境界の斎鬼   作:eebbi

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柱合会議

 夜明け前の冷気が肌を刺す頃、蝶屋敷の静寂は、門を破壊せんばかりの激しい音によって無慈悲に引き裂かれた。

 

 その腕に血に濡れた蝶の羽織をまとった花の柱・胡蝶カナエを抱え、現れたのは水柱・冨岡義勇その人だった。腕の中のカナエは力なく意識を失い、その命が風前の灯火であることを、その重さが雄弁に物語っていた。

 

 彼の常である凪いだ水の如き表情は、今は焦燥と、そして己が見た光景へのわずかな混乱の色に染まっていた。

 上弦の弐という絶望的な現実。そして、それを上回る理解不能な光景――鬼が、柱を、命を懸けて守っていたという事実。思考がまとまらない。だが今は、ただ腕の中の命を繋ぐことだけが、己の成すべき全てだった。

 

「しのぶ!胡蝶しのぶはいるか!」

 

 義勇の叫びに、屋敷の奥から飛び出してきたのは、他ならぬ胡蝶しのぶだった 。姉の、常と変わらぬ花の香りに混じる、濃密な血の匂い。その異様な気配に、しのぶの足が一瞬もつれる。そして、義勇の腕の中で無残な姿を晒す姉を認めた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。

 

「……姉さん……?」

 

 言葉にならない呟きと共に、しのぶは姉の元へと駆け寄る 。その瞳に宿ったのは、戸惑いと、底知れない絶望だった。だが、絶望はすぐに、燃え盛る憎悪へと姿を変えた。その小さな体から放たれる怒気は、歴戦の柱である義勇すら気圧されるほどに凄まじい。

 

「どこの鬼に……!どこの鬼にやられたんですかッ!」

 

「……上弦の、弐だ」

 

 義勇が短く答えると、しのぶは唇を強く噛み締め、涙が溢れるのを必死にこらえた。

 

 だが、彼女はすぐに我に返る。今は悲しみに暮れる妹ではいけない。この蝶屋敷の人間として、命を預かる医療者として、為すべきことがある。彼女は即座に蝶屋敷の少女たちに的確な指示を飛ばし始めた。その姿は、すでに一人の鬼殺隊士の顔だった。

 

***

 

 それから数刻後。緊急の柱合会議が招集された。

 産屋敷邸の庭には、夜明け前の冷たい空気の中、集結した柱たちのただならぬ緊張感が満ちていた。揺らめく篝火が、彼らの険しい横顔に深い影を落としている。

 

「私の子どもたち。急な招集に応じてくれてありがとう」

 

 縁側に座すお館様、産屋敷耀哉の声は、張り詰めた空気を和らげるように、穏やかに響いた。

 

「…残念な知らせがあるんだ。花柱、胡蝶カナエが任務中に上弦の弐と遭遇した。今、蝶屋敷でしのぶが懸命に治療にあたってくれているけれど、予断を許さない状況だ」

 

 その場にいる誰もが、上弦と遭遇することの絶望的な意味を理解し、息を呑む。

 

「義勇。君が現場に駆けつけてくれたんだね。ありがとう。何があったのか、君の言葉で聞かせてくれるかい?」

 

 耀哉に促され、冨岡義勇は静かに口を開いた。彼の言葉は、いつも通り簡潔だったが、その裏には、あまりにも信じがたい光景を前にした混乱が滲んでいた。

 

「……現場には、上弦の弐と……もう一体の鬼がいた」

 

 最初に反応したのは、音柱、宇髄天元だった。彼の派手な顔から不遜な笑みが消えている。

 

「ほう?そりゃまた派手な状況だな。鬼が二体たぁ、胡蝶も骨が折れただろうぜ」

 

「違う」

 

 義勇は即座に否定する。

 

「あァ?何が違うってんだァ」

 

 風柱、不死川実弥の鋭い声が飛ぶ。義勇は淡々と口にした。

 

「……鬼は、上弦の弐と戦っていた」

 

