境界の斎鬼   作:eebbi

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最初の進言

 蝶屋敷の日々は、穏やかさと、死の気配が常に隣り合っている。

 ここ数日、屋敷に運び込まれる隊士たちの間に、奇妙な共通点があることに斎鬼は気づいていた。皆一様に担当区域の北東に位置する『鳴神山』での任務帰りであり、その傷は命に別状はないものの、手足や肩を的確に狙われたもので、戦闘続行を不可能にされていた。

 

「また鳴神山か…」

 

「ああ。相手の姿どころか、攻撃された瞬間すら分からなかったそうだ」

 

「これで四人目だ。命があるだけ儲けものだが、こうも続くと…」

 

 負傷した隊士の手当てを終えた隠たちが、溜息混じりに言葉を交わす。その会話を聞きながら、斎鬼は眉間の皺を深くした。これは、単なる不運や偶然ではない。明確な意図を持った攻撃の痕跡だ。そして、同じ場所で、同じ手口で、隊士たちが無策に傷つけられていく。この非効率な消耗戦こそ、彼が鬼殺隊という組織に感じている最も根深い問題だった。

 

 ――証明しなければならない。

 個々の覚悟や技量に頼るのではなく、情報を分析し、的確な戦術を立てれば、犠牲は減らせるのだと。

 

 斎鬼はこの鳴神山の鬼を、自らの戦術理論を証明するための最初の試金石と定めた。その夜、彼は誰にも告げず、静かに蝶屋敷を抜け出した。

 

***

 

 鳴神山は、その名の通り、天候が荒れやすいことで知られていた。夜の闇は深く、湿った風が木々を揺らす音が、絶えず獣の呻き声のように響いている。険しい山肌を縫うように続く道は狭く、隊士たちが通れるルートは必然的に限られていた。

 

 斎鬼は、猟師が山の呼吸を読むように、全身の感覚を研ぎ澄ませていた。風下に立ち、土の匂いを嗅ぎ、空気の微かな振動を肌で感じる。産屋敷での死闘を経て鋭敏になった彼の血鬼術が、殺意というよりも、もっと静かで執拗な『視線』のようなものを捉えていた。

 

 彼は、隊士たちが襲われたという地点を一つ一つ巡り、地面に残された僅かな痕跡を拾い上げていく。やがて、ある法則性に気づいた。どの襲撃地点も、周囲より窪んだ谷筋や、見通しの悪い岩陰といった、いわば『袋の鼠』になりやすい場所だ。そして、どの地点からも見通せる、巨大な杉の木が聳える崖の中腹があった。

 

 ――巣は、あそこか。

 

 崖を慎重に登り、巨大杉の根本に穿たれた洞を見つけ出す。しかし、彼は踏み込まなかった。洞の入り口で、彼はビー玉ほどの大きさの、奇妙に硬い土塊を拾い上げる。鼻を寄せると、僅かに鬼の匂いがした。血鬼術によって生成された弾丸の残骸だろう。

 

 全ての情報が、脳内で一つの結論を紡ぎ出す。

 あの鬼は、直接戦闘を極力避ける『防衛特化型』だ。血鬼術は、一定範囲内の土や石を自在に硬化させ、弾丸としてどこからでも撃ち出す能力。鬼はあの洞から一歩も動かず、険しい地形で限定された侵入経路を通る獲物を待ち構えている。

 

 試しに、手近な石を谷底に向け強く投げた。しばらくして、周囲に軽い音が響く。その瞬間、落下地点に向けて土塊が発射された。

 

 ――当たりだな。

 

 この鬼は、聴覚と地面の振動で侵入者の位置を正確に把握し、死角から一方的に狙撃することで、己の縄張りを守っている。殺意が低いのは、目的が捕食ではなく、あくまで『排除』だからに他ならない。大方、殺しすぎて柱が出てくるのを嫌がっているのだろう。

 

 斎鬼は音もなくその場を離れた。彼一人で奇襲をかければ、この鬼を滅することは容易いだろう。だが、それでは意味がない。

 

 ――この鬼は、俺の言葉を証明するための、生きた教材だ。

 

***

 

 翌日の昼下がり、斎鬼はカナエの私室の前に立っていた。障子を開けると、薬草の香りと共に、穏やかな時間が流れている。彼は、鳴神山の地図を広げ、カナエに単刀直入に切り出した。

 

「鳴神山の鬼について、話がある」

 

