境界の斎鬼   作:eebbi

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風と罪の円舞

 嵐の前の静けさ。

 産屋敷邸には、庭に焚かれた篝火の爆ぜる音だけが響いている。その揺らめく炎は、集結した柱たちの横顔に深い影を落とし、常ならば穏やかなはずの庭を、厳粛な儀式の舞台へと変えていた。

 

 不死川実弥は、その中心に静かに足を踏み入れた。

 肌を撫でる夜風が、やけに生温かい。それは血の匂いを予感させ、彼の全身の細胞を戦闘のそれへと変質させていく。目の前に立つ、一体の鬼。その存在そのものが、不死川にとっては冒涜だった。

 

 虫唾が走る。

 鬼が、日輪刀を握る。それだけで、腹の底から黒い怒りがせり上がってくる。その刀は、数えきれないほどの仲間たちが、血反吐を吐き、命を散らしながら繋いできた、人間の尊厳そのものだ。化け物が、汚れた手で触れていいものではない。

 

 まして、あの胡蝶カナエがこの鬼を庇った。その事実が、彼の怒りに油を注ぐ。彼女は優しすぎた。その優しさが、鬼という存在の前でどれほど無力で、危険なものであるか、忘れたとでもいうのか。

 

「始め」

 

 耀哉の静かな声が、不死川の思考を断ち切る。

 その瞬間、すでに体は動き出していた。

 

「風の呼吸、壱ノ型・塵旋風・削ぎ!」

 

 獣の咆哮。それは、不死川自身の魂の叫びだった。地を抉るようにして巻き起こる緑色の斬撃は、もはや剣技というよりも、天災そのものに近い。この一撃を前にして、これまで幾体もの鬼が、反応すらできずに塵へと還っていった。鬼に相応しい、惨めな死。それを、この気に食わない化け物にも与えてやる。

 

 だが。

 甲高い金属音が、夜の静寂を切り裂いた。

 信じがたいことに、鬼は、その神速の一撃を己の日輪刀で受け止めていた。

 

「てめェ……!」

 

 驚愕は、すぐに純粋な殺意へと変わる。不死川は間髪入れずに刃を返し、嵐のような連撃を繰り出した。

 

「肆ノ型・昇上砂塵嵐!」

「弐ノ型・爪々・科戸風!」

 

 下から、横から、縦横無尽に繰り出される風の刃。その全てが、鬼の体を細切れにせんと襲いかかる。確かに、着実に、傷は与えていた。

 しかし、その尽くが紙一重でいなされ、致命傷には至らない。

 

 刃を交えるたびに大きくなる違和感。

 この鬼の動きは、ただの反射や、鬼の持つ異能の類ではない。一太刀、一太刀に、明確な意図が宿っている。こちらの刃の威力、速度、軌道の全てを理解し、その上で最小限の動きで受け止めるという、極めて高度な技術だった。

 そしてその違和感は、すぐに確信と、それ以上の苛立ちへと変わった。

 

 ――この足運び……この手首の返し……!

 

 鬼が振るう刃の、その僅かな所作の端々に見覚えのある気配が滲む。

 胡蝶カナエが振るう、『花の呼吸』の流麗な型。

 なぜ。なぜ、この化け物の剣に、彼女の影が見える。

 

 それは一夜漬けで身につくものではない。長い時間をかけ、互いの呼吸を読み、信頼を重ねなければ、決して辿り着けない領域の剣だ。カナエは、本気でこの鬼を信じ、共に鍛錬を積んでいたというのか。

 その考えに至った瞬間、不死川の頭の中で何かが焼き切れた。

 

「ふざけるんじゃねぇぞォッ!!」

 

 攻撃が、さらに苛烈さを増す。もはや技の名を叫ぶ余裕すらない。思考よりも早く、本能のままに刃を振るう。技の精度は落ち、動きは荒々しくなる。だが、一撃に込められた憎悪の質量は、先程までの比ではなかった。

 それでも、鬼は崩れない。

 それどころか、斬り合えば斬り合うほど、不死川は、その鬼の瞳の奥に、無視できないものを見てしまっていた。

 

 自分と、同じ色をした炎。深く、冷たく、決して消えることのない、憎悪の炎。

 だがそれは、刃を交える自分には向いていなかった。その視線は、自分の体を透かし、その向こうにいる、全ての元凶を見据えている。

 

