境界の斎鬼   作:eebbi

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新しい住人

 夜の底に沈む、蝶屋敷。

 

 聞こえるのは廊下を渡る風の音と、障子に落ちる月影だけ。その静寂のただ中で、胡蝶カナエは眠る男の傍らに座っていた。彼女の両手が、その傷だらけの手をそっと包み込んでいる。

 指先に伝わるのは、生きているとは思えぬほどの氷の冷たさ。

 耳を澄ませば、風に揺れる蜘蛛の糸のように頼りない呼吸が聞こえる。そのか細い音が途切れるたびに、カナエの心臓は小さく凍りついた。このまま闇に溶けて消えてしまいそうな彼を繋ぎ止めるように、無意識に握る手に力がこもる。

 

「ごめんなさい……」

 

 吐息に混じる謝罪は、誰に向けたものなのか。私が、あなたをこんな目に。

 

 その寝顔に、初めて会ったあの夜の、全てを諦めたような『悲しい目』が重なる。あの瞳の奥で燻っていた、獣になることを拒絶するかのような、ちいさな熾火。その光から、カナエはもう目を逸らすことができなかった。

 気づけば、あの社で稽古を重ね、言葉を交わしていた。不器用な言葉の端々から知った、彼が抱える罪の重さ。そして、自分の言葉に初めて見せた、あのぎこちない笑み。

 

 あの瞬間、彼女の目に映っていたのは、もう『異質な鬼』ではなかった。自らの過去に苛まれ、それでも前を向こうと足掻いている『正治』という、孤独で、優しい魂だった。

 

 ――友達になろう!

 衝動的に飛び出したあの言葉を思い出すと、カナエの頬が微かに熱を帯びる。この手を温めたいと願うことが、一体でも多くの鬼を倒すと誓った、たった一人の妹への裏切りになるのだろうか。

 

 答えは、出ないままだった。

 違う。本当は、もうとうの昔に、答えなど出てしまっていたのかもしれない。

 

 あの夜。絶対的な死を前に、意識が白く染まっていく中で。駆けつけてくれた彼の背中だけが、世界で唯一の色を持っていた。

 頭の片隅で、守るべきはずのしのぶの顔が、仲間たちの顔が霞んでいく。カナエの全てが叫んでいた。『この人を失いたくない』と。

 

 それは感謝でも、柱としての責任感でもない。もっとずっと身勝手で、心の奥底から絞り出すような、ただの祈り。あの瞬間だけは、自分の命よりも、しのぶのことよりも、彼の無事だけを狂おしいほどに願ってしまっている自分に、気づいてしまったのだ。

 

「友達、なんて……ずるいわよね、私」

 

 しのぶとの約束に背いてでも、この氷の手を温めたいと願ってしまったのだから

 カナエは、包んでいた斎鬼の手に、そっと自分の額を寄せる。どうか、私の体温が、あなたの氷を溶かしてくれますように。どうか、この生きている熱が、少しでもあなたに流れ込みますように。

 

「だから、お願い……」

 

祈りが、唇からこぼれる。

 

「目を覚まして……斎鬼くん」

 

 彼女の瞳から溢れた一粒の涙が、斎鬼の傷だらけの手に静かに落ちた。

 まるで、枯れかけた花に宿った、最後の夜露のように。

 この罪深い祈りが、どうかあなたの命を繋ぐ雫になりますようにと、カナエはただ、願い続けた

 

***

 

 斎鬼が次に意識を取り戻したのは、見知らぬ天井の下だった。

 

 鼻腔をくすぐるのは、薬草を煎じる匂いと、消毒液の持つ清潔で無機質な香り。そして、その奥に微かに、しかし決して紛れることのない、藤の花の芳香が漂っていた。鬼の細胞が本能的に拒絶するその香りは、しかし不思議と彼の神経を苛立たせることはなかった。むしろ、それは一種の結界のように、穏やかな静寂をこの空間にもたらしている。

 

 蝶屋敷。過ごした時間は短いが、奇妙なほど、心が凪いでいく場所だった。

 

「……生き残ったか」

 

 ぽつりと、乾いた唇から言葉が漏れた。 身じろぎをすると、全身の筋肉が軋みを上げて悲鳴を上げた。特に、一度は肉片と化して吹き飛んだ左腕の付け根と、抉られた右足が鈍く、重い痛みを訴え続けている。傷は塞がっている。だが、それは表面上のことであり、失われた血肉が完全に再生するには、まだ途方もない時間を要するだろう。

 

 ――万全な状態など、鬼になってから一度もなかったか。

 

 自嘲が乾いた喉の奥から込み上げてくる。思考を断ち切るように、障子の向こうに立った人影が静かに口を開く。

 

「……生き残ったんですね。私としては、どちらでも良かったんですが」

 

