部屋の空気は、張り詰めた弓弦のように震えていた。
壁一面を覆う巨大な地図盤。その上に無数に置かれた駒は、仮想の戦場で散った命の墓標だ。埃と古い紙、そして夜通し灯された蝋燭の芯が燃え尽きる匂いが、この部屋が知的な死闘の舞台であることを物語っている。
「これでは駄目だ」
静寂を破ったのは、斎鬼の低く、鋼のように冷たい声だった。彼の指が、盤上の一点を強く叩く。そこは、『黒森』と呼ばれる、木々が鬱蒼と生い茂る森。乾いた音が、まるで誰かの命が潰える音のように響いた。
「この部隊の半壊は、防げたはずだ。いや、防がなければならなかった。これは戦術的敗北である以前に、組織的な怠慢が生んだ人災だ」
その言葉には、彼が蝶屋敷で日々目の当たりにする、あまりにも多すぎる死への、静かで、しかし底なしの怒りが込められていた。
「…人災、ですって?」
カナエの声が、わずかに硬くなる。斎鬼は顔を上げず、盤上の駒を無慈悲に滑らせ、部隊が辿ったであろう絶望的な行軍を再現していく。
「この森の鬼は『狩人』だ。報告書を読んだ。奴は決して正面からは戦わない。まず、最後尾の隊士の足を狙って投擲物で負傷させる」
負傷者の駒が倒される。
「動けなくなった仲間を助けようと隊列が乱れた瞬間、身を隠していた木々の上から奇襲をかける。狙うのは、助けようとした者たちの無防備な背中だ」
斎鬼の声は淡々としていたが、その言葉の一つ一つが、鬼の視点から人間の情を弄ぶ、残酷な戦術を浮き彫りにしていた。
「仲間を見捨てられないという人の情。それ自体を『罠』として利用している。にもかかわらず、彼らは何度も同じ罠に嵌った。情報が共有されず、同じ過ちが繰り返される。この屋敷で、俺はそれを何度も見た」
「言いたいことは、わかるわ。けれどそれは…」
「『覚悟』で埋められる戦力差ではない。それは精神論という名の思考停止。あまりにも不合理だ」
「不合理ではないわ」
カナエの凛とした声が、彼の言葉を遮った。その瞳には、元柱としての誇りと、仲間への揺るぎない信頼が宿っている。
「それは『鬼殺隊の在り方』そのものよ。私たちには、全ての任務に万全の準備を整える時間も、人員もない。常に二手三手先を読んでくれるあなたのような『頭脳』も、これまではなかった。だからこそ、隊士たちは自分の五感と、死をも恐れぬ覚悟だけを頼りに、千年の長きにわたり戦い続けてこられたの」
彼女は、斎鬼の隣に立つと、盤上の一人の隊士の駒にそっと指を触れた。
「彼らは、ただの盤上の駒じゃない。傷ついた仲間を見捨てられない、その心があるからこそ人間なのよ。あなたの戦術は、あまりにも…心を軽視しすぎているわ」
「その心が、狩人の恰好の餌になっていると言っている」
斎鬼の声は、どこまでも冷たい。その視線は、カナエの指先にある駒を通り越し、その下に眠る報告書の、インクで記された『重傷』の二文字を射抜いていた。
「情は、時に判断を曇らせる猛毒だ」
冷徹な声に、わずかな怒気が混ざる。
「そして、その情に流された結果が、これだ」
その瞬間、カナエの纏う空気が変わった。
それまでの穏やかな光を宿していた瞳から、ふっと色が消える。彼女の脳裏に、忘れることのできない光景が灼きつくように蘇っていた。
――まだ柱になる前。降りしきる雨の中、泥濘に足を取られ、仲間が次々と倒れていく絶望的な戦場。自らの判断の誤りで、部隊は壊滅寸前だった。一体の下弦の鬼を前に、死を覚悟した、あの時。
「カナエさんッ!!」
声。まだ十五にも満たない、少年隊士の絶叫。彼は、カナエの指示を無視し、血鬼術の豪雨の中へと無謀に飛び出した。盾になるように彼女の前に立ち、そして一瞬で――。
「…あなたに、何が分かるというの…!」
気づけば、声が喉からほとばしっていた。それは、斎鬼が今まで聞いたことのない、奥底からの叫びだった。普段は穏やかなその声が、溢れ出る感情の濁流で、鋭い怒気を帯びる。
「『猛毒』ですって…?それを、あなたが言うの…!」
彼女の指が、強く握りしめられ、白く色を失っている。記憶の中の雨音が、耳の奥で轟音となって鳴り響いていた。
「あの子の判断は、確かに不合理だった!私の指示にも背いたわ!あなたの言う通り、それは『情』に流されただけの、愚かな行動だったのかもしれない…!」
わなわなと震える唇で、カナエは言葉を続ける。
「でも…!」
その声は、慟哭にも似ていた。
「あの子のその、不合理で、愚かで、どうしようもなく人間的な一瞬があったからこそ、私たちは生きて帰れた!私だけじゃない、他の仲間たちも…!」
盤上の駒が、彼女の震える指に触れてカタリと倒れる。それは、彼女の記憶の中で散っていった、名もなき少年の墓標のようだった。
「あなたの完璧な戦術盤の上に、あの子の居場所はどこにあるの!?危険に晒された仲間を見捨てられない、その心を、あなたの『合理』は、どうやって駒として動かすっていうのよ…!」
鬼でありながら、誰よりも人間らしい心で苦しむ斎鬼だからこそ、彼女はぶつけずにはいられなかった。人の心が持つ、どうしようもない輝きと、その儚さを。
斎鬼は、言葉を失っていた。
カナエの魂の叫び。その奥にある、守りきれなかった命への深い傷。それは、彼が不死川実弥の内に見たものと、そして自らが抱える罪と、同じ色をしていた。
張り詰めた沈黙。部屋に満ちるのは、互いの息遣いと、蝋燭の炎が揺れる音だけだった。
やがて、その熱を冷ますように、カナエがふっと息を吐いた。彼女の瞳には、涙の膜が張り、それでもなお、斎鬼を真っ直ぐに見つめていた。
「……ごめんなさい。熱くなりすぎたわね」
その声は、ひどく掠れていた。
「…少し、頭を冷やしましょうか。これ以上続けても、同じことの繰り返しね」
その言葉に、斎鬼は黙って頷くと、音もなく部屋を出ていった。
***
縁側は、秋の柔らかな陽光に満ちていた。火照った思考を冷ますには、この穏やかな空気は心地よい。斎鬼はそこに腰を下ろし、静かに目を閉じた。
カナエの言葉が、脳内で反響する。人の心を軽視しすぎている。
彼とて、『心』を切り捨てたいわけではない。カナエの夢、そして彼が探し求める存在は、『人の心』を持つ鬼なのだから。
――だが、それが人を殺すというのなら。
それは排除すべきだ。最も生存確率の高い選択をする。恐怖、怒り、仲間意識。それらの不合理な感情が、盤上の完璧な数式をいとも容易く狂わせる。その『変数』を、どうすれば計算に入れることができる?
――いや、それは怠慢か。
理解できないから切り捨てる。実に都合の良い思考だ。
思考の迷路に迷い込んだ、その時。
すぐそばに、ふわりと人の気配が立った。音もなく現れたのは、栗花落カナヲだった。彼女は斎鬼の隣に立つと、こてん、と首を傾げる。その瞳は、美しい硝子玉のように、何も映してはいない。
「……」
斎鬼が戸惑いの目を向けても、カナヲは動かない。ただ、じっと彼を見つめている。やがて、懐から銅貨を取り出すと、親指で弾いた。宙を舞った銅貨を手の甲で受け止め、その裏表を確認すると、ようやく口を開いた。
「花柱様が言ってた。正治さんは、難しい顔をしてるって」
感情のない、平坦な声。
その言葉は、斎鬼の心に奇妙な波紋を広げた。この少女は、カナエの言葉をただ反復しているだけだ。だが、その無垢な響きは、彼の心の最も柔らかい部分を不意に撫でた。
「……そうか」
他に返す言葉が見つからない。斎鬼がそう呟くと、カナヲは再び黙り込んだ。何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか。その静寂が、斎鬼には心地よくもあり、同時に底知れない孤独を感じさせる。
その奇妙な均衡が破られたのは、ほんの一瞬だった。
「急患です!門を開けてください!」
蝶屋敷の静寂を切り裂く、切羽詰まった声。
庭先がにわかに騒がしくなる。斎鬼とカナヲが顔を向けると、血の匂いをまとった隠たちが、一人の隊士を担ぎ込んでくるところだった。
「姉さん!」
「アオイ、準備を!」
屋敷の奥から、しのぶとカナエの鋭い声が飛ぶ。陽だまりの穏やかな時間は、一瞬にして戦場のそれへと変質した。
斎鬼の横を、躊躇いなく治療室に向かうカナヲが通り過ぎる。
一方、斎鬼は、身動きが取れずにいた。自分は鬼だ。鬼殺隊の療養の場に、踏み込む資格はない。
彼の逡巡は、カナエの悲鳴に近い声によって断ち切られた。
「ダメ、血が止まらない!傷が深すぎる…!」
治療室から漏れ聞こえる声は、焦燥に満ちている。斎鬼の鼻腔が、濃密な血の匂いと、嗅ぎ慣れない微かな異臭を捉えた。あれは…鬼の毒か。
次の瞬間、治療室の障子が勢いよく開け放たれた。そこに立っていたのは、血で濡れたエプロン姿のカナエだった。彼女は、縁側に座る斎鬼の姿を認めると、迷いなく声を張り上げた。
「正治くん、お願い!手を貸して!」
その言葉は、命令ではない。命を救うためことを切望する、一人の医療者の叫びだった。
***
血の匂いが、思考を塗りつぶしていく。
神崎アオイの耳にはもう、しのぶの鋭い指示と、負傷した隊士の苦悶の息遣いしか聞こえていなかった。
「アオイ、圧迫止血!もっと強く!」
「は、はい!」
震える指先に叱咤し、傷口に全体重を乗せる。だが、獣に抉られたような腹の傷からは、どくどくとおびただしい量の血が溢れ、純白の包帯を瞬く間に赤黒く染め上げていく。傷口の周囲は不気味に黒く変色し、甘く腐ったような異臭を放っていた。
――ダメ、このままじゃ…!
焦りが、心臓を氷の手で掴むように締め付ける。しのぶ様が解毒薬を調合しているが、間に合うかどうか。アオイは唇を固く結び、ただひたすらに己の役目を果たそうと包帯を押し当て続けた。
その時、ふっと治療室に影が差した。
反射的に顔を上げ、アオイは息を呑む。そこに立っていたのは、『正治』という仮初めの名を持つ、あの男だった。カナエに促され、音もなく部屋へと足を踏み入れたその姿に、アオイの全身の産毛が総毛立つ。
恐怖が、脊髄を駆け上がった。この神聖な治療の場に、両親を殺した忌まわしい化け物がいる。その事実だけで、呼吸が浅くなる。だが、しのぶ様の手前、ここで怯えを見せるわけにはいかない。アオイは、己の恐怖心を奥歯で噛み砕き、目の前の患者に意識を集中させた。
「あなた、なぜここに…」
しのぶの、憎悪を隠さない声が飛ぶ。だが、男はそれに答えず、ただ冷静に傷口を見つめていた。その瞳は、血に飢えた獣のそれとは違う。獲物を検分する猟師のような、あまりにも静かで、無機質な色をしていた。
「…この匂い、おそらく霧を操る鬼の毒だ。神経を麻痺させ、血の巡りを異常に速める。止血は無意味だ」
アオイの耳を、信じられない言葉が打った。男の言葉に、しのぶがはっとしたように動きを止める。
「一度、戦ったことがある。解毒薬は、その薬草棚の三段目にある『白仙草』を煎じ、傷口に直接塗り込め。気休めにしかならんが、毒の回りを遅らせることはできる」
有無を言わさぬ響き。アオイが戸惑う間に、しのぶ様は一瞬の逡巡の後、迷いなく棚へと駆け寄っていた。なぜ。なぜ、しのぶ様が鬼の言葉を信じるの?
アオイの混乱を置き去りにして、男は隊士の傍らに膝をつくと、その傷口に自らの指を躊躇なく差し込んだ。
「ひっ…!」
思わず、小さな悲鳴を上げた。血塗れの傷に指を入れるその光景が、両親を喰らう鬼の姿と重なった。体が竦み、後ずさりそうになる。
だが、男の動きはアオイの想像とは全く違った。彼の指は、傷の内部を正確に探り当てると、黒く変色した肉片を抉り出していく。一切の無駄がない動きだった。
「あの鬼の毒だったら、筋肉の深層に溜まるはずだ。確認できたか?」
「黙りなさい!今やってる!」
憎まれ口を叩きながらも、しのぶは既に男の隣に膝をつき、すり潰した薬草を差し出していた。男はそれを受け取ると、手早く傷口へと塗り込んでいく。
アオイは、その光景をただ呆然と見つめていた。
鬼が、傷の手当てを。
あれほど鬼を憎んでいたしのぶ様が、鬼と連携を。
何が起きているのか、理解が追いつかない。
だが、事実として、溢れ出ていた血は勢いを弱め、隊士の荒い呼吸が、少しずつ穏やかなものへと変わっていった。
やがて、応急処置を終えた斎鬼は、一言も発さずに立ち上がると、アオイの横を通り過ぎ、静かに治療室から出ていった。その背中は、彼女の目にはもう、ただの化け物には映らなかった。
後に残されたのは、薬草の匂いと、血の匂い。
そして、自らの信じてきた世界の境界線が、音を立てて崩れていくのを、ただ呆然と見つめるアオイの姿だけだった。
あの人は、本当に、『鬼』なのだろうか?
その問いは、答えのないまま、彼女の心に深く、静かに突き刺さった。