境界の斎鬼   作:eebbi

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決意

 柱合会議の夜、まず動いたのは風柱、不死川実弥だった。

 月光が白刃となって差し込む道場は、鉄と汗の匂いが染みついている。ざらりとした板間の感触が、彼の昂ぶる神経を逆撫でした。眼前に控えるは、自ら選び抜いた腹心の隊士たち。その一人ひとりの目が、主と同じく、憎悪という名の鈍い光を宿している。地を這うような低い声が、張り詰めた空気を震わせた。

 

「お館様は『手出しするな』とよォ。言葉通り、手は出さねェ。だがなァ――『監視』は別だ」

 

 その目に宿る炎に、一片の揺らぎもない。それは、かつて鬼と化した母に家族を奪われた日から、片時も消えることなく燃え続ける業火であった。憎しみの味は、常に舌の奥にこびりついている。

 

「奴の寝床を突き止めて一挙手一投足を見張れェ。あの化け物が、人を喰わねェなんて戯言、俺は信じねェよ。奴が理性の皮を脱ぎ捨てて本性を現すその瞬間を捉えろ。そいつが、奴を断罪する揺るぎねェ大義名分になるからよォ」

 

 隊士たちの間に走る、鋭い緊張。これは柱としての公務ではない。産屋敷の決定に異を唱える、反逆の狼煙ですらない。ただ、己が信じる正義のため、汚濁を許さぬと誓った一人の男が振るう、私的な刃であった。

 

 同じ夜、対照的に華やいだ音柱邸では、宇髄天元が盤上を読んでいた。

 上質な白檀の香が漂い、磨き上げられた黒檀の卓上には、ぬる燗の酒が置かれている。三人の妻、まきを、須磨、雛鶴から寄せられる報告の囁き声は、まるで琴の音のように彼の耳を楽しませていた。

 

「元下弦、上弦の弐と交戦、そして生き残った鬼、か。……派手にそそるじゃねえか」

 

 彼にとって斎鬼は、善悪の天秤にかけるべき存在ではなかった。ただ、その利用価値を計るべき、盤上の駒。忍として闇に生きた過去が、彼から感傷というものを削ぎ落としていた。薄い唇に笑みを浮かべ、杯を呷る。喉を焼く酒の熱さが、勝利への渇望を煽った。配下の『鼠』に指令を飛ばす。

 

「例の鬼と、不死川の放った犬ども、両方の動きを追え。鬼が何を糧とし、どう戦うのか。不死川がいつ、どう動くのか。全ての情報を派手に浚って俺に届けろ。殺すにせよ生かすにせよ、まずはその価値を、この俺が見極めてやる」

 

 宇髄の情報網。それは闇に溶ける水のように、静かに、しかし広範に展開を開始した。彼が求めるのは混沌ではなく、混沌の先にある支配。

 全ての駒の動きを読み切り、最も派手な勝ちを掴むための、冷徹な布石であった。

 

 激情が、そして打算が闇夜を駆ける一方で、静かに真実を追う者たちもいた。

 

 その日も、冨岡義勇は一人、月明かりだけを頼りに木々を渡っていた。頬を撫でる夜風は刃のように冷たく、湿った土と松葉の匂いが肺を満たす。

 彼の心を占めるのは、ただ一つの光景。血の海の中で、最後の力を振り絞り、鬼を庇った胡蝶カナエの姿。あの瞳の真意を、己の目で見極める必要があった。憎しみでも、利害でもない。ただ、彼女が命を懸けて繋いだものが何であったのかを知るために。

 

 己の代わりに死んでいった友が繋いでくれた命で、自分は何を為すべきなのか。その答えを探すように、彼は誰にも告げず、探求を始めていた。

 その寡黙な背中は、言葉以上に雄弁に、彼の譲れぬ信念を物語っていた。

 

***

 

 蝶屋敷の空気は、張り詰めた糸のように静かだった。

 屋敷の至る所に、拭き取りきれていない血の跡がある。薬草を煎じる匂いと、消毒液の匂い。そして、微かに血の匂いが漂っている。その全てが、ここで繰り広げられた死闘の激しさと、今も続く静かな戦いを物語っていた。

