境界の斎鬼   作:eebbi

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蝶屋敷の図上演習

 あの日、姉妹の間に生まれた溝は、すぐには埋まらなかった。カナエは妹の覚悟を、しのぶは姉の優しさを、互いに痛いほど理解していたからこそ、かけるべき言葉が見つからなかったのだ。蝶屋敷には、表面上は穏やかな、しかしどこかぎこちない時間が流れていた。

 

 しのぶと衝突した翌日の昼下がり、カナエは一人、縁側に座ってぼんやりと庭を眺めていた。秋の陽光は柔らかく、楓の葉が時折、はらりはらりと舞い落ちる。穏やかな光景のはずなのに、彼女の心は鉛色の雲に覆われたように重かった。

 

 ――私の言葉は、あの子を傷つけただけだった。

 

 しのぶの、慟哭にも似た叫び声が耳の奥で反響する。妹を思って伝えた言葉が、妹を深く傷つけてしまった。

 

 ――本当にそうなの?

 

 妹のためと言い訳をして、自分の願望を押し付けただけなのではないか。自分の無力さが、身勝手さが、胸に突き刺さる。斎鬼の存在、彼の提案する合理的な戦術、そして、それに反発しながらも惹かれてしまうしのぶの葛藤。全てが複雑に絡み合い、カナエの思考を袋小路へと追い込んでいた。

 

「カナエ様…」

 

 控えめな声に顔を上げると、アオイが心配そうにこちらを覗き込んでいた。その手には、湯気の立つお茶が乗ったお盆がある。

 

「少し、お疲れのように見えましたので…。お節介でしたら、申し訳ありません」

 

「ううん、ありがとう、アオイ。嬉しいわ」

 

 カナエが力なく微笑むと、アオイの後ろから、すみ、きよ、なほの三人がひょっこりと顔を出した。

 

「カナエ様、あのね、今日のおやつ、おはぎなんだって!」

 

「しのぶ様が、カナエ様もきっとお好きだからって…」

 

 妹の名前に、カナエの胸がちくりと痛む。だが、少女たちの屈託のない笑顔は、彼女の心の雲間に差し込む一筋の光のようだった。この子たちの笑顔を守るために、自分たちは戦っている。その単純で、絶対的な事実が、カナエの心を少しだけ軽くした。

 

「そう、ありがとう。じゃあ、みんなで一緒にいただきましょうか」

 

 カナエがそう言うと、少女たちの顔がぱっと輝いた。アオイが少し呆れたように、しかしどこか嬉しそうに微笑む。縁側に並んで座り、他愛もない話をしながらおはぎを頬張る。そのありふれた日常の温かさが、カナエの凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。

 

 ――そうだ。私が守りたいのは、この陽だまりだ。

 

 しのぶを危険から遠ざけたいと願う心も、斎鬼の存在が示す新たな道を信じたいと願う心も、全てはこの光景に繋がっているはずなのだ。道は違えど、想いは同じ。ならば、私がすべきことは、あの子の道を否定することじゃない。

 

 ――私が、しのぶのための道を切り拓く。

 

 憎しみに身を焼いてでも戦おうとするあの子の覚悟が、死への道とならない道しるべを。彼女の瞳に、再び強い光が宿った。それは、妹の覚悟を受け止め、自らも茨の道を進むことを決意した、元柱の顔だった。

 

***

 

 ある日の夕刻、カナエは斎鬼を、改装された薬草の貯蔵室へと招き入れた。

 

 ここ数日かけて改装された部屋だ。運び込まれていたのは、壁一面を覆うほどの巨大な地図盤。そこには、鬼殺隊が管轄する区域が、山脈の隆起や川の流れに至るまで、驚くほど精密に描かれている。埃と古い紙の匂いが満ちるその部屋は、これから始まる知的な死闘の舞台だった。

 

「今日から、ここが私たちの新しい仕事場よ」

 

 カナエは、斎鬼をその部屋へと招き入れ、決意を秘めた瞳で告げた。

 

「あなたの分析力は、個別の任務を解決するだけに留めておくには惜しいわ。私たちは、ここで過去の任務記録を検証し、未来の犠牲者を一人でも減らすための『戦術』を構築する。これは、後進を育成するための、新しい稽古の形でもあるわ」

 

 斎鬼は何も答えず、ただ地図盤を見つめていた。その無数の線と記号が、彼には夥しい数の墓標に見えた。

 

 最初の議題は、三ヶ月前に五名の隊士が殉職した、『夜啼峠(よなきとうげ)の惨劇』だった。その峠は、風が岩間に吹き付ける音や獣の遠吠えが、夜になると赤子の泣き声のように聞こえることから、古くから旅人たちに忌避されてきた場所だ。

 

「記録によれば、鬼は一体。血鬼術は、その不気味な環境を利用し、幻聴によって聞いた者の方向感覚を狂わせる能力。隊士たちは、味方の声や足音を鬼のものと誤認して…」

 

 カナエが、当時の報告書を読み上げながら、地図盤の上に小さな木製の駒を並べていく。五つの駒が、峠の隘路で孤立していく様が、痛々しいほどに再現される。彼女の声が、かすかに震えた。

