境界の斎鬼   作:eebbi

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蝶の覚悟

 鬼殺隊による追跡が始まってから、三週間が経とうとしていた。

 

 斎鬼は、常に移動を続けていた。執拗な追跡の気配を肌で感じ、深く潜伏しながらも、力を蓄えるための同族狩りはやめられない。童磨の顔が、カナエの血に濡れた姿が、脳裏を離れない。焦りが、飢餓と共に心を蝕んでいた。

 

 その日も、彼は一体の鬼を仕留め、古寺の屋根で息を潜める。その時、研ぎ澄まされた聴覚が、遠くで響く女の悲鳴と子供の泣き声を捉えた。

 

 思考よりも早く体が動こうとするのを、理性で無理やり押さえつける。

 行くな。罠だ。追手がすぐそこにいる。ここで動けば、全てが終わる。

 

 見ず知らずの人間。鬼となって以来、自分が奪ってきた数多の命を思えば、今更一つや二つの命を見過ごしたとて、罪の重さが変わるわけでもない。それが、最も合理的で、正しい判断のはず。だというのに。

 

 鼓膜に突き刺さる甲高い悲鳴が、忘れたはずの記憶の扉をこじ開ける。あの夜、自分が牙を剝いた家族の、最後の叫びと重なった。

 

「……くだらないな、俺も」

 

 自嘲の呟きが、静かな夜の空気に溶ける。次の瞬間、彼の姿は屋根から掻き消えていた。

 

 現場では、一体の異形の鬼が、幼子を庇う母親に爪を突き立てようとしていた。その鬼と母親の間に、斎鬼は音もなく舞い降りる。

 戦いは一瞬だった。己の負傷も厭わず、最短の一撃で鬼の頸を断つ。しかし、鬼が最期に振った爪が、彼の脇腹を深く抉った。新鮮な血が闇色の着物を濡らす。

 

「何も見るな。何も言うな。すぐに、ここを立ち去れ」

 

 腰を抜かした母親にそれだけを告げ、斎鬼は再び森の闇へと溶けていく。後には、急速に塵へと還る鬼の亡骸と、点々と続く血の跡だけが残された。

 

***

 

 同じ森の、数百メートル離れた場所。 夜風が木々を揺らす音以外、何も聞こえない。不自然なまでの静寂。湿った土と腐葉土の匂いが立ち込める中、不死川の部隊は一日の捜索を終えようとしていた。張り詰めた糸が、わずかに緩み始めた、その時。

 

 隊士の一人が、不意に足を止める。

 

「……この匂い……血だ」

 

 鼻腔を突く、二種類の血の香り。一つは、今まさに消えゆく鬼のもの。そしてもう一つは、それとは明らかに違う、濃密な生命力を感じさせる血の匂い。血痕は、森の奥へと続いていた。

 

 隊長を務める男の口元が獰猛に歪む。彼は懐から鎹鴉を取り出し、夜空へと放った。静寂を破り、甲高い鳴き声が響き渡る。主、不死川実弥への報告。それは、たった一言。

 

「目標補足。交戦許可ヲ求ム」

 

 その一部始終を、木々の影から見ていた者がいた。宇髄の配下の忍である。彼らの報告もまた、主の元へ疾風の如く届けられる。盤上の駒が、決定的な一手を打った。

 

 同時刻、蝶屋敷。 胡蝶しのぶの部屋の障子が、立て続けに静かに開かれた。

 隠が血相を変えて飛び込んでくる。

 報告は簡潔。しかし、その一言で部屋の空気が凍った。

 

「不死川様の部隊が、東の森に集結!目標を発見したとの報せです!」

 

 息をつく間もなく、 窓枠に音もなく一羽の鎹鴉が止まる。

 その足には、冨岡からの文。 紙片に記された文字は、わずか。

 

『鬼が親子を救った。深手あり。追手が位置を特定』

 

 文机の上に目を移すと、いつの間にか小さな巻物が置かれている。そこに記された問いかけは、まるでこの状況を楽しんでいるかのようだった。

 

『風が吹く。蝶はどう舞う?』

 