 あの五日間ですっかり聞き慣れた、温度のない声。胡蝶しのぶだ。ため息が聞こえた。呆れと、ほんのわずかな安堵が混じったような複雑な響き。

 

「治療は後にしましょう。今私がここに来たことは、姉さんには絶対に言わないように」

 

「……どういうことだ?」

 

 ふたたびのため息。

 

「黙って従ってください。あなたのためではなく、姉さんのためにです」

 

 それだけを言い残し、しのぶは足音も立てずに去っていった。 意味が分からず入り口を眺めていると、やがて遠くから、コツ、コツ、と木の床を規則正しく叩く音が近づいてくる。杖の音だ。はたして、入口に現れたのは、杖を頼りに一歩一歩確かめるように歩を進めるカナエだった。その姿を認めた瞬間、二人の視線が、長い時間の空白を飛び越えて交差した。

 

「……斎鬼、くん?」

 

 目の前の光景が信じられないとでも言うように、カナエの目が大きく見開かれた。焦ったようにカナエがベッドに向かう。次の瞬間、カラン、と乾いた音が床に響いた。彼女の手から滑り落ちた杖が、静寂を切り裂く。支えを失ったカナエの体が前のめりに崩れた。それはもはや、柱としての洗練された動きではなかった。焦がれた相手の元へ、一刻も早く辿り着かんとする、ただの一人の人間の姿だった。

 咄嗟に、体が痛むことも忘れその体を受け止める。

 

「目が覚めたのね……!良かった……!」

 

 斎鬼の腕の中で、彼女は声を震わせた。その肩は小さく波打ち、瞳からは大粒の雫が止めどなく溢れ、斎鬼の袖口に染みを作っていく。

 

 この十日間、カナエは地獄を生きていた。斎鬼が蝶屋敷に運び込まれてからというもの、彼の意識は闇の底に沈んだままだった。鬼の再生能力が働き傷は治ったはずなのに、呼吸は糸のように細く、時折痙攣するように体を震わせるだけ。

 

 しのぶは、これ以上は人間の医療では手の施しようがないと、とうに匙を投げていた。 カナエは、ただ祈ることしかできなかった。夜も昼も彼の傍らを離れず、冷たくなっていくその手を握りしめ、己の体温を分け与えるように、ただひたすらに。

 

「本当に、良かった……」

 

 嗚咽に混じって、彼女の唇から安堵の息が漏れる。その涙が、斎鬼の手にぽつりと落ちた。彼が鬼になってから、初めて感じる純粋な温もりだった。

 

 どれだけの時間そうしていただろうか。ようやく涙が引いたカナエは、恥ずかしそうに目元を拭い、それでも離れがたいとでも言うように彼の寝台の傍らに座り込んだ。

 静寂が二人を包む。

 

「……なぜ、あんなことを」

 

 先に口を開いたのは斎鬼だった。その声は、長く使っていなかったせいか、ひどく掠れていた。

 

「しのぶのことだ。なぜ、俺を助けるような真似をさせた」

 

 その言葉は、カナエには鋭利な刃のように感じられた。彼女の肩がほんのわずかに強張る。思わず、顔を伏せた。

 

「…すまない、強く言い過ぎた」

 

 やわらかい声色だ。カナエはゆっくりと顔を上げた。先ほどの責めるような言葉とは裏腹に、その瞳に浮かぶのは、妹を気遣う、不器用で行き場のない優しさだ。この人は、ついさっきまで死にかけていた自分のことよりも、妹のことを心配している。ふっとカナエの唇から小さな息が漏れ、険しかった雰囲気が和らぐ。

 

「……私が頼んだわけじゃないわ」

 

 彼の目を真っ直ぐに見つめ返し、静かに首を振った。

 

「あの子が、そうしたいと思ったからよ」

 

 その言葉を最後に、今度は穏やかな静寂が部屋を満たした。カナエは、彼の手に触れていた己の指を、そっと離そうとして、やめた。まだ、温もりが足りない気がした。氷のように冷たかった彼の肌に、ようやく僅かな熱が戻ってきている。その事実が、悪夢のような日々からの解放を告げていた。

 

***

 

 意識が戻って数日が過ぎた。斎鬼の体は未だ本調子ではなかったが、蝶屋敷に流れる奇妙に穏やかな時間。その日も、カナエが小さな土鍋を手に、彼の病室へとやってきた。

 

「食欲、ないわよね?でも、何か口にしないと。しのぶに頼んで、体に優しいお粥を作ってもらったの」

 

 斎鬼は戸惑った。鬼である自分は、人間の食べ物を美味いとは感じない。食べても意味がないと、断るべきだろうか。しかし、心から心配しているカナエの花が綻ぶような笑顔を前にすると、言葉に詰まった。

 

 仕方なく、差し出された匙を黙って口に運ぶ。案の定、味はしない。まるで湿った砂を噛んでいるような感覚だった。

 カナエは、そんな様子を楽しそうに眺めている。味がしない食事。しかし、胸の奥に暖かを感じていた。

 