 ――鬼舞辻無惨。

 

 その名を、不死川は鬼の瞳の奥に確かに読み取った。

 それだけではない。憎悪の奥底に澱のように沈殿する、深い自己嫌悪。犯した罪に苛まれ、自らを許せずにいる者の、苦悩の色。

 

 こんな鬼と、俺は違う。そう己に言い聞かせなければ、立っていられなかった。鬼は、ただ人を喰らうだけの、思考のない獣だ。そうでなければならない。そうでなければ、あの夜、母を手にかけた自分の行いは、一体何だったというのだ。

 

 鬼は悪であるという、自らの血で塗り固めた絶対的な信念。

 目の前の鬼が抱える、おぞましいほどの共通項。

 信じるべき仲間であるカナエが、この鬼に寄せた信頼。

 信じてはならない敵であるはずの鬼が、自分と同じ覚悟を宿しているという、悍ましい事実。

 

 その全てが、不死川の中で激しく衝突し、彼の精神を軋ませ、砕いていく。

 こんなものは全部、鬼が弄する欺瞞だ。そうだ、こいつは、俺たちを油断させるために、人間の振りをしているだけだ。化け物の本性を、暴き出してやる。

 

 ――そうでなければ、自分の信じてきた正義が、世界が、崩れてしまう。

 

 不死川は、この耐え難い葛藤に終止符を打つため、そして、鬼の『本性』を白日の下に晒すための、最後の切り札を切った。

 

「所詮、鬼は鬼なんだよォ!これならどうだァ!」

 

 獣の咆哮と共に、不死川は自らの日輪刀を、己の腕に深々と突き立てた。

 

***

 

 不死川の腕から迸った鮮血が、篝火の光を浴びて、禍々しいほどに赤く煌めいた。

 

 ――稀血。

 

 その、鬼の理性を根こそぎ焼き切る甘美な香りが、夜風に乗って庭全体に満ちていく。胡蝶カナエは、車椅子の肘掛けを握る己の拳が、血が滲むほどに白くなっていることに気づいていた。

 

 それは、あまりにも残酷な一手だった。鬼の醜い本性を暴き出すためならば、自らの血肉を餌とすることさえ厭わない。彼の魂に刻まれた、鬼への憎しみの深さ。それが、痛いほどに伝わってくる。

 

 そして、その憎悪の矛先が、自分が信じた彼へと向けられている。

 

 ――ごめんなさい。私があなたを、この地獄に引きずり込んでしまった。

 

 悔しさと何もできない無力感が、カナエの胸を締め付ける。ただ、彼がこの試練を乗り越えてくれると、信じることしかできない。

 

 だが、カナエの目に映る他の柱たちの表情は、試合開始前とは明らかに異なっていた。

 

 音柱、宇髄天元は、面白い見世物でも見るかのような不遜な態度を崩してはいない。だが、その口元に浮かぶのは、純粋な感嘆の笑み。そこには、想像を超えたものに対する興味が滲んでいた。

 

 カナエの視線の先で、悲鳴嶼行冥は、ただ静かに数珠を爪弾き、涙を流し続けていた。その姿は、試合の行く末を案じているようには見えなかった。まるで、その視力を失ったはずの両目で、この場で起きていることの、もっと深い根源を――憎悪と罪、二つのあまりに哀しい魂がぶつかり合う音を、ただ一人聞いているかのようだった。

 

 柱たちの間に流れる、戸惑いとほんのわずかな敬意が入り混じった、奇妙な沈黙。

 カナエは悟った。彼は。その剣と覚悟だけで、この鬼殺隊最強の剣士たちの心を確かに揺さぶり始めているのだと。

 

***

 

 地獄が口を開けた。

 

 不死川の稀血の香りは、もはや単なる匂いではなかった。それは、魂に直接絡みつき、思考を麻痺させる甘美な毒の霧。斎鬼の全身の細胞が、何年も忘れていた歓喜に打ち震え、喉の奥から焼けつくような渇望がせり上がってくる。

 

 ――喰らえ。

 

 脳の芯で、声が響く。

 

 ――喰らえ。喰らえば、この苦しみから解放される。力が満ちる。楽になれる。

 