 

「…同士討ちを始めたり、気づかぬうちに崖へと誘い込まれたりして、全滅した、と」

 

 乾いた、小さな音がした。

 斎鬼の指が、駒の一つを盤上で滑らせる。それは、全滅した隊士の一人が、最初に道を外れた地点だった。

 

「……ここが最初の過ちだ」

 

 静かだが、有無を言わさぬ響きだった。カナエが息を呑んで彼を見る。

 斎鬼は、カナエの返事を待たずにおもむろに立ち上がると、盤上の駒を指でなぞり始めた。それは、死んでいった隊士たちの、絶望的な行軍の再現だった。

 

「この鬼は、獲物を追い詰めるのではなく、獲物が自ら罠に嵌り、混乱の中で自滅するのを楽しんでいる。だがその方法は、幻聴以外にない。にもかかわらず、彼らは声で連携を取ろうとし、自ら術中に嵌りにいった」

 

 彼の指が、駒の一つを弾く。

 

「これでは、鬼の手に踊らされに行ったようなものだ」

 

 言葉には、何の感情も乗っていなかった。ただ、冷徹な事実だけが静かな部屋に響く。カナエは、その冷たい声色に背筋が冷たくなるのを感じた。

 

 斎鬼は、盤上の駒を一度、無造作に払い除ける。そして、新たに三つの駒を手に取ると、峠の入り口に、互いの背を守り合うように円陣を組んで配置した。

 

「この鬼を狩るなら、まず音を捨てる」

 

 彼の指が、円陣の駒をゆっくりと、しかし着実に峠の奥へと進めていく。

 

「連携の合図には耳以外の感覚を使う。例えば、藤の花を編んだお揃いの腕輪。視界の隅でお互いの存在を確認し続ける。そして決して散開しない。常に三人一組で背中を守り合い、円陣を組んでゆっくりと移動するべきだ」

 

 カナエは、盤上で展開される光景から目が離せなかった。それは、鬼殺隊の、個人の技量を前提とした戦いという思想とは真逆の戦術だった。

 

「鬼は必ず、焦れる。手管の通じない獲物に。そして、直接的な幻覚…例えば、仲間が鬼に襲われているような声や音を、すぐ近くで聞かせるはず」

 

 斎鬼は、円陣から少し離れた場所に、別の駒を一つ置いた。それは、幻覚によって作り出された『偽の仲間』の駒だった。

 

「だが、円陣が崩れていない限り、それは偽物だと断定できる。攻めるのではなく、守りを固めて鬼の『嘘』をすべて見破る準備だけをしておく。そうすれば…」

 

 彼の指が、鬼の駒を掴み、焦れたように姿を現したその位置に置く。

 

「…手管をなくした鬼の方から、姿を現さざるを得なくなる」

 

 そして、円陣を組んでいた駒の一つが、滑るように鬼の駒の背後へと回り込み、その駒を盤上から静かに弾き出した。

 

 完璧な詰みだった。なぜ、こんな単純なことに気づかなかったのか。斎鬼の言葉は、鬼の視点から、人間の戦術の穴をあまりにも的確に、そして無慈悲に暴き出していた。

 

 その日から、部屋の灯りが夜通し消えることはなくなった。斎鬼は、過去数百にも及ぶ任務記録を、寝食も忘れ検証し続けた。地図盤の上で、無数の駒が動かされ、数えきれないほどの命が救われる仮想の戦いが、幾度となく繰り返される。

 

 膨大なデータを地図に落とし込む中で、斎鬼の脳裏にひとつの疑問が浮かび上がった。最初は偶然かと思った。だが、検証を重ねるほど、その奇妙な傾向は無視できない事実として浮かび上がってくる。同じような地形、同じような能力の鬼に対し、水の呼吸の隊士は生存率が低く、風の呼吸の隊士は生還率が高い。その差は、一体どこから生まれる?

 

 彼の脳裏に、一つの仮説が稲妻のように閃いた。呼吸の流派は、個人の適性や威力の違いだけではないのかもしれない。それは、戦術的な『道具』としての、明確な得手不得手があるのではないか。

 

「試してみる価値は、ある」

 

 その仮説は、新たな研究の扉を開くものだ。斎鬼は、その計り知れない可能性に、笑みを隠せなかった。

 

***

 

 しのぶは、その部屋の存在を知っていた。

 姉とあの鬼が、夜な夜な地図盤を囲んでいることも。以前感じたような、胸が焼かれるほどの憎悪や裏切られたという感覚は、姉との衝突を経て、今やより硬質で冷たいものへと変質していた。あれは、姉のやり方。鬼を信じ、その知恵を借りて仲間を救うという、あまりにもお人よしで、そしてあまりにも効率的なやり方。

 

 しのぶの中の冷静な部分が、その論理的な正しさを認めていた。理屈の上では、あれが最善なのだろう。その事実が、何よりも彼女の心を苛んだ。

 普通の女の子の幸せを。あの夜の姉の言葉が引き金だった。彼女の中の何かが、もう後戻りできない場所へと進んでしまった。

 