 その時、薬湯の盆を手にしたしのぶが、すっと部屋に入ってきた。姉と鬼が織りなす妙な光景を見て、ピタリと足を止める。

 

「姉さん、また…。鬼に人間の食べ物を与えても、栄養にはならないわ。無意味よ」

 

 しのぶの冷静で、どこか棘のある指摘に、カナエは「で、でも、気持ちの問題よ!」と少し頬を膨らませた。斎鬼は、姉妹の間に流れる気まずい空気の中で、次の匙を口に運ぶべきか、それとも置くべきか判断がつかず、完全に動きを止めてしまう。

 

「…無意味では、ない。多少、腹は膨れる」

 

「そ、そうよね!」

 

 そんな二人を見て、しのぶは一つ、大きなため息をついた。

 

「本当にもう…。あなたも、姉さんを困らせないでください。食べたくないなら、そうはっきり言えばいいでしょう」

 

 その言葉は、斎鬼にとって、責められているようでもあり、同時にこの膠着した状況から救い出してくれる天啓のようでもあった。

 

***

 

 その夜、カナエは再び斎鬼の病室を訪れた。昼間の賑やかさが嘘のように、月明かりだけが静かに部屋を照らしている。

 

 彼女は、彼の傷だらけの横顔を見つめた。不死川の稀血が庭に撒かれたあの瞬間の光景が蘇る。鬼の本能を根こそぎ揺さぶり、理性を焼き尽くす甘美な毒。あの匂いを前にして、正気でいられる鬼などいるはずがない。

 カナエの瞳に、昼間とは違う、どこか遠くを見るような不安の色が浮かんでいることに、斎鬼は気づいた。

 

「……どうした?」

 

 掠れた声で、彼が問う。その穏やかな声音に、カナエははっとしたように顔を上げた。

 

 あの時感じた恐怖。彼があの血に屈し、憎しみの化身と成り果ててしまうのではないかという恐怖。そうなれば自分は、この手で彼を斬らなければならなかった。その想像だけで、呼吸が浅くなる。

 

「……怖かったの」

 

 か細い声が、静寂に溶けた。

 

「あの日あなたが、あなたでなくなってしまうんじゃないかって。不死川くんの血は、ただの鬼なら到底抗えるものじゃないはずだから。……どうしてあなたは、あなたのままでいられたの?」

 

 ただ、安堵の奥から生まれた、純粋な問いだった。なぜ私の信じたあなたは、あの壮絶な戦いの中、独り踏みとどまることができたのか。その理由を知りたかった。

 

 その問いに、斎鬼はふいと顔を背けた。傷だらけの横顔に、自嘲とも困惑ともつかない、複雑な色が浮かぶ。

 

「……お前の夢だ」

 

 ぽつりと、彼は呟いた。

 

「鬼も人も救われる世界……。あの儚い夢を、ここで終わらせるわけにはいかない。それが夢物語でないと証明するために、あの場に立ったんだと、そう思っただけだ」

 

 意識が遠のき、本能と苦痛が理性を喰い尽くそうとした極限状態で、カナエの涙を見たあの時。脳裏に浮かんだのは、あの夜の古びた社で見た、あまりに無防備で、眩しい笑顔だった。この夢が潰える様を、彼女が絶望する顔を見たくない。ただそれだけが、彼を獣の瀬戸際で引き留めた唯一の楔だった。

 

「……俺が今ここに居るのは、カナエのおかげだ」

 

 表情を見せぬように紡いだ言葉が、今の彼の精一杯。それでも、カナエにとってはそれで十分だった。芯にある暖かさを隠すようなその声が、もう二度と聞けないかもしれない。数日前まで頭を支配していたその恐怖は、とうに消え去っていた。

 彼女の唇に、花が綻ぶような柔らかな笑みが浮かぶ。

 

「そう…。私の夢が、あなたを守ってくれたのね」

 

 その声は少しだけ掠れていたが、どこまでも柔らかかった。

 

「私は、何もできなかった。ただあなたを信じて、祈ることしか。あなたが、自分の罪と向き合う覚悟を決めた一人の人だってことだけを、ひたすら信じてた」

 

 彼女もまた、地獄の中にいたのだ。彼が不死川の刃の前に晒されているその最中、その魂が憎悪の嵐に呑まれぬよう、ただひたすらに祈り続けていた。

 

 二人の間に流れる、どこか心地よい静寂。

 言葉はとうに意味を失っていた。互いの瞳は、ただ静かに見つめ合う硝子玉。その硝子の奥底に、二人は同じひび割れを見ていた。鬼と人という隔たりを越え、一つの苛烈な運命が刻みつけた、消えぬ亀裂。それは慰めでも憐憫でもなく、ただ己と同じ傷を持つ硝子だけが放つ、かそけき光の交錯であった。

 

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