 一瞬、斎鬼の瞳孔が、理性の箍が外れた獣のように大きく開いた。日輪刀を握る指が、地面を掻きむしりたい衝動に駆られ、みしりと音を立てる。

 その本能が理性を喰い破ろうとした、その瞬間。

 

 不死川の剥き出しの憎悪と、その奥底に渦巻く絶望的なまでの悲しみが、斎鬼の血鬼術の新たな扉を、無慈悲にこじ開けた。

 

 凄まじい衝撃。脳髄に直接杭を打ち込まれたかのような激痛。他人の絶望が、自らの血管を逆流してくる錯覚。斎鬼の脳内に、断片的な映像と強烈な感情の濁流が流れ込み、彼の精神を内側から引き裂いていく。

 

 ――暗い部屋。優しい笑顔で自分を撫でる、母の手。大好きだった、母の匂い。

 ――その母の顔が、醜い鬼へと変貌していく恐怖。

 ――血塗れの畳。弟妹たちの、最後の顔。

 ――鬼と化した母の頸に、刃を突き立てる瞬間の、引き裂かれるような絶望。

 ――唯一生き残った弟に、『人殺し』と拒絶された、凍てつくような孤独。

 

 不死川の記憶が、濁流となってなだれ込んでくる。母を手にかけた刃の、肉を断つおぞましい感触。弟から拒絶された時の、己の世界が崩壊していく胸の痛み。その全てが、自らが家族を喰い殺したあの夜の光景と重なり、喉の奥から鉄錆の味がせり上がってくるようだった。

 血への渇望と、流れ込んでくる不死川の痛み。二つの地獄の狭間で、斎鬼はついに膝をつき、苦悶に身をよじった。

 

 もう、駄目だ。

 そう全てを投げ出しかけた、その時。

 ふと、霞む視界の先に、一つの光景が映った。

 

 涙を流しながらも、一切の疑いも憐れみもなく、ただ真っ直ぐに自分を見つめる、カナエの姿。

 その瞳は、言葉よりも雄弁に告げていた。

 

 ――あなたなら、勝てる。

 

 絶対的な信頼。その光が、斎鬼の内側で荒れ狂う地獄を静かに貫いた。

 

 腹の底から、熱い何かが込み上げてくる。

 この化け物を信じてくれた、彼女の想い。鬼も人も等しく救われる、彼女が夢見た世界。その未来を、この呪われた手で証明する。俺はそのためにここに立ったんだ。願いの重みが、彼の魂をつなぎとめる。

 

 ゆっくりと、斎鬼が立ち上がった。その瞳には、もはや獣の飢えも憎悪の炎もなかった。そこにあるのは、不死川の痛みを理解してしまった者の、深く、静かな慈悲と哀しみの色だった。

 

 立ち上がった鬼のあまりにも人間的な瞳の変化に、不死川は思わず後ずさっていた。

 

「……てめェは、一体何なんだよォ!」

 

 絞り出すような声で、不死川が問う。斎鬼は静かに口を開いた。

 

「殺したいのだろう。すべての鬼を。鬼舞辻無惨を」

 

 確固たる覚悟を湛えた瞳が、不死川を射抜く。

 

「俺は、お前の痛みを受け止めているだけだ」

 

 その言葉を最後まで聞く前に、不死川は吼えていた。

 理解を拒絶する絶叫。不死川の憎しみは、もはや純粋な怒りではない。自らの心の奥底を、最も憎むべき鬼に理解されてしまったという屈辱と恐怖。それが、彼の理性を完全に破壊し、悲しみを伴う慟哭へと姿を変えた。

 

 不死川の全身から、これまでとは比較にならないほどの闘気が、暴風となって吹き荒れた。

 

***

 

 空気が悲鳴を上げている。

 不死川実弥という男が、その半生で積み上げてきた全ての憎悪、悲哀、そして守れなかった者たちへの慟哭。その全てが、一振りの日輪刀に収斂していく。庭の砂利が、木々の葉が、闘気だけで巻き上げられ、彼の周囲に緑色の渦を巻く。

 

「風の呼吸――」

 

 見慣れた構え。風の呼吸を使うものなら、誰もが扱う基本の技。しかし、不死川実弥という一人の人間の魂そのものを刃と変えるその一撃は、並の使い手とは隔絶した威力を生み出す。

