境界の斎鬼   作:eebbