境界の斎鬼   作:eebbi

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同族狩り

 あの日から、数えきれないほどの夜が過ぎていた。

 

 その時間のほとんどは、肉体を内側から焼き尽くすかのような飢餓感との戦いに費やされた。喉の奥にこびりつく渇きは、血を求めろと魂を揺さぶり、胃腑は鉄の爪で掻き毟られるように絶えず痛みを訴え続ける。人間であった頃の記憶を取り戻した彼にとって、その苦しみは自らが犯した罪の重さと同義だった。

 

 最初の狩りは、狩りと呼ぶにはあまりに拙く、泥臭いものだった。ただ、生き永らえるために、獣のように同族に喰らいついただけの生存闘争。再生能力だけを頼りに、返り討ちに遭い、何度も死の淵を彷徨った。

 

 だが、その地獄のような日々の中で、彼の奥底に眠っていたものが呼び覚まされる。それは、猟師であった父から叩き込まれた、獲物と向き合うための知恵と覚悟だった。風下に立ち、気配を殺し、地形を読む。相手の習性を知り、その一瞬の隙を突く。

 鬼の膂力と再生能力に、人間としての狩人の知恵が融合した時、彼の戦い方は根底から変質した。もはやそれは単なる殺し合いではない。獲物を追い込み、仕留めるための、冷徹で合理的な『猟』そのものだった。

 

 その夜、斎鬼は奥深い山中、かつて鉱山として栄えた廃村にいた。

 ここ数日、この周辺で旅人が姿を消すという話が、風の噂で彼の耳に入っていた。血の臭いはしない。だが、彼の鬼としての直感が、この場所に巣食う同族の存在を告げていた。

 巧妙に気配を隠している。よほど狡猾か、あるいは特殊な血鬼術を持つ鬼か。

 

 斎鬼は、猟師が獣の痕跡を読むように、廃村の空気を読む。朽ち果てた家々、錆びついたトロッコの線路、そして、不自然なまでに静まり返った夜の静寂。父に教わった通り、五感を研ぎ澄ます。風の音、草木の匂い、地面の感触。その全てから、獲物の情報を引き出す。

 

 不意に、彼の足が止まった。

 村の中央に立つ、ひときわ大きな選鉱所の廃墟。そこから、微かに何かが漏れ出ている。それは臭いでも音でもない。彼の血鬼術【凶兆察知】だけが捉えることのできる、淀んだ殺意の気配だった。

 

 斎鬼は音もなく、廃墟の屋根へと跳躍した。崩れかけた屋根の隙間から内部を窺う。――巨大な機械、天井近くに張り巡らされた梁、崖へと続くトロッコの線路。使えるものは多い。

 彼は敵の位置と能力を確認すると同時に、この廃墟全体を一つの巨大な「罠」として捉え、頭の中で獲物を追い込むための道筋を幾通りも描いていた。

 

 中はがらんどうだった。月明かりが差し込み、巨大な機械の残骸が不気味な影を落としている。その中央に、鬼がいた。

 鬼は、老婆の姿をしていた。だが、その背からは何本もの岩のような触手が伸び、蠢いている。そして、その周囲には、まるで石像のように固まったまま動かない、数人の男女の姿があった。旅人だろう。生きているようだが、身じろぎ一つしない。

 

「また迷い込んできたのかい、哀れな子羊が」

 

 老婆の鬼が、顔を上げずに言った。その声は、岩が擦れるような不快な音だった。

 

「この『石華塚(せっかづか)』の美しさがわからないのかい。永遠に変わらぬ姿で、わらわのコレクションになるのが、お前たち人間にとって一番の幸せだろうに」

 

 血鬼術か。触れた人間を石化させる類いの能力らしい。厄介な相手だ。 斎鬼が動く前に、老婆の鬼が続けた。

 

「おや……?お前さん、人間じゃないね。それも、随分と腹を空かせた、みすぼらしい同族じゃないか」

 

 老婆の鬼が、ゆっくりと顔を上げる。その目は、爬虫類のように縦に裂けていた。

 

「噂は聞いているよ、『同族狩り』。まさか、こんな痩せっぽちだったとはねぇ。わたしの縄張りで、一体何の用だい?」

 

 斎鬼は静かに答えることもなく、屋根を突き破って老婆の鬼の眼前に降り立った。ただ、懐の手斧の柄を、冷たく握りしめる。

 

「威勢のいいことだ。だが、お前さんにわたしは殺せないよ」

 

 老婆の鬼が笑うと同時に、背中の触手が意思を持った蛇のように斎鬼に襲いかかった。斎鬼はそれを最小限の動きでかわす。だが、触手が床を叩くと、叩かれた部分の床板が石へと変化した。 やはり、触れたものを石化させる能力か。直接触れられれば、鬼である自分も無事では済まないだろう。再生能力が石化を上回れる保証はない。

 

 斎鬼は距離を取り、手斧を構える。

 

「そんなもので、わらわの体に傷一つつけられるものかい」

「傷をつけるためではない」

 