「そりゃどういう意味だァ?仲間割れに巻き込まれたってのかァ?」

 

 不死川の言葉を遮るように、義勇が続ける。

 

「……胡蝶が、その鬼を庇った」

 

 空気が、凍りついた。

 次の瞬間、不死川の中で何かが音を立てて切れた。

 

「てめェ、今なんて言ったァ……?鬼を庇っただとォ?胡蝶さんを侮辱してんのかァ!」

 

「……静まれ、実弥」

 

 大地を震わすような、静かな声。岩柱・悲鳴嶼行冥だった。

 

「義勇の言葉を、今は誰も侮辱とは思うておるまい。我々は皆、あまりに信じ難い現実に、ただ心を乱されているのだ…。お前の怒りもまた、真実。…だが、まずはお館様のお言葉を最後まで聞くのが筋であろう」

 

 悲鳴嶼の言葉は、激昂する不死川を制すると同時に、他の柱たちの動揺を代弁していた。耀哉は、その全てを受け止めるように、優しく語りかける。

 

「義勇。その鬼は、カナエと協力して上弦の弐と戦っていた、ということなのかな?」

 

 義勇は小さく頷いた。その瞬間、不死川が再び吼える。

 

「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞォ……!胡蝶さんがどんな想いで刀を振るってきたと思ってやがる!鬼に殺された全ての仲間の墓に、唾を吐く気かァ!」

 

 一瞬の沈黙の後、義勇が口を開く。脳裏に、血の海の中で力なく羽織を掴むカナエの姿が蘇っていた。あれは、大切な存在を守ろうとする人の、必死の願いだった。

 

「……胡蝶が、俺を止めた。『この鬼は私を助けた』と」

 

 明確な隊律違反。そして、鬼殺隊が数百年かけて築き上げてきた絶対的な理念を、根底から揺るがす証言だった。

 

「――その鬼のことは、僕も知っているんだ」

 

 全ての視線が、耀哉へと注がれる。

 

「カナエから、報告を受けていたんだよ。『人を喰わずに、同族である鬼を狩る鬼がいる』とね。カナエは、彼の目的が私たちと同じく『鬼舞辻無惨を滅ぼすこと』にあると教えてくれた。私は、その可能性に懸けたい」

 

 その場の誰もが言葉を失った。カナエの独断ではなかった。当主が、その全てを把握した上で許可していたという事実に、彼らの混乱は頂点に達する。

 

「そして今回、斎鬼は自らの命を危険に晒して、カナエを上弦の弐から守ってくれた。私は、鬼『斎鬼』を鬼滅隊に迎え入れたいと考えている」

 

「お館様!」

 

 不死川が叫ぶ。

 

「正気ですか!どんな事情があろうと鬼は鬼です!人を喰らう化け物を、この鬼殺隊が受け入れるなど、断じてあり得ません!」

 

 その言葉に、それまで静かに数珠を爪繰っていた悲鳴嶼が、静かに、しかし誰よりも強い拒絶の意を込めて口を開いた。

 

「お館様、恐れながら申し上げます。不死川の言う通り、鬼は滅するべき存在。例外を一つ認めれば、隊の規律は崩壊し、我々が積み上げてきた『悪鬼滅殺』という絶対の礎が揺らぎます。鬼を信用するなど、愚の骨頂にございます」

 

 鬼殺隊最強の剣士による、静かで、しかし揺るぎない拒絶。その言葉の重みが、庭の空気を支配する。

 

「まあ待てよ」

 

 宇髄が空気を変えるように割って入った。

 

「そいつは上弦とやり合ったんだろ?数百年ぶりの『上弦の弐』の情報だ。それを捨てるたぁ、地味にもったいねぇ話だ」

 

 悲鳴嶼は静かに首を振る。

 

「宇髄の言うことにも理はある。…だが、その鬼一体を生かすために、これまで鬼に殺されていった幾多の命を、我々の信念を、無碍にはできぬ」

 

「そうです!鬼は、即刻斬り捨てるべきです!」

 

 不死川の叫びに、耀哉は静かに、しかしはっきりと告げた。

 