 

 胡蝶しのぶは、カナエが眠る部屋の縁側で、じっと庭を見つめていた。冨岡義勇が瀕死の姉を抱えて屋敷に転がり込んできたあの日から、もう何日経っただろうか。時間の感覚は、とうに麻痺していた。

 ベットで眠る姉は、全身を包帯で包まれ、浅い呼吸を繰り返している。姉は、生きていた。それが唯一の救いだった。

 しかし、その体は上弦の鬼が遺した呪いのような傷に深く蝕まれ、意識は未だ闇の中を彷徨っている。出血が酷かった。加えて、肺にまで達している背中の傷は、いつ開いてもおかしくない状況だ。今は落ち着いた穏やかな寝顔を見るたび、しのぶの胸は安堵と絶望の間で引き裂かれそうになった。

 

 鬼。

 その言葉を思うだけで、腹の底から黒い憎悪がせり上がってくる。両親を殺した鬼。そして、姉をここまで追い詰めた鬼。家族も、仲間も、誰かのささやかな幸せも、何もかも奪っていく。この世の全ての鬼を根絶やしにするまで、この憎しみが消えることはない。そう、信じていた。この憎悪こそが、非力な自分を支える柱なのだ。

 

 ――この鬼は私を助けた。

 

 冨岡から伝え聞いた、姉が最後に振り絞った言葉。その言葉が、しのぶの信じる世界を歪ませる。

 頭では理解しようと努める。姉が助かったのは、その鬼のおかげなのだと。だが、心がその事実を拒絶していた。

 

 ――なぜ。

 

 しのぶは、爪が食い込むほど強く拳を握りしめる。

 

 ――なぜ、あの場にいたのが、私ではなかった。なぜ、姉さんの側にいたのが……鬼なんだ。

 

 それは、ただの妹としての、あまりにも理不尽で子どもじみた嫉妬だった。人を守ると誓ったはずの自分は鬼の頸を切ることすらできず、憎むべき鬼がその役目を果たしたという事実。私がその場にいたとて、何ができただろう。その鬼でなければ、姉さんは救えなかった。頭ではわかっているのに、その黒い感情が芽生えてしまう自分自身に、吐き気すら覚える。

 

 しのぶはカナエの私室から、一冊の手記を持ち出していた。カナエが独自に行っていた調査記録。そこに、例の鬼――『斎鬼』に関する記述があった。

 

 その名を指でなぞるたび、両親が惨殺された夜の光景が脳裏に焼き付いて離れない。

 元下弦の鬼。人を喰らわず、同族を狩る。目的は、鬼舞辻無惨の討伐。 断片的な情報だけでは、その鬼の実像は掴めない。だが、そこに記された姉の筆跡は、単なる監視対象の記録ではなく、どこか慈しむような温かさを帯びていた。新しい友のことを語るような、弾むような筆致。

 

 その温かささえも、心を苛む。

 

 しかし、ページを読み進めるうちに、しのぶは目を見張った。

 

『血鬼術【凶兆察知】。これは訓練次第で、未来予知に近い領域に達する可能性がある。遠方の鬼を探知している様子もあり、偵察活動に利用できるかもしれない』

 

『鬼狩りを始めて以降も、彼の討伐を目的とした鬼からの襲撃はないとの発言あり。無惨の支配下から逃れている可能性がある。無惨の呪いの解除に役立つ情報になるのではないか』

 

 そこには、例の鬼から聞いたという、上弦の鬼の外見に関する情報まで記述されている。

 その優しさの裏側で、鬼殺隊の柱として、極めて冷徹に、斎鬼という存在の利用価値を見極めていた。

 

 ――私は非力だ。

 

 鬼の頸を斬れない自分。姉のように、鬼と人が手を取り合えるなどという理想を信じることもできない自分。

 今の自分に何ができる。答えは、一つしかなかった。

 

 ――確かめなければ。

 