 斎鬼は手斧を、老婆の鬼ではなく、その背後にある巨大な機械の滑車を支える支柱めがけて投げつけた。甲高い金属音と共に、支柱に亀裂が入る。

 

 老婆の鬼の意識が、一瞬だけそちらへ向いた。それで十分だった。 斎鬼は廃墟の壁を蹴り、天井近くに張り巡らされた梁へと跳躍した。そして、梁から梁へと飛び移りながら、老婆の鬼の頭上を撹乱するように動き回る。

 

「小賢しい!」

 

 老婆の鬼の触手が、無差別に天井を破壊し始める。石化した梁が砕け散り、粉塵が舞い上がった。視界が悪くなる。だが、それこそが斎鬼の狙い通りだった。

 

 猟では、常に獲物の目を眩ませるのが定石だ。父の言葉が蘇る。

 粉塵の中、斎鬼は音もなく老婆の鬼の背後に着地した。そして、その背中に生える触手の付け根に、渾身の手刀を叩き込む。 鈍い衝撃が走り、老婆の鬼の体がくの字に折れ曲がった。その爬虫類のような瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれる。数本の触手が引き千切れるが、すぐに傷は再生を始めた。

 

「無駄だと言っただろう!」

 

 老婆の鬼が振り返りざま、残った触手を薙ぎ払う。斎鬼はそれを紙一重でかわすが、頬に浅い傷が走った。傷口から、じわりと石化が始まる。

 斎鬼は躊躇なく、自らの爪で石化しかけた頬の肉を抉り取った。再生する肉が、石化の侵食を押し返す。

 やはり、再生は可能。だが、これ以上深い傷をもらえば危ない。

 

 東の空が白み始めている。夜明けまで、あとわずか。

 斎鬼は、最後の賭けに出ることにした。

 

 彼は、老婆の鬼から距離を取ると、廃墟の隅にあるトロッコの線路へと走った。線路の先は、崖に向かって途切れている。

 

「逃げるのかい?見損なったよ、『同族狩り』!」

 

 老婆の鬼が、勝利を確信したように触手を伸ばす。

 斎鬼は、線路の上に放置されていたトロッコに飛び乗った。そして、己の足で力強く地面を蹴り、トロッコを崖に向かって滑走させる。

 老婆の鬼が、慌てて後を追う。

 崖の淵が迫る。

 斎鬼は、トロッコから飛び降りる寸前、己の着物の帯を解き、それをトロッコの車軸に結びつけていた。そして、帯のもう一方の端を、線路脇の岩に固く結びつける。

 トロッコは、崖から飛び出した瞬間、帯に引かれて振り子のように崖下へと垂れ下がった。そして、その動きに連動して、斎鬼が最初に手斧で傷つけた、巨大な滑車の支柱が、ついに限界を迎え、轟音と共に崩れ落ちた。

 

 頭上から迫る、絶対的な質量。老婆の鬼は、なすすべもなく鉄塊の下敷きになった。骨が砕け、肉が潰れるおぞましい音が響き渡り、再生もままならない体から、声にならない絶叫が漏れ聞こえた。

 そして無情にも、廃墟の崩れた壁の隙間から、朝日の光が差し込んできた。

 老婆の鬼の体が、足元から塵となって崩れていく。その断末魔と共に、断片的な思念が斎鬼の脳裏に流れ込んできた。『もっと、生きたかった』『なぜ、わたしだけが』――人間だった頃の、老婆の後悔と悲しみ。斎鬼は奥歯を噛み締め、その感情を振り払うように、静かにその場を後にした。

 

 石化されていた旅人たちは、術者が死んだことで呪いが解け、呆然と立ち尽くしている。斎鬼は、彼らに声をかけることも、振り返ることもなかった。 彼の贖罪は、誰にも知られることのない、孤独な戦いなのだから。

 

 廃村を抜け、森の中へと入った斎鬼は、ふと足を止めた。

 風が、微かな香りを運んでくる。

 それは、鬼が最も嫌う、藤の花の香りだった。

 

 ーー鬼狩りか。

 

 いつものように、即座に気配を消して闇に溶けようとした斎鬼は、しかし、わずかに眉をひそめた。妙だ。

 これまでにも、鬼殺隊の剣士の気配を感じたことは幾度となくあった。彼らが放つ気配は、一様に鬼への純粋な憎悪と殺意に満ちていた。だが、今この風が運んでくる香りは、どこか違う。

 

 確かに藤の香りはする。だが、それだけではない。まるで春の陽だまりに咲く花々のように温かい。憎悪の気配が、ほとんどしない。

 

 ーー何者だ?

 

 数年ぶりに抱いた、人間への純粋な興味。斎鬼は一瞬、その香りの主を確かめようかと思ったが、すぐに首を振った。深入りは禁物だ。

 

 彼は、己の好奇心を戒めるように、森のさらに深い闇の中へと姿を消した。

 だが、その夜、鼻腔に残った不思議な花の香りは、彼の心に小さく、しかし確かな波紋を残していった。

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