童磨の扇子が、無慈悲な軌道を描いて振り下ろされる。
カナエが目を閉じたその刹那。甲高い金属音が夜の静寂を切り裂いた。想像していた衝撃は訪れない。
恐る恐る目を開けたカナエの視界に映ったのは、童磨の扇子を一本の日輪刀が真正面から受け止めている光景だった。
「図に乗るなよ、外道が」
地を這うような低い声。その声の主が誰であるか、カナエはすぐに分かった。血と土埃の匂いに混じって、慣れ親しんだ森の匂いがした。
「……さい、き…くん…」
そこに立っていたのは、肩で荒い息を繰り返し、獣のような鋭い眼光を放つ斎鬼だった。その全身からは、これまでのどの彼とも違う、純粋で、剥き出しの怒りが陽炎のように立ち昇っている。彼の目に宿る炎は、ただ目の前の敵を殺すという闘争心だけではない。
大切なものを踏み荒らされた者の、魂からの叫びだった。
「おや?」
童磨は、己の一撃が止められたことにもまるで動じず、扇子を止めた闖入者を興味深そうに眺めた。その虹色の瞳が、斎鬼の角と爪、そして鬼としての禍々しい気配を捉え、何かを思い出したかのように、にこりと人懐こい笑みを浮かべる。
「ああ、君か。噂の『同族狩り』だね?無惨様から、見つけ次第殺すようにって言われていたんだ。探す手間が省けて助かったよ」
その言葉には、鬼の頂点たる「上弦」としての絶対的な自信と、目の前の命に対する虫けらほどの関心も抱いていない、底なしの空虚さが滲み出ていた。
斎鬼は答えない。ただ、日輪刀で扇子を力任せに弾き返すと、血の海に沈むカナエを庇うように、その前に立ちはだかった。
彼の視線が、一瞬だけカナエの夥しい傷に向けられる。その瞬間、彼の瞳の奥で、怒りの炎がさらに激しく燃え上がったのを、カナエは朦朧とする意識の中で確かに感じていた。
「……カナエ」
斎鬼が、静かに彼女の名を呼ぶ。その声は、悲しみと、後悔と、そしてどうしようもない怒りに震えていた。
「動くな。喋るな。回復だけに集中しろ」
「……うん……」
「あとは、俺がやる」
その言葉を最後に、斎鬼は童磨へと向き直る。もはや、彼の背中からは一切の迷いが消えていた。
カナエは、斎鬼の広い背中を見つめながら、必死に呼吸を整える。肺が凍てつき、全身の骨が軋むように痛む。出血が酷い。指一本動かすことすら億劫だった。まして共闘など、できるはずもない。
ただ、彼の邪魔にならないように、ここで生き永らえること。それが、今の彼女にできる唯一のことだった。
「すごいなあ、君。本当に鬼狩りの味方をするんだね。仲間を殺すなんて、どんな気持ちなのかな?俺にはよく分からないや」
「……お前のような奴がいるからだ」
斎鬼は日輪刀を低く構える。その切っ先は、微動だにしていない。
「お前のような、命の重さを理解できない外道がいるから、俺は刀を振るう」
「命の重さ?」
童磨は、心底不思議そうに首を傾げた。
「重いも軽いもないだろう?人は皆、死ねば土に還るだけ。俺が救ってあげれば、永遠の時を痛みも苦しみもなく生きられる。素晴らしいことじゃないか」
「……問答は無用だ」
斎鬼の姿が、掻き消えた。
否、常人にはそうとしか見えないほどの速度で、凍てついた石畳を蹴ったのだ 。脚の筋肉を爆発させる。最短距離を、最小の動きで。その刃は、童磨の頸を正確に捉えんとしていた。
だが、童磨はそれを予測していたかのように、扇子で軽やかに受け流す。
「君も速いねえ。でも、それだけじゃ俺の頸は斬れないよ」
刹那、童磨のもう一方の扇子が、斎鬼の脇腹を浅く、しかし的確に切り裂いた。
肉が裂ける感触と共に、灼熱の鉄を押し当てられたかのような激痛が走る。違う、熱ではない。傷口から急速に体温が奪われていく、凍てつくような痛みだ。傷口の周りの肉が凍結し、再生を阻害する。
斎鬼は即座に呼吸を切り替え、傷周辺の血流を意図的に増やすことで、凍結の進行をわずかに遅らせながら再生を速める。完全な防御にはならないが、致命傷に至るまでの時間を稼ぐための、必死の抵抗だった。
斎鬼は止まらない。脇腹の激痛に顔を歪ませながらも、流れるような動きで刃を返す。一撃、二撃、三撃――その全てが童磨の頸、心臓、両腕を狙う必殺の連撃。しかし、その刃はことごとく扇子に阻まれ、甲高い金属音を響かせるだけだった。
――こいつ、動きが読めない…!