 全ての情報が、一つの絶望的な未来を指し示していた。近いうちに、あの鬼は殺される。

 

 湧き上がる怒りのままに、しのぶは立ち上がった。その顔に表情はない。妹としての情も、医療者としての優しさも、全てが抜け落ちていた。そこにあるのは、姉が命を懸けて繋いだ唯一の可能性を、この手で守り抜くと決めた、隊士としての、絶対零度の覚悟。

 

 彼女は振り返り、控えていた隠に、冷徹な声で命じた。

 

「宇髄さん、冨岡さんを、至急こちらへ。――鬼殺隊の未来が懸かっている、と伝えなさい」

 

 水面下の攻防は終わった。決戦の幕が、上がろうとしていた。

 

***

 

 朝日が差し込む蝶屋敷の一室。そこには、しのぶの呼びかけに応じた二人の柱が、すでに待機していた。音柱、宇髄天元と、水柱、冨岡義勇。部屋の空気は、三者三様の沈黙で重く張り詰めていた。

 

「で、こんな朝っぱらから話ってのは何だ?地味に勿体ぶりやがって」

 

 宇髄が不遜に問いかける。冨岡は、黙して語らない。

 しのぶは無機質に、単刀直入に切り出した。

 

「ご存じの通り、もはや一週間後の柱合会議まで、あの鬼の命はもたない」

 

 その言葉に、宇髄の口の端が小さく上がる。冨岡の眉が、僅かに動いた。

「ですから、彼らがあの鬼を殺す前に、あの鬼を蝶屋敷に保護します。お二人には、それを手伝っていただきたい」

 

 そのあまりに大胆な提案に、宇髄は頬を大きく釣り上げた。

「正気か? そりゃあ、不死川と全面的に事を構えるってことだぜ」

 

 宇髄の言葉に、しのぶは静かに頷く。その声色は一見冷たい。しかしその奥に、隠しきれない怒りが滲んでいた。

 

「姉さんが命懸けで繋いだ可能性を、ただ感情のままに、無意味に潰させるわけにはいきません」

 

「……言いてえことはわかった。だが、俺たちに何の得がある? 鬼一体のために、他の柱と事を構えろってのか?」

 

 その問いは、値踏みする鋭さを持っていた。

 

「得ならあります」

 

 しのぶは淀みなく答えた。昨夜の小さな巻物を見せる。

 

「宇髄さん、あの鬼のことを探っていますよね。それなら、わかっているはずです。それが持つ情報は、貴方たちが血眼で探すどんな情報よりも正確で、利用価値があることも」

 

「……悪くねぇ」

 

 宇髄の目がわずかに細められる。

 

「そして、冨岡さん」

 しのぶは、黙したままの水柱へと視線を移す。

 

「貴方は、姉さんが最後の力を振り絞って何を伝えようとしていたのか、その目で見たはずです。姉さんが命懸けで繋いだあの鬼の存在を、このまま無意味に終わらせてしまって、本当に良いのですか?」

 

 冨岡の肩が、わずかに揺れた。彼の脳裏に浮かぶ、血の海の中で力なく、それでも必死に訴えていたカナエの姿。そしてあの鬼は、目の前で人を助けた。言われるまでもなく、結論は出ていた。

 

「……胡蝶が繋いだ命だ。無駄にはしない」

 

 短い、しかし、重い一言だった。

 

「派手に面白くなってきたじゃねぇか」

 

 宇髄は愉快そうに笑うと、しのぶに告げた。

 

「いいぜ、乗ってやる。それと胡蝶、一つ訂正だ。不死川の連中には偽情報をつかませてある。あと一日は持つだろうよ」

 

 しのぶの目が驚きに見開かれる。その奥にはわずかな安堵の光が見えた。

 

「そんで、話はこれでおしまいか?」

 

 そう言う宇髄の目には、試すような色が浮かんでいる。想定通りとでも言うように、しのぶは感情のない声で答える。

 

「いいえ。一週間後の柱合会議。それをどう乗り切るかを考えないといけない。そうですよね」

 

 宇髄の口に、こらえきれないとばかりに笑みが浮かぶ。それが答えだった。

 