「その鬼、『斎鬼』の最終的な裁定は、カナエが回復し、正式な証言を得た後に行う。それまで、彼の処遇は保留としよう」

 

「待てません」

 

 静かな声。しかし、そこには強固な拒絶が滲んでいた。

 

「胡蝶さんが目を覚ます保証などどこにもありません。その間に化け物を野放しにすることは、到底容認できない」

 

 不死川の殺気立った声が、夜明け前の静寂を切り裂いた。その言葉は重く響き、庭の空気は鉛のように沈み込む。続く言葉は、ない。

 その様子を見て、耀哉が最終的な決定を下した。

 

「皆の言い分は、よく分かったよ。鬼への不信は、鬼殺隊の根幹をなすものだ。それを軽んじるつもりはない」

 

 庭に満ちていた殺気と動揺が、潮が引くように静まり返り、誰もが息をひそめる。風が庭木を揺らす音と、篝火がぱちりと爆ぜる音だけが、産屋敷耀哉の次の言葉を待つ張り詰めた沈黙の中に響いていた。

 

「だが、カナエが命を懸けて繋いだ可能性と、上弦を討つという我々の悲願、その両方を無視することもできない」

 

 耀哉は、柱たち一人一人の顔を見渡し、告げる。

 

「すぐに結論を出すのはやめよう。猶予を設ける。その間に、斎鬼を監視下に置き、彼が本当に人を襲わないか、我々の益となる存在か、見極める時間としたい。カナエの回復を待つのにも、時間が必要だからね」

 

「しかし!」

 

「――実弥」

 

 食い下がる不死川を、耀哉は穏やかな、しかし有無を言わさぬ声で制した。

 

「いいね、皆。最終的な裁定は、次の柱合会議で下す。それまでは、いかなる手出しもしてはいけないよ」

 

 その決定に、柱たちは黙り込む。ある者は悔しげに唇を噛み、ある者は静かに頷き、またある者は、新たな戦いの始まりを予感していた。

 

 鬼殺隊の歴史が、今、大きく、そして静かに動き出そうとしていた。

 

***

 

 柱たちが去り、夜明けの光が満ちた庭には、耀哉と、いつの間にか隣に座した妻のあまねだけが残されていた。激しい議論の熱が嘘のように、風が木々の葉を揺らす音だけが静かに響いている。

 

「すまないね、皆……。皆の魂の叫びを、私は受け止めた上で、それでもこの道を選ばなければならなかった」

 

 誰に言うともなく呟かれた言葉には、深い痛みが滲んでいた。柱たちの顔が、一人一人脳裏に浮かぶ。彼らの忠誠心、鬼への憎しみ、そして深い心の傷。その全てを知りながら、耀哉はあえて茨の道を示した。

 耀哉のこの目は、未来を映すわけではない。ただ、無数に絡み合った運命の糸の中から、異質な色を放つ一本だけを、時折見出すことができる。

 

 『斎鬼』という鬼。

 その鬼は、ただ人を喰わぬだけの鬼ではない。千年に及ぶ我々と鬼舞辻無惨との戦いの歴史の中で、初めて現れた『変数』だ。憎しみの連鎖が生み出した鬼ではなく、憎しみを乗り越えようとする意志を持った鬼。

 この糸が、我々を悲願の達成へと導くのか、それとも隊そのものを内側から崩壊させる毒となるのか。だが、決して悲観的ではないと、耀哉は確信していた。

 

 だが、これだけは分かる。この糸を手放せば、たとえ未来で鬼舞辻を討てたとしても、そこに残る者はわずかだろう。我々はまた、同じ悲劇を、同じ喪失を、繰り返すことになる。

 

「あの子たちの未来のために」

 

 耀哉は、病で爛れた顔を上げ、朝日に向かって穏やかに、しかし鋼の意志を込めて微笑んだ。

 

「鬼舞辻無惨。君が千年かけて築き上げた盤上を、この一手で、私の子どもたちと共に、必ず覆してみせるよ」

 

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