 彼は地図の上に、鬼の潜伏場所、隊士たちが狙われた地点、そして彼らが辿ったであろうルートを、正確に指し示していく。

 

「この鬼は、この崖の洞から動かない。そして、この円で囲った範囲が奴の血鬼術の有効範囲。隊士たちは皆、この円の中で、そして道が狭まるこれらの地点で狙われている」

 

 カナエは、黙って彼の言葉を聞いていた。その分析の緻密さに驚きながらも、彼女の瞳にはまだ、躊躇いの色が浮かんでいる。

 

「なぜ、そこまで断言できるの?血鬼術の範囲まで正確にわかるなんて…。それに、もしそれが本当なら、あなたが直接行って討伐すれば済む話ではないかしら」

 

 その問いを待っていたかのように、斎鬼は初めてカナエの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「俺が倒しても意味がない。この戦術で『普通の隊士』が勝つことに意味がある。これは、今後の鬼殺隊の礎となるはずだ」

 

 彼は、懐からあの硬い土塊を取り出し、カナエの前に置いた。

 

「これが奴の弾丸だ。そして、この円の内側の土や岩には、これと同じ血鬼術の残穢が僅かに残っている。逆に、円の外にはその気配が一切ない。奴は、この『陣地』の中でしか攻撃できないということだ」

 

 それは、憶測ではなく、証拠に基づいた冷徹な分析だった。

 

「おそらくこの鬼は、探知を聴覚と地面の振動に頼っている。だから、二人一組で動く」

 

 地図の上に、二つの駒が置かれる。

 

「一人が陽動として、わざと音を立てて鬼の注意を引きつける。もう一人は、完全に気配を殺し、鬼の攻撃範囲の死角となるこの沢沿いのルートを通って、背後に回り込む。陽動役も、この地図に記した鬼の射線とタイミングさえ理解していれば、岩陰を利用して安全に役目を果たせるはずだ」

 

 それは、鬼の習性と心理を逆手に取った、冷徹で合理的な『猟』だった。斎鬼の言葉の端々から滲み出る、揺るぎない自信。そして、その裏にある真摯な想いを、カナエは感じ取っていた。

 

 考え込むように、静かに目を閉じる。瞼の裏に浮かぶ、鬼に敗れていった名もなき隊士たちの顔。

 

 ――もし、この策が失敗したら。

 私の判断が、彼らを危険に晒すことになる。監督役としての重圧が、恐怖が、彼女の肩にのしかかる。

 

 策に不備はない。この成功がこの先の礎となることも、納得できる。ならば。

 覚悟を決め、目を開く。目の前の男の瞳は、その恐怖ごと受け止めるかのように、静かに彼女を見つめ返していた。

 

「……わかったわ。あなたの策、信じましょう」

 

 カナエは、静かに、しかし力強く頷いた。

 

***

 

 数日後、鳴神山の任務から二人の若手隊士が無事に帰還したという報せは、すぐに蝶屋敷中に広まった。

 しのぶがその隊士の治療を担当した時、彼は興奮冷めやらぬ様子で、涙ながらにカナエへの感謝を口にした。

 

「カナエ様から頂いた古い記録のおかげです!まさか、本当にあんなにもあっさり鬼の頸を斬れるなんて…!」

 

 その言葉に、しのぶの手が止まった。無傷での帰還。あり得ない。これまで運び込まれてきた隊士たちの顔が脳裏をよぎる。何人がやられてきた。この成果は、あまりにも異常だった。

 

「…詳しく聞かせてもらえますか?その『古い記録』とは、どのような?」

 

 隊士は、しのぶの問いに、いかにして二人一組で鬼の注意を逸らし、死角から奇襲をかけたかを誇らしげに語った。

 しのぶは黙ってそれを聞いていたが、聞けば聞くほど、その戦術に言い知れぬ既視感を覚えていた。鬼殺隊が何百年と培ってきた、呼吸と剣技で真正面から鬼を滅する正攻法とは全く違う。相手の習性を読み、心理を突き、地形さえも味方につける、あまりにも狡猾で、冷徹で、そして合理的な思考。

 

 しのぶは、そんな思考の主を一人しか知らなかった。

 脳裏に浮かぶ、あの鬼の顔。姉は、あの鬼の知恵を借りたのだ。

 

 確信と共に、胸の中で膨れ上がる黒い感情。鬼への、拭い去れない憎悪。しかし、その鬼の策で仲間が救われたという、動かしがたい事実。姉が、その鬼を深く信頼しているという現実。