全神経を集中させ、童磨の動きを予測しようとする。だが、目の前の童磨の姿は、まるで水面に映る月のように、どこにも実体がない。呼吸のリズムは子守唄のように穏やかで、筋肉には一切の緊張がない。攻撃を繰り出す扇子の動きですら、まるで風に舞う木の葉のように自然で、そこに『攻撃』という予兆が欠片も存在しなかった。
純粋な身体能力と経験だけを頼りに、格上の鬼と渡り合わなければならなかった。
「血鬼術・蔓蓮華」
童磨が扇子を振るうと、鋭い氷の蔓が鞭のようにしなり、斎鬼を襲う。紙一重でかわすが、背後から迫っていたもう一本の蔓が、彼の左腕を絡め取った。
辺りに、骨が砕ける鈍い音が響いた。
左腕が、ありえない方向に捻じ曲げられ、肘から先が氷の結晶となって砕け散った。激痛に思考が白く染まる。だが、彼は躊躇わない。右手の日輪刀で、自ら左腕の付け根を切り飛ばし、拘束から逃れた。
ぶわりと血飛沫が舞う。失った左腕の断面からは、肉と骨がせり出している。おぞましい速度で腕が再生を始めるが、その再生は明らかに遅い。血が足りない。人を喰わぬ彼の体は、大きな欠損を瞬時に再生するためのエネルギーが、絶対的に不足していた。
「面白いなあ!君の戦い方、まるで飢えた獣みたいだ」
「黙れ」
再生の途中でまだ指先もおぼつかない左手で、懐から手斧を抜き放ち、童磨めがけて投げつけた。高速で回転する手斧は、童磨の注意を逸らすための陽動。本命は、その影に隠れて地を駆ける、斎鬼自身の刃だ。
「わあ、危ない」
扇子で手斧を弾く童磨に、高速で接近する。
「花の呼吸、伍ノ型・徒の芍薬」
大きく踏み込む連撃。しかし、これはブラフだ。
連撃の合間、童磨の扇子が刃の軌道に入る瞬間。その軌道を頸への刺突に変える。腕、肩の筋繊維がちぎれ、踏ん張る足の骨が軋む。
刺突が、頸に迫る。
「やるねぇ、でも残念」
金属同士が擦れる音と共に、斎鬼の刺突がいなされる。咄嗟に防御姿勢を整えるが、すれ違いざまに振るわれた扇子が、斎鬼の右脚を深く切り裂いた。 膝の皿が砕け、腱が断ち切られる。斎鬼は体勢を崩し、地面に片膝をついた。
――これでも、ダメか。
隔絶した実力。目の前に広がる絶望。
視界の端に映る、血の海の中で必死に呼吸するカナエの姿だけが、斎鬼の精神を繋ぎ止めていた。
「おや、もう朝か。残念だなあ、もっと君と遊びたかったのに」
空が白み始める。待ち侘びた朝日だ。童磨の瞳から、初めて笑みが消えた。
「お喋りが過ぎたみたいだ。最期に、とっておきを見せてあげる」
童磨の周囲の空気が、急速に凍りついていく。これまでとは比較にならない、巨大な圧が斎鬼を襲った。
「血鬼術・霧氷・睡蓮菩薩」
足元の石畳が、悲鳴のような軋みを上げた。空気が鉛のように重さを増し、呼吸すらままならない圧力が斎鬼を襲う。童磨の背後で、大地そのものが凍てつき、隆起していく。
それは、慈悲の仮面を被った、巨大な氷の神像。
その荘厳な姿とは裏腹に、存在そのものが振りまくのは、生命の熱を根こそぎ奪い去る、絶対的な死の気配だった。
――まずい、あれは……!
斎鬼は、己の血鬼術が最大級の『凶兆』を捉えているのを感じた。カナエもろとも、殺す気だ。
「カナエッ!!」
斎鬼は、もはや動くこともままならないカナエの名を叫んだ。彼女だけでも、この場から逃がさなければ。だが、彼の声は、氷の菩薩が振り下ろす腕の轟音に掻き消された。
万事休す。そう思われた、その時。
「水の呼吸、肆ノ型・打ち潮」
静かな、しかし水面を打つ激流のような声と共に、荒れ狂う波を描く一閃が、氷の菩薩の腕を両断した 。夜明け前の薄明りの中、そこに立っていたのは、半々羽織をまとった、一人の青年剣士だった。
「……冨岡、くん……」
カナエが、かろうじてその名を呟いた。
「ちぇっ、邪魔が入ったか」
童磨は、忌々しそうに舌打ちすると、朝日が差し込む前に音もなくその場から姿を消した。
後に残されたのは、血の海に倒れ伏すカナエと、左腕は辛うじて形を取り戻したものの、右脚を引きずり全身から血を流して立ち尽くす斎鬼。そして、その異様な光景を、冷徹な瞳で見つめる水柱・冨岡義勇の姿だった。
義勇は状況を即座に判断した。 深手を負った花柱。そして、その傍らに立つ、一体の鬼。彼の刃が、迷いなく斎鬼へと向けられた。
東の空は、もう火が灯ったように明るい。一刻の猶予もなかった。
「……っ、彼女を、頼む……!」
斎鬼はそれだけを絞り出すと、最後の力を振り絞って日陰へと駆ける。だが、義勇がそれを見逃すはずはなかった。
「逃がすか」
刃が、最短距離で斎鬼の頸に迫る。斎鬼は振り返りざま、日輪刀でそれを受け止めた。耳障りな音が響く。だが、満身創痍の彼が、柱の一撃をまともに受け止められるはずもなかった。衝撃で体勢を崩し、背後の壁に叩きつけられる。
その、絶体絶命の瞬間だった。
「……まって……」
か細い、消え入りそうな声が響いた。声の主は、カナエだった。彼女は最後の力を振り絞り、義勇の羽織の裾を、弱々しく掴んでいた。
「……冨岡、くん…違うの……彼は……私を…たすけ……」
そこで、彼女の言葉は途切れた。だが、その必死の形相と瞳が、全てを物語っていた。
義勇の動きが、一瞬止まる。
その一瞬の隙を、斎鬼は見逃さなかった。彼は、義勇の戸惑う視線を背に、朝日が届かぬ路地の奥の深い闇へとその身を投じた。
後に残されたのは、夜明けの光に照らされる街と、瀕死の柱、そして、己の信じる正義が揺らいだかのように、ただ立ち尽くす水柱の姿だけだった。
まとめたほうが良かったですかね。
ご一読いただき、ありがとうございます。
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