 

「壱ノ型、塵旋風・削ぎ」

 

 放たれたそれは、もはや斬撃ではなかった。

 空間そのものを削り取るかのような、絶対的な破壊の嵐。無数の、目に見えぬほどの風の刃が全てを蹂躙し、斎鬼へと殺到する。

 冨岡が割って入ろうとしている。斎鬼が、それを視線で制止した。

 

 斎鬼には、もはや逃げる選択肢などなかった。

 日輪刀を中段に構え、深く、静かに息を吸う。その瞳に恐怖はない。ただ、目の前の男が放つ魂の叫びの全てを受け止めるという、覚悟だけが宿っている。

 

 ――来い。

 

 お前の悲しみも、憎しみも、その全てを、この身で受け止める。それが、お前と同じ痛みを抱えながら、その元凶となった俺にできる唯一の償い。

 

 斎鬼の全身の筋肉が、おぞましいほどに隆起する。鬼の再生能力、カナエから学んだ呼吸法、父から受け継いだ胆力、そして、自らの罪と向き合い続けた精神。その全てを、ただ一点、この嵐を受けきるという、その行為だけに注ぎ込む。

 

 地鳴りのような轟音と共に、風の嵐が斎鬼の体を呑み込んだ。

 皮膚を裂くという生易しいものではない。風の刃が触れた箇所から、存在そのものが空間ごと抉り取られていくような、絶望的な喪失感。

 

 左腕が肉片となって吹き飛んだ。失われたはずの指先が、神経の末端で幻のように疼き、激痛の信号を脳に送りつけてくる。右足が抉られ、体勢が崩れる。だが、彼は倒れない。

 

 彼の剣は、もはや防御のためには振るわれていなかった。嵐の中で、わずかに生まれる力の渦の中心を正確に見極め、刃を突き立てることで自らの体が吹き飛ばされるのを防いでいる。傷つき、再生し、また傷つく。その無限にも思える地獄の円舞を、彼はただ、静かに耐え続けていた。

 

「……なんだ、ありゃ」

 

 宇髄が、言葉を失くしたように呟く。

 

「再生が、破壊を上回っているわけじゃねぇ。…あいつ、根性だけであの嵐の中に立っていやがる」

 

 悲鳴嶼の声が、嵐の轟音の中でも、静かに、しかし確かに響いた。

 

「もはや、これは武の領域にはあらず。…互いの悲しみを刃に乗せた、魂の慟哭そのものだ」

 

 カナエは、もはや声も出せず、呆然とその光景を見つめていた。斎鬼の体が切り刻まれるたびに、自らの心が引き裂かれるような痛みが走る。だが、彼の瞳から決して覚悟の色が消えないことを、彼女だけははっきりと見て取っていた。

 

 やがて、永遠にも思えた嵐が、ふっと凪いだ。

 残されたのは、無残に抉られた庭と、肩で息をする不死川実弥の姿。

 

 そして、その先に。

 彼は、血に塗れながらも、確かに立っていたのだ。

 左腕は辛うじて人の形を取り戻したが、全身は血に濡れ、服はぼろぼろに裂けている。だが、その両足は大地に根を張るように立ち、その手には日輪刀が固く握られ、その瞳は静かに不死川を捉えていた。

 

「……なぜ……」

 

 不死川の口から、絞り出すような声が漏れた。

 

「なぜ、まだ立っていられる……」

 

 憎しみの全てをぶつけた。魂の全てを込めた。それでもなお、折れなかった鬼を前に、彼の心は空になっていた。

 振り上げた刃を、もはや振り下ろすことはできない。

 

 その張り詰めた糸が切れかけた、その時。大地を震わすような、厳かな声が響いた。

 

「――やめい」

 

 声の主は、岩柱・悲鳴嶼行冥だった。彼は、いつの間にか立ち上がり、その巨大な体で二人の間に割って入るように立っていた。

 

***

 

 悲鳴嶼は、静かに、しかし庭の隅々まで響き渡る声で、全ての柱に問うた。

 

「裁定は下された。この鬼は、その身をもって覚悟を示した。…これでもなお、この鬼を斬ると言う者はいるか」

 