 ――そして、自分自身もまた、あの鬼がもたらした『毒』という希望に、囚われ始めている。

 

 その夜、しのぶは薬湯室に籠っていた。だが、手は止まり、ただ一点を見つめている。思考がまとまらない。

 

 ――正しい憎しみを持ち続けることが、こんなにも難しいことだっただろうか。

 

 不意に、障子が静かに開いた。

 

「しのぶ。少し、休んだらどう?」

 

 湯気の立つ茶器を盆に乗せたカナエが、心配そうに立っていた。その優しい眼差しが、今はしのぶの心をかき乱す。

 

「…大丈夫よ、姉さん。少し考え事」

 

「鳴神山の件、でしょう?」

 

 カナエはそう言って、しのぶの隣に静かに腰を下ろす。図星を突かれ、しのぶは唇を噛んだ。沈黙が、薬草の匂いと共に部屋に満ちる。

 

「…姉さん。私、姉さんの判断を信じたいと思ってる」

 

 ぽつりと、しのぶが絞り出すように言った。それは本心だった。

 

「…姉さんの策は、正しかったわ。あの隊士たち、笑ってた。感謝してた。…正しいのよ、きっと」

 

 しのぶはそこまで言うと、俯いて唇を強く噛み締めた。声が、震える。

 

「…でも…!じゃあ、私のこの気持ちは、何なの!?父さんと母さんを殺した鬼を、憎むなっていうの!?姉さんみたいに…どうして、私には…っ!」

 

 それは、しのぶの心の悲鳴だった。姉が信じる斎鬼の善性を信じたいと願いながらも、鬼によって刻まれた過去の傷が、その心を縛り付けている。

 その痛ましい告白に、カナエは胸を締め付けられた。自分の信じた道が、たった一人の妹をこれほどまでに引き裂いている。きっと心の奥底では気付いていたのに、目を背けていた。

 

「私は…」

 

 溢れ出る言葉を止められないかのように、しのぶは続ける。

 

「この手で鬼の頸を斬れない。だから、毒を研究してる。でも、その道筋さえ、あの鬼のヒントがなければ開けなかった。鬼を殺すために、鬼の知識に頼らなきゃいけない自分が…私は、許せない…!」

 

 自分を責める言葉は、やがて嗚咽に変わる。鬼への憎しみ。姉への信頼。届かない強さへの渇望。そして、理想と現実の狭間が生み出す自己嫌悪。そのどれもが、今のしのぶを形作る、紛れもない真実なのだ。

 

 カナエは、震える手で妹の手にそっと触れた。その温もりを感じながら、溢れ出しそうになる言葉を必死に飲み込む。そして、全ての覚悟を決めて、静かに、しかしはっきりと告げた。

 

「…ええ、そうね。鬼は憎い。父さんと母さんを殺した鬼は、絶対に許せない。…私を信じたいと思ってくれるあなたの心は、本当に嬉しい。そして、強くなりたいと願うあなたの覚悟も、本物」

 

 しのぶが、驚いて顔を上げる。カナエは、涙で濡れたその瞳を、どこまでも優しい眼差しで見つめ返した。

 

「その気持ちのどれもが、あなたの真実。だから、何も間違ってなんかいない。でもね、しのぶ。その全ての想いがあなたを責め立てるのなら…。それは、私が全部背負うから」

 

 カナエは、妹の手をそっと握りしめる。

 

「だから、あなたはもう、戦わなくてもいいのよ。鬼殺隊を辞めてもいい。しのぶには、普通の女の子の幸せを、手に入れてほしいの」

 

 その言葉が、しのぶの心に張り詰めていた最後の糸を、無慈悲に断ち切った。

 

「姉さんみたいに戦えない私の気持ちなんて、姉さんには分からない!」

 

 叫び声にも似た声が、静かな薬湯室に響いた。それは単なる反抗ではない。鬼を赦し、信じることのできる姉の『強さ』と、憎しみに囚われ続けるしかない自分の『弱さ』。そのどうしようもない断絶から生まれた慟哭だった。

 

 初めて見せる妹の激しい拒絶に、カナエは言葉を失う。

 一人の鬼がもたらした最初の『勝利』は、鬼殺隊の新たな可能性の代償に、最も固い絆で結ばれているはずだった姉妹の間に、初めて深く、確かな溝を刻み込んでいた。

 




感想、お気に入り等々、ありがとうございます。
こだわったところも手を抜いたところも、しっかり見抜かれてるなぁという感じで、身が引き締まります。
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