「先日、悲鳴嶼さんの元へ伺いました。ですが、あの人の決意は硬い。一週間後の柱合会議、あの鬼は殺されることになるでしょう」

 

 悔しさが蘇り、袖の端を握りしめる。

 

「彼らには、例の鬼の価値を、最も分かりやすい形で示します。……お館様に、斎鬼と不死川さんとの『御前試合』を提案していただくのです」

 

「…言葉で納得するタマじゃねえからな。だが、そりゃ試合じゃなくて、一方的な処刑だぜ」

 

 宇髄の言葉に、しのぶは静かに頷く。

 

「ええ、分かっています。だからこそ、意味があるんです。斎鬼が不死川さんと渡り合い、生き残ること。それが、彼が我々の命を預けるに値する、何よりの証拠になります」

 

「いざというときは、俺らが派手に止めるしかねぇ…。冨岡」

 

 宇髄の言葉に、それまで沈黙を保っていた冨岡が、低い声で問うた。

 

「…だが、介入すれば、意味がなくなる」

 

 短く、切り捨てるように紡がれた言葉。そのあまりに言葉足らずな響きに、宇髄は訝しげに眉をひそめたが、しのぶはため息をつきながら答える。

 

「……その通り、誰かが介入すれば不信を買い、あの鬼の立場はより悪化するでしょう」

 

 しのぶは、冨岡の懸念を肯定する。

 

「ですから、介入は最後の手段。あくまで保険です。ですが、生きてさえいれば、やりようはあるはず。最悪の事態だけは、避けていただきたいのです」

 

 それは、冨岡への絶対的な信頼を示す言葉であると同時に、斎鬼を死なせないという強い意志の表れだった。

 

「……承知した」

 

 冨岡は、静かに頷いた。

 三人の間に流れる沈黙。結論は出た。

 

「決まりだな」

 

 宇髄がパン、と手を打った。

 

「よし、お館様には俺から話を通しといてやる。だが、胡蝶。もしこの賭けに負けりゃ、お前もタダじゃ済まねぇぞ。柱を欺き、鬼を庇った罪は重い」

 

「覚悟の上です」

 

 しのぶの瞳に、迷いはなかった。姉が信じた可能性を現実にするためなら、彼女はどんな非情な策さえも実行する覚悟を決めていた。

 

「さて、ド派手に行こうじゃねぇか」

 

 朝日が、三人の顔を静かに照らし出していた。もはやこれ以上の言葉は不要だ。一つの目的のために、三人の隊士の意志が一つに重なった瞬間だった。

 鬼殺隊という巨大な組織の、盤石に見えた岩盤の下で。歴史を揺るがす地殻変動が、今、静かに始まっていた。

 

***

 

 夜の闇は、血の匂いを洗い流してはくれない。

 同族を狩り終えた斎鬼は、打ち捨てられた廃寺の濡れ縁に腰を下ろし、己の腕に刻まれた傷を見つめていた。月の光が、再生を続ける傷口を青白く照らし出す。肉が盛り上がり、皮膚が形成されていく様は、生命の神秘というよりは、呪いの顕現に近かった。

 

 人を喰らわぬ彼の再生は、驚異的ではあるが万能ではない。戦いの度に血を失い、肉を削られ、その消耗は確実に魂を蝕んでいく。飢餓感は、もはや彼の体に染みついた風土病のようなものだった。癒えることのない渇きと、決して消えることのない罪の記憶。それら全てを罰として受け入れ、彼は夜を彷徨う。

 

 脳裏をよぎるのは、氷の扇子を操る、あの虹彩の瞳。上弦の弐・童磨。あの夜、己の無力さを刻みつけられた、絶対的な強者。そして、血の海に沈んだカナエの姿。

 あの領域に至らねば、無惨の頸には届かない。いや、それでも足りないのだろう。

 

 カナエから学んだ呼吸法は、彼の戦い方を根底から変えた。だが今のままでは、再びあの鬼の前に立てば結果は同じだろう。より強く、より速く、より効率的に鬼を滅する術を、この身に叩き込まねばならない。焦燥感が、彼の心を焼く。

 

