鳴神山の任務から二人の若手隊士が無事で生還したという報せは、蝶屋敷に一時の明るい喧騒をもたらした。診察室から出てきた隊士たちの顔は、死地を乗り越えた興奮と、自らの手で任務を完遂したという誇りに紅潮していた。
「聞きましたか、カナエ様!あの記録、本物でした!鬼の気配すら感じさせずに、背後を取れたんです!」
「俺、もうダメかと思ったんですけど……こいつが作戦通りに動いてくれて……。あんな風に連携できたの、初めてです!」
縁側で報告を受けるカナエの隣で、斎鬼はその光景を黙って見ていた。若者たちの純粋な喜びに、彼の心が動かされることはない。
彼の意識は、報告書の記述と、今しがた隊士が語った戦闘の詳細を照合し、一つの小さな、しかし無視できない一点の曇りを検出しようと集中していた。
「ええ、よく頑張ったわね。あなたたちの勇気と連携がもたらした勝利よ」
カナエは心からの笑みで二人を労う。そして、帰り際にこう付け加えた。
「そのお話、ぜひ他の隊士たちにも聞かせてあげてちょうだい。きっと皆の希望になるわ」
「はい!」と力強く頷き、隊士たちは意気揚々と屋敷を後にしていく。その背中を見送りながら、斎鬼は静かに口を開いた。
「……綻びがあった」
その一言で、縁側の穏やかな空気がすっと冷えた。カナエがゆっくりと振り向くと、斎鬼は遠ざかる隊士たちではなく、庭の敷石の一点を見つめている。
「陽動役の隊士が、鬼の反撃をあと一歩で避けきれなかった。作戦計画より討伐が遅れている」
淡々と紡がれる言葉は、事実のみを切り取っていく。
「もし、あの鬼の性格がもう少し攻撃的だったら、陽動役は腕を失っていた。作戦は成功したが、内容は限りなく失敗に近い」
冷徹な分析。カナエは微笑みを消さずに、しかし真っ直ぐに斎鬼を見つめ返した。
「でも、彼は避けきったわ」
その声には、労いの響きとは違う、凛とした芯が通っていた。
「作戦にはなかった、咄嗟の判断で。……彼は、あの戦いの中で成長したの」
「その『成長』という不確定要素に頼る限り、いつか必ず隊士は死ぬ」
斎鬼は初めてカナエに視線を向けた。その瞳には何の感情も浮かんでいない。
「俺の作戦の目的は、個人の資質に頼らず、誰がやっても生存確率を最大化させることにある」
「人の心は、盤上の駒ではないわ、斎鬼くん」
カナエはそっと縁側の柱に手を触れる。木の温もりを確かめるように。
「あなたの戦術は完璧かもしれない。でも、その完璧さには、人の心が持つ輝き――恐怖を乗り越えようとする意志や、仲間を信じる力が入り込む隙間がないように見える」
その日から、それは二人の間で繰り返される論争となった。地図盤の上で、斎鬼は完璧な論理で仮想の勝利を積み重ねる。カナエは、その冷徹な数式の中に、常に『人間の心』という変数を持ち込み、彼の論理の壁を揺さぶった。
互いの正しさを認めながらも、決して交わることのない平行線。それは、二人の間に生まれた、新たな絆の形でもあった。
***
カナエの思惑通り、二人の若手隊士が語る武勇伝は、瞬く間に隊士たちの間に広まっていった。
「聞いたか?蝶屋敷のカナエ様直伝の戦術ってやつ」
「ああ、鳴神山の。まるで天狗にでも化かされたみたいに、鬼が一方的に狩られたって話だろ?」
「なんでも、『蝶屋敷の軍師』がいるらしい。その人物が立てる策は、寸分の狂いもなく鬼の動きを読み切るそうだ」
噂は尾ひれがつき、ある種の伝説めいた響きを帯びていく。その噂は、当然のように、情報好きな男の耳にも届いていた。
***
その日、カナエは蝶屋敷の少女たちに頼まれた反物や菓子を求め、隊士たちで賑わう街の市場にいた。柱を引退してからというもの、こうして穏やかな日差しの中を歩く時間は、彼女にとってささやかな幸せだった。
不意に、背後から声をかけられる。
「――元気にやってるみてぇだな、元花柱サマ」
振り返るまでもない。その声に含まれた、自信と、愉悦と、全てを見透かすような響き。
路地の壁に背を預け、宇髄天元が立っていた。その派手な装いとは裏腹に、その存在は完全に街の景色に溶け込み、斎鬼とはまた違う種類の、底知れない気配を放っている。
「宇髄さん。ご無沙汰してます」
「堅苦しい挨拶はいい。単刀直入に聞くぜ」
宇髄は、値踏みするような目でカナエを射抜いた。
「近頃、お前の周りで派手な噂が立ってるらしいな」
ニヤリと唇の端が吊り上がる。
「『蝶屋敷の軍師』だか何だか知らねぇが……。鳴神山の一件、ありゃあ一体、何の茶番だ?」
その問いに、カナエはふわりと微笑んだ。撒かれた餌に、最も早く、そして最も的確に食いついてきた魚。その反応は、彼女の予測通りだった。
「さあ、何のことでしょう。ただ、若手の子たちが頑張ってくれただけですよ」
「その白々しい笑顔、反吐が出るぜ」
宇髄は壁から背を離し、一歩、カナエとの距離を詰める。市場の喧騒が、まるで二人を中心に遠ざかっていくようだ。
「俺の目は誤魔化せねぇ。あの戦い方、てめェの発想じゃねぇだろ」
彼の目が、獲物を見つけた獣のように細められる。
「もっと地味で、執念深くて、何より――」
宇髄はそこで一度言葉を切り、愉悦に歪んだ唇で、最後の言葉をはっきりと告げた。
「――鬼の思考に近い」
カナエは内心で息を呑んだが、表情は変えなかった。この男は、噂の裏にある異質な知性の正体まで、既に見抜きかけている。
「面白い。実に面白い」
宇髄は楽しそうに喉を鳴らした。
「てめぇの手の平の上ってのは癪だが、その『軍師サマ』とやらに、少し興味が湧いた。近い内にお前の屋敷に行く。話を聞かせてもらうぜ、じっくりとな」
それは、拒否を許さない響きだった。宇髄はそれだけを言うと、人混みの中へと音もなく消えていく。
後に残されたカナエは、穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに空を見上げた。彼が信じてくれた、私の夢。その実現のために、彼は必死にもがいている。
――あなたの盤が、動き始めたわよ。斎鬼くん。
最強の『交渉役』が、その盤上に足を踏み入れようとしていた。彼女の描いた筋書き通りに。
その先に待ち受けるのは、希望か、それとも新たな混沌か。それはまだ、誰にも分からなかった。