼熱の鉄杭を突き立てられ、そのまま抉り取られたかのような、凄絶な痛みが走っただけだった。

 

 声にならない悲鳴が、凍てついた肺から漏れる。彼女の体は、まるで糸の切れた人形のように、その場に倒れた。傷から流れる血が、羽織を真っ赤に染める。

 

 ――ああ、ここまでか。

 

 薄れゆく意識の中、カナエは思った。だが、その脳裏に焼き付いて離れない顔があった。泣き虫で、負けず嫌いで、誰よりも優しい、自分が守ると誓った、たった一人の妹の顔。そして、鬼でありながら人間らしい心で苦しんでいた、あの悲しく不器用で、優しい鬼の顔。まだ。まだ、終われない。

 

 鬼殺隊、花柱として。胡蝶カナエとして。このまま無様に死ぬわけにはいかない。

 血の海に沈んだ体が、ぴくりと動いた。腕にありったけの意志を込める。震える指先で、地面に転がった日輪刀を探り、その柄を握りしめた。刀を杖代わりに、ミシミシと音を立てる体を引きずり、ゆっくりと、しかし確かに、彼女は再び立ち上がった。

 

「まだ立つんだ。健気だねぇ」

 

 その姿に、童磨は初めて、楽しげな笑み以外の表情を浮かべた。ほんのわずかな、未知の生物を見るかのような、純粋な好奇心。

 

「ああ、可哀想に。苦しいだろう?辛いだろう?大丈夫、心配しなくていい。俺が君を救ってあげるからね」

 

 その口調は、信者に説法を説く教祖そのものだった。

 

「病も、老いも、痛みも苦しみも、全部なくなって楽になれるんだ。俺の一部となって、永遠の時を生きる。それが本当の救いなんだよ」

 

 霞む視界の中で、カナエはぼんやりと思った。

 

 ――この鬼は、何も持っていない

 

 喜びも、怒りも、悲しみも。人間が当たり前に抱く感情の全てが、この鬼には欠落している。そのくせ、過剰なほど人間的に振る舞おうとしている。

 

 脳裏に、もう一体の鬼の顔が浮かぶ。

 斎鬼。

 彼は、自らが犯した罪に苦しみ、人間だった頃の記憶に苛まれ、それでも贖罪の道を歩もうとしていた。無表情で言葉は少ないが、その内面は、常に罪悪感と憎悪で満ちている。彼の抱える痛みも、後悔も、無惨への憎しみさえも、全ては彼が『人間』であることの証明だった。

 

 ――斎鬼くんは、鬼でありながら、誰よりも人間らしい心で苦しんでいる

 

 だが、目の前の童磨は違う。彼は、ただ美しい人形のように、感情があるかのように振る舞っているだけ。人を殺すことに罪悪感はなく、殺されることに恐怖もない。ただ、空っぽなのだ。

 

 童磨が、心底不思議そうに首を傾げた。

 

「……俺を前にすると、鬼狩りは怖がるか怒るものなんだけど。君はなんだか静かだねえ」

 

 その屈託のない表情は、まるで未知の生き物を観察する子供のようだ。

 

 その言葉を聞いて、カナエの心に灯った感情は、憎しみではなかった。それは、あまりにも深い憐れみ。この鬼はきっと、自分が何を言っているのかさえ分かっていない。

 

 彼は、ただ己の歪んだ理屈の中で、救済という名の殺戮を繰り返すだけ。他者の痛みを理解できず、自らの心の空虚さにも気づかない。

 

「あなたは…可哀想ね…」

 

 か細く震える声で、カナエは呟いた。

 

「え?どうしてだい?」

 

「痛みも、苦しみも、喜びも、あなたは何も持っていない…。でも、それを知りたいから、それが欲しいから、そう振る舞うのでしょう?救いが欲しいのは、きっとあなた自身なのね」

 

 童磨は、初めて聞く言葉に、きょとんと目を丸くした。そして、何かを考えるように少しだけ黙り込むと、やがて、貼り付けたような笑顔を浮かべた。

 

「そっか。君も、ひどいことを言う子なんだねえ」

 

 虹彩の瞳の好奇の色が消えた。今はただ、その奥に奇妙な光を灯しながら、静まり返っている。

 

「まあ、いいや。君のことは、俺がちゃんと食べてあげるから。そうすれば、痛みも苦しみも、全部なくなって救われるからね」

 

 童磨はそう言うと、今度こそ、その扇子を無慈悲に振り下ろした。

 

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