 誰も答えない。

 庭に満ちるのは、篝火が爆ぜる音と、風の音だけだった。

 

 斎鬼は、ふらつきながらも耀哉に向き直ると、その場に片膝をついた。

 

「俺の敵はただ一人、鬼舞辻無惨。その目的のためならば、俺はこの命、いつでも差し出す覚悟です」

 

 その言葉に、耀哉は満足そうに、そしてどこか哀しそうに微笑んだ。

 

「……ありがとう、斎鬼。君の覚悟、確かに受け取ったよ」

 

 そして、静かに手を叩いた。

 

「皆、聞いての通りだ。鬼殺隊は、これより斎鬼を正式な隊士として迎え入れる」

 

 一瞬の間があき、御意と返事が聞こえる。

 それは、鬼殺隊の数百年にも及ぶ歴史が、静かに、しかし確かに、新たな一歩を踏み出した瞬間だった。

 

***

 

「これで解散としようか。彼を治療してあげて」

 

 耀哉の静かな声が、張り詰めた夜気の中に一つの決着を告げる。その言葉を合図に、柱たちの間に縛り付けられていた見えざる糸が、ぷつりと切れた。

 

 柱たちが、一人、また一人と闇の中へ姿を消していく。

 永遠とも思えた戦いが終わった。カナエは、血が滲んだ自身の手を見つめていた。

 不死川は、その背に憎悪でも怒りでもない、魂が抜け殻になったかのような虚無をまとわせて、よろめくように去っていった。その痛々しい後ろ姿を、カナエはただ黙って見送る。彼が抱える傷の深さを、誰が責められようか。

 

 だが、彼女の視線はすぐに、庭の中央へと吸い寄せられた。隠たちが、恐る恐る一体の鬼へと近づいていく。

 

 斎鬼。その名は、今やカナエの心臓に深く突き刺さった、甘い棘のようだった。 服は見る影もなく裂け、そこから覗く皮膚は、怪我のない箇所を探す方が難しい。血が滲み、土に汚れ、まるで打ち捨てられた古着のようだ。右足はあらぬ方向に折れ曲がり、辛うじて人の形を取り戻した左腕は生まれたての赤子のように頼りなく震えている。気力だけで保っていたのだろう。意識はとうに失われていた。

 

 可能なら、今すぐにでも駆け寄りたかった。その傷に触れ、薬を塗り、包帯を巻いてやりたい。その衝動を、カナエは奥歯を噛み締めて殺した。私にはまだやるべきことがある。彼が安心してその身を休められる場所を、この手で確保するまでは。

 

 気づけば、産屋敷邸にはカナエだけが残されていた。夜風が、藤の花の甘い香りを運んでくる。

 

「お館様」

 

 車椅子を軋ませ、カナエは進み出た。その声は、病み上がりの体からは想像もできぬほど、澄んで響いた。

 

「ありがとうございました。彼が生きていてくれて、良かった……」

 

 感謝を告げる。安堵と、胸の奥から込み上げる熱い喜び。紛れもない本音だった。鬼も人も救われる世界という己の儚い夢のために、彼の命が散ることを、心の底から恐れていた。

 

 耀哉は、夜闇の中でも分かるほど穏やかな笑みを浮かべ、静かに答える。

 

「その言葉は、しのぶに伝えてあげなさい」

 

 その一言に、カナエは息を呑んだ。一連の出来事を、お館様は全てお見通しだったのか。驚きに揺れる心を悟られぬよう、なんとか言葉を絞り出した。

 

「…はい。それで、彼の今後について、一つお願いがございます」

 

「うん。斎鬼は、蝶屋敷に住まわせることにしよう」

 

 カナエの言葉を遮るように、耀哉は言った。まるで、彼女が何を言うか、初めから全て分かっていたかのように。用意していたはずの、幾重にも理屈を重ねた進言が、全て意味をなさなくなる。

 

「え……?」

 

「何か不都合があったかな?」

 

 その問いに、カナエは慌てて首を振った。

 

「い、いえ!滅相もございません!」

 

「それは良かった。彼のことは任せたよ、カナエ」

 

「は、はい!」

 

 力強く頷いたその声は、自分でも驚くほど、喜びに震えていた。失われかけた未来に再び訪れた、かけがえのない日々の予感に、胸が震えるようだった。

 

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