 その時だった。夜の静寂を切り裂き、数多の刃が月光を反射して煌めいた。

 空気が一瞬にして殺意に満たされる。斎鬼が身構えるよりも早く、四方八方から黒い隊服の影が躍り出た。その動きには一切の躊躇いがなく、ただ純粋な殺意だけが、研ぎ澄まされた刃となって彼に突きつけられる。

 

 ――鬼殺隊の手勢か。

 

 その統率された動きと、容赦のない殺気から、斎鬼は即座に敵の正体を悟った。だが、深手を負い、回復しきっていない彼の体では、多勢に無勢。この包囲網を突破するのは至難の業だ。

 段々と鬼殺隊の包囲網が迫っていることは、分かっていた。いつかこうして命を散らすことも、覚悟の上だった。だが――。

 

 脳裏に浮かぶ、あの夜の笑顔。まだ死ぬわけにはいかない。あの笑顔を、あの夢を、こんな場所で潰えさせるわけには。

 斎鬼が日輪刀を握りしめ、死中活路を求めようとした、その刹那。

 

「――そこまでです」

 

 凛とした、しかし氷のように冷たい声が響いた。

 隊士たちの動きが、一斉に止まる。彼らの視線の先、月明かりを背に、一体の蝶が舞うように静かに佇んでいた。

 蝶の髪飾り。カナエに、よく似ている。

 

 その面影に、胸の奥が鋭く痛んだ。だがすぐに悟る。陽だまりのような温かさも、万物への慈しみも、そこにいる少女からは欠片も感じられない。彼女が放つ気配は、研ぎ澄まされた刃のように冷たい。

 

「胡蝶……!?なぜ、ここに……」

 

「あなたたち、お館様の御意向に背くつもりですか。」

 

 その声には、感情の起伏が一切ない。

 

「この鬼は、現在柱合会議の裁定を待つ身。独断での討伐は、重い隊律違反に問われますよ」

 

「だが、我々はこの鬼の討伐を命じられている!」

 

 隊士の一人が反論した。その言葉に、彼女の纏う空気がさらに冷え込む。

 

「その命令は、お館様の御意向を超えるとでも?」

 

 しのぶの静かな問いに、誰も答えることはできなかった。鬼殺隊の頂点に君臨するお館様の存在。隊士たちはただ立ち尽くす。

 その膠着状態を破ったのは、どこからともなく現れた、黒装束の男たちだった。

 

「――あとは、俺たちが派手に引き受ける」

 

 声の主は、音柱・宇髄天元。彼の言葉と共に、その部下たちが音もなく隊士たちを取り囲む。

 

「なっ……!」

 

「宇髄様まで……!」

 

「悪いな。お前らが追ってたのは、こっちの鬼だ」

 

 宇髄が指さした先、森の奥から一体の鬼が引きずられ、放り出される。それは、この辺りの縄張りを荒らしていた鬼だった。

 

「風柱にはそう報告しとけ。ご苦労さん」

 

 宇髄の有無を言わせぬ物言いに、隊士たちはもはや反論もできず、混乱したまま撤退していく。

 場を静寂が支配する。

 

「お前が例の鬼か。鬼っぽくねぇ面だな」

 

 宇髄が不躾な視線を向ける。角がほとんどなく、牙も小さい斎鬼は、見る者によっては人と間違えるだろう。

 

「……何の、つもりだ」

 

 斎鬼の問いに、宇髄が愉快そうに笑った。

 

「不死川が来なくて運が良かったな。お前のために、この宇髄天元様が動いてやったんだ。ド派手に感謝しろよ」

 

 しのぶは、斎鬼を殺すかのような鋭い視線で射抜きながら、静かに告げた。

 

「……来なさい。あなたを蝶屋敷に連れていきます」

 

 それを聞いた宇髄は、部下に斎鬼の拘束を指示する。

 

「まあ、おとなしく従ってくれ。悪いことにはならねぇ」

 

 彼女は、鬼殺隊の本拠地でありながら、最も警戒が厳しい場所――蝶屋敷へと斎鬼を連れて行く。灯台下暗し。これほど危険で、これほど安全な隠れ家は、他になかった

 

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