 『戦術研究』で仲間を救う。結構なことだ。ならば私は、私が信じたこの『毒』という道で、それ以上の成果を上げてみせる。姉さんにも、あの鬼にも、私が非力で守られるだけの妹ではないと、証明してみせなければならない。その想いが、彼女を夜な夜な薬学書へと向かわせていた。

 

 だが、しのぶの手は止まっていた。乳鉢に残った薬草の匂いが、思考の行き詰まりを嘲笑うかのように鼻につく。姉たちが地図盤の上で次々と仮想の勝利を重ねている間、自分はここで足踏みをしている。

 

 その思考が頭をよぎった瞬間、こらえきれない苛立ちがこみ上げた。しのぶは、持っていた乳棒を薬皿へと、叩きつけるように置く。陶器同士がぶつかる乾いた硬い音が、静まり返った薬湯室に鋭く響き渡った。

 焦燥感は、胃の腑をきりきりと締め付けるような、不快な熱に変わっていた。

 

 その時、背後の障子が静かに開く。苛立ちのあまり、背後の気配に気づくことさえ遅れていた。

 

「……何の用ですか。今は取り込んでいます」

 

 振り返らずに、しのぶは棘のある声を放つ。こんな夜更けに、この部屋を訪れる者など限られている。姉か、アオイか。どちらにせよ、今のこの無様な姿は見られたくなかった。

 

 だが、返ってきたのは予期せぬ、低く静かな声だった。

 

「その苛立ちが、お前の研究を前に進めるのか」

 

 しのぶの肩が、凍りついたように硬直した。斎鬼。なぜ、彼がここに。

 ゆっくりと振り返ると、彼は音もなくそこに立っていた。感情の読めない瞳が、散らかった薬草と、苛立ちを隠せないでいる自分の内面を、静かに射抜いている。

 

「貴方に、何が分かるというんですか」

 

 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。侮辱と、見透かされたことへの羞恥と、そして拭いきれない鬼への憎悪が、喉の奥で渦を巻く。

 

「分かるさ。お前のやろうとしていることは、対無惨戦において極めて重要な戦略になり得る。だが、停滞している」

 

 斎鬼は淡々と、しかし有無を言わさぬ響きで続ける。

 

「原因は、鬼の生体を使った実験ができないこと。違うか」

 

「……っ!」

 

 図星だった。彼の言葉は、刃のように的確に、しのぶが目を背けていた現実を抉り出す。

 

「何の企みです?私を嘲笑いにでも来たんですか」

 

「取引を提案しに来た」

 

 斎鬼は一歩、しのぶに近づいた。彼女は反射的に身構える。彼の瞳には嘲りの色はない。ただ、地図盤の上で駒を動かす時と同じ、冷徹なまでの合理性が宿っていた。

 

「俺の体を使え」

 

 感情の起伏なく告げられた言葉に、しのぶの思考が停止する。何を、言っている。

 

「……貴方の体を使って、私が何をするか分かっているんですか」

 

「お前の『毒』は、目的達成のために必要な戦術だ。だが、停滞している。その原因を取り除く」

 

 斎鬼はそこで一度言葉を切ると、一瞬だけ、カナエが眠っている部屋の方角へと視線を向けた。その瞳に宿った僅かな揺らぎは、しのぶでなければ見逃していただろう。

 再びしのぶを真っ直ぐに見据えた時、彼の瞳は元の、感情の読めない静かな色に戻っていた。

 

「これは、合理的な投資だ」

 

 プライドか、目的か。天秤の上で、しのぶの心が激しく揺れ動く。

 長い、長い沈黙が落ちる。薬草の苦い匂いだけが、二人の間に漂っていた。

 

「……分かりました」

 

 やがて、しのぶは諦めたように、細く息を吐いた。顔を上げた時、その瞳からは激情が消え、冷たい研究者のそれへと戻っている。

 

「あくまで、これは貴方からの『協力要請』。研究のための取引です」

 

 そう言い放つことでしか、彼女は己の砕け散りそうなプライドを保てなかった。斎鬼は、その言葉の裏にある彼女の覚悟を静かに受け止め、ただ、小さく頷いた。

 

 その瞬間、張り詰めていた息が、か細く漏れた。安堵ではない。目的を達成した高揚感もない。ただ、踏み越えてはならない一線を越えてしまったという、冷たい事実だけが、腹の底にずしりと沈んだ。

 

 憎しみと、焦りと、そして姉への対抗心が交差する。二人の歪な『共犯関係』が、その瞬間に成立した。蝶屋敷の一室で、三つの孤独な魂が、それぞれの目的のために、一つの盤上に向かい合う。

 カナエは、仲間が救われる未来を信じて。斎鬼は、組織を変革する新たな戦術を求めて。そしてしのぶは、鬼を滅する至高の毒を、その手に掴むために。

 

 変革の萌芽は、静かに、しかし確かな熱を帯びて、その根を張り巡らせ始めていた。

 

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