 この目で、直接。

 姉が信じ、お館様が可能性を見出したという鬼が、一体何者なのかを。

 

 1ヶ月後の柱合会議。それまで、例の鬼は監視対象となったと聞いた。しかし、それで大人しくする柱たちではないことくらいはわかる。感傷に浸っている暇はなかった。

 

 これは、鬼殺隊士としての任務ではない。姉が信じたものを私も信じたいと願う心と、姉を惑わせたその存在をこの手で断罪してやりたいと叫ぶ心。その二つに引き裂かれながら、それでも前に進むための、たった一人の戦いの始まりだった。

 

***

 

 深い森の奥、打ち捨てられた古い炭焼き小屋。湿った土と炭の匂いが、闇に沈殿している。それが、斎鬼が辛うじて見つけ出した、仮のねぐらだった。

 

 朝日を避けて転がり込んでから、意識は何度も途切れ、そのたびに悪夢にうなされた。己が殺した人々の血の匂い。氷の扇子。虹彩の瞳。そして、血の海に沈みか細い息をするカナエの姿。

 

 傷口を苛む激痛で、斎鬼は目を覚ます。全身が鉛のように重く、動くたびに骨が軋むような痛みが走った。

 童磨に負わされた傷は、まだ完全には塞がっていない。右脚はいまだに役に立たず、肺を掠めた傷は、呼吸をするたびに内側から凍てつくような痛みを伴った。

 だが、肉体の苦痛以上に彼を苛んだのは、心の痛みだった。

 

 守れなかった。

 後悔が、彼の心を蝕む。あの時、自分がもっと強ければ。もっと早く駆けつけていれば。彼女をあのような目に遭わせることはなかった。贖罪のために振るう刃は、結局、何一つ守れなかったではないか。無力感という名の冷たい泥が、彼の魂を底なしに引きずり込んでいく。

 

 己の弱さから逃げるように、目を瞑る。

 その時、悪夢の残滓がこびりついた脳裏に、ふと全く別の光景が蘇った。

 月明かりの差す社の境内で、真剣な目で木刀を構えるカナエの姿。こちらを指差し、友達になろうと、屈託なく笑った彼女の顔。

 その全てが、手にしてはいけないと、捨てなければいけないと思っていた暖かさを宿していた。

 

 そうか。今さら、初めて自覚した。

 カナエを救うため、ただその一心で駆けつけたあの時の感情。合理性も、贖罪も、無惨への憎しみさえも消し飛んだ、腹の底から湧き上がってきた純粋な衝動。それは、間だった頃の記憶を取り戻してから、初めて抱いた感情だった。

 

 あの笑顔を失いたくなかった。

 己の目は、常に過去に向いていた。犯した罪を償うための『贖罪』。それは、どこまで行っても自己完結した、独りよがりな戦いだった。過去の罪を清算することだけが、自分に許された唯一の道だと信じていた。

 

 カナエと出会って、お互いの過去を語り、彼女の夢を知った。初めて、未来に向けた『願い』が、彼の内に灯っていた。救われてはいけない。命を奪った罪は、命で償わなくてはならない。そして、無惨を討つ。それは今でも変わらない。それでも。

 

 斎鬼は、痛む体を引きずり、小屋の入り口から外を窺う。空には、三日月が静かに浮かんでいた。あの古びた社でカナエと初めて会った、あの夜と同じ月。自身の罪を清算するためじゃない。カナエが夢見た、鬼も人も救われる世界。そのために、この呪われた命と力を使いたい。

 

 きっともう、あの場所で彼女と会うことはない。存在が露見した以上、これから鬼殺隊に追われることになるだろう。彼女に近づくことは、更なる危険に彼女を晒すだけ。また、孤独な道だ。

 だが、その心に灯った光は、決して消えることはなかった。いつか、もう一度彼女に会うために。そして彼女が夢見た世界を、この手で実現するために。

 

 決意は固まった。

 深い闇に包まれる森の中、力強く拳を握る一人の鬼を、月明かりが照らしていた。

 

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