境界の斎鬼   作:eebbi

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陽だまりの檻

 蝶屋敷の地下深く、かつて薬草の燻蒸消毒室として使われていた石造りの倉庫。それが、斎鬼に与えられた新しいねぐらだった。

 ひんやりとした石の床、分厚い鉄の扉には外から掛ける頑丈な閂が見える。そして、鬼の力を鈍らせる藤の香り。部屋の隅に置かれた香炉は、調度品というにはあまりに無骨な鉄製で、壁の通気口と管で繋がった『燻蒸装置』だ。ここは、傷を癒すための場所であると同時に、一度入れば自力では出られない、紛れもない『檻』だった。

 

「五日後、あなたの処遇を決める会議が開かれます。そこで、あなたは全ての柱の前で、その存在価値を問われることになる」

 

 日輪刀を携えた彼女は、淡々と、しかし一言一句に棘を含ませて状況を説明する。

 

「私があなたをここに置くのは、姉さんが繋いだ命を、無意味に殺させないため。それ以上でも、それ以下でもありません。勘違いしないように」

 

「……分かっている」

 

「返事はしなくて結構です。鬼と会話する趣味はないので」

 

 その冷徹な言葉に、斎鬼は何も答えなかった。彼女の憎しみは、当然のものだ。両親を殺され、姉を殺されかけたのだ。その怒りの矛先が同じ鬼である自分に向くのは、道理だった。

 

 不意にしのぶの目が、斎鬼の未だ塞がらぬ傷を捉える。鬼を射抜いていた憎悪の光が薄まった。彼女の視線が、傷口と、湿気と埃に満ちたこの石室の床とを、値踏みするように往復した。その目に一瞬、明確な嫌悪の色が浮かぶ。

 

「……治療します。来なさい」

 

 突然の言葉に戸惑いつつ、斎鬼は彼女の後に続いた。

 

「この屋敷には事情を知らない子たちもいます。特に、鬼をひどく怖がる子も。物音一つ立てないでください」

 

 しのぶの言葉を聞きながら治療に向かうその道中。開かれた障子の向こう、月明かりが差し込む縁側に、静かに眠る人影が見えた。 ベッドに横たわり、穏やかな寝息を立てている。

 

 ――胡蝶カナエ。

 言葉のない、一瞬の再会だった。 彼女の頬は以前よりも痩けていたが、その寝顔は、斎鬼の記憶の中にあるものと何も変わらない、花のような穏やかさに満ちていた。

 生きている。その事実が、じわりと、斎鬼の凍てついた心の芯を温めた。

 その時、まるで夢うつつに懐かしい気配を感じ取ったかのように、カナエの口元がかすかに綻んだ。

 

 その二人の間に流れる、言葉のない、しかし確かな繋がりを感じさせる空気。それを、目の当たりにしたしのぶは、激しい衝動に襲われた。

 嫉妬と、憎しみと、姉を信じたいという願い。その全てが、彼女の胸中で黒い渦を巻いていた。

 

***

 

 それからの日々は、斎鬼にとって奇妙な時間だった。

 

 しのぶは、憎まれ口を叩きながらも、驚くほど丁寧に彼の傷を手当てした。その小さな手は、薬草を扱い、包帯を巻くことに一切の躊躇いがない。だが、鬼の肉体に触れるその指先が、かすかに震えていることに斎鬼は気づいていた。彼女もまた、自らの憎しみや恐怖と、医療者としての使命感との間で戦っているのだ。

 

 日中は、カナエが車椅子で地下の倉庫までやってきた。

 辺りに、病み上がりとは思えない明るい声が響く。

 

「地下の倉庫なんて、埃っぽくて体に悪いわよ!」

 

「姉さん、大きい声を出さないで。アオイたちに聞こえたらどうするの」

 

 うんざりした表情でしのぶが割って入る。そんな妹の抗議を柳に受け流し、カナエは斎鬼の腕をつかみ引っ張る。

 

「あの子たちは使いに出したから大丈夫よ。今のうちに移動しましょう?」

 

 カナエはそう言っておどけるように笑うと、半ば強引に、屋敷の隅の縁側へと連れ出した。

 

「はい、おはぎ。しのぶが作ったの、美味しいんだから!」

 

 味などしない。鬼の舌は、人間の食べ物を美味いとは感じない。そう断ろうとする斎鬼の口に、カナエは無理やりおはぎを押し込んだ。そのやり取りは、あまりにも日常的で、穏やかで、斎鬼をひどく戸惑わせた。

 

 逃げ場のない、陽だまりのような温かさ。それは、彼にとって安らぎであると同時に、耐え難い苦痛でもあった。

 人間だった頃の幸福な記憶。不器用な父、優しい母、そして小さな弟妹たちと過ごした、何でもない日の食卓の光景。その記憶が、この蝶屋敷の穏やかな空気の中で、不意に鮮やかに蘇る。

 

 そのたび、鬼として犯した罪の記憶が彼の心を内側から引き裂いた。自分が喰らった人間たちにも、こんな穏やかな日常があったはずなのだ。それを、この手で奪った。

 

 俺は、こんな陽だまりの中にいて良い存在ではない。

 

***

 

 蝶屋敷にきてから四日目の昼下がり。いつのまにか綺麗になった地下の薬倉庫で、しのぶが包帯を替えながら、いつものように憎まれ口を叩いていた。

 

「まったく、鬼のくせに治りが遅いですね。本当に元下弦なんですか?」

 

 その言葉に、カナエがくすくすと笑う。

 

「あらあら、しのぶは心配性ね。まるでお母さんみたい」

 

「なっ…!誰がお母さんですか!」

 

 顔を真っ赤にして怒るしのぶと、楽しそうに笑うカナエ。

 姉妹の屈託のないやり取りの全てが新鮮で、懐かしかった。

 

「しのぶ様ー!薬草の仕分けが終わりましたー!」

 

 遠くから、少女の明るい声が聞こえた。しのぶの肩がぴくりと跳ねる。

 穏やかな時間。ありふれた日常。どこにでもある、尊い幸せだった。

 斎鬼の口元から、ふっと息が漏れるような、ごく小さな笑いがこぼれる。その音に胡蝶姉妹が驚いて振り向く。斎鬼ははっとしたように、慌てていつもの無表情に戻った。

 

「あら、今笑ったわよね!」

 

 カナエが、まるで珍しい蝶を見つけたかのように、嬉しそうに声を上げる。その中にあるからかうような響きに、斎鬼は居心地悪そうに視線を逸らした。しのぶは呆れたようにため息をついている。

 彼の心の奥深くを凍りつかせていた氷が、確かに溶け始めているのを、彼は自覚せざるを得なかった。

 

***

 

 蝶屋敷が寝静まった夜。斎鬼は蝶屋敷の隅の庭で、静かに日輪刀を構えていた。その様子を、縁側から静かに見守る影が一つ。カナエだ。

 

「相手できなくてごめんね」

 

「気にするな。傷を治すのが先だろう」

 

 短い会話を交わし、斎鬼は再び、静かに構えをとる。カナエが教えた呼吸を、鬼である自らの肉体に最適化させているのだろう。血中の酸素量を操り、筋肉の再生と強化を同時に行う。

 

 音もなく、影のように滑る足運び。振るわれる刃は、風を切る音を残し、確かな重みを伴って闇を裂く。その剣筋には、カナエが教えた『花の呼吸』の優美な軌跡と、鬼の膂力が可能とする破綻した動きが、奇妙な形で同居していた。

 

 ――すっかり置いていかれちゃったわね。

 

 私はもう、剣を握れない。胸に込み上げる嬉しさとほんの少しの寂しさ。彼の剣は、もはや自分と稽古をしていた頃のそれではない。より鋭く、より洗練され、なによりその刃に宿る意志が変質していた。

 その時、背後に人の気配を感じ、カナエはゆっくりと振り返った。

 

「しのぶも見に来たの?」

 

 そこに立っていたしのぶが、ムッとした表情をする。

 

「違う。姉さん、早く寝ないと傷に障るわ」

 

「ありがとう。でも、あと少しだけ。ね?」

 

 悪戯っぽく笑うカナエにため息をつくと、しのぶも縁側に腰を下ろした。姉妹の視線の先で、斎鬼の鍛錬は続く。

 それを見つめるしのぶの表情は読めない。それでも、そこには悔しさと痛みが滲んでいるように見えた。

 

 両親を鬼に殺されたあの日。鬼を一体でも多く倒す。薄い硝子の上の幸福を、もう二度と壊させない。二人だけ約束だった。

 

 ――彼に温情をかける私を、しのぶはどう思っているんだろう。

 

 ふいに、そんな考えがよぎった。

 刀を仕舞い、こちらに近づいてきた斎鬼を見て、思考を打ち切る。

 

「今日はもう終わり?」

 

「ああ、明日だからな。…それに、俺が終わりにするまでカナエは寝ないだろう」

 

 見破られている。この四日間で、すっかり馴染んだやりとりだった。

 

「姉さん。早く寝てください」

 

 責めるような色を含んだ、冷たい声音。

 

「ええ、ありがとう。……おやすみ、しのぶ」

 

 しのぶは返事をせず、自分の寝室に向かっていった。

 残された二人を、しばし静寂が包んだ。

 

「……しのぶはね、鬼の頸が斬れないの」

 

 カナエが、ぽつりとつぶやく。

 

「どうしても、力が足りないの。だから、あなたの太刀筋が私に似てることが、許せないのかもしれない」

 

「それは……」

 

 この数日の様子だけでも、しのぶが抱える鬼への憎悪が、深く、暗く燃えつづけていることは、斎鬼にもわかった。そんな彼女が、鬼を殺せない。あまりにも残酷だった。

 何か術はないか。そう考える斎鬼の脳裏に、同族狩りを始めた頃の記憶がよぎる。

 

「……毒」

 

「え?」

 

「飢えをごまかすために、動物も雑草も、山にあるものを手あたり次第に食べていた時期だ。何を食べたかまでは覚えていないが、数日間、手足の痺れが取れなくなったことがあった」

 

「……鬼は、藤の花を嫌がるわね」

 

 カナエの言葉に、斎鬼は頷く。

 

「ああ。もしかしたら、関係があるかもしれない」

 

「そう……そうね!しのぶなら、きっと……」

 

 彼女は、すぐさましのぶの部屋へと向かおうとした。しかし、車椅子を動かす音が止まる。

 

「……ありがとう、斎鬼くん」

 

 振り返り際に告げられた感謝の言葉は、確かに温かい。しかし、何かに躊躇っているように聞こえた。

 

***

 

 五日目の夜。

 

 斎鬼が地下倉庫で静かに呼吸を整えていると、階段を降りてくる足音がした。しのぶだ。その後ろには、数人の姿もある。

 

「時間です」

 

 しのぶにより拘束された斎鬼。鬼の力を封じる、頑丈な縄だった。

 全ての準備が整った時、カナエにが階段を降りてきた。彼女は、支えられながらも自らの足で立っていた。その顔には、もはや病人の影はなく、柱としての覚悟が宿っている。

 

「決めたわ。会議が終わったら、斎鬼くんには蝶屋敷で暮らしてもらいます」

 

 しのぶと斎鬼は、その唐突な発言を理解できず、一瞬の間が生まれた。

 

「……断る」

 

 あきれた表情に、わずかな自嘲を含ませながら、斎鬼が答える。

 

「俺にそんな資格はない」

 

「あら、これはお願いじゃなくて、命令です」

 

 カナエは、にっこりと笑う。だが、その瞳はどこまでも真剣だった。

 

「私を助けた責任、ちゃんと取ってくださいね」

 

 有無を言わさぬ、しかしどこまでも優しいその響きに、斎鬼は言葉を失う。

 

「姉さん!」

 

 しのぶが抗議の声を上げるが、カナエは微笑みながら静かに首を振った。その意志が固いことを悟り、しのぶは悔しそうに唇を噛む。

 産屋敷邸へと向かうため背を向けた斎鬼の背中に、しのぶが小さな声で言った。

 

「……姉さんを、がっかりさせないでくださいね」

 

「分かってる」

 

 斎鬼は、振り返らずに答えた。

 その返事を聞き届けたしのぶは、覚悟を決めたように隠たちに命じる。

 

「……連れていってください」

 

 しのぶの声には、姉への信頼と、ぬぐいきれない鬼への不信、そして、これから始まるであろう過酷な運命への複雑な響きが込められていた。

 斎鬼は隠たちに促され、月光が照らす地上へと歩き出す。

 運命が待つ、決戦の場へと向かうために。

 




キャラクターが勝手に動き出す…。
プロットが崩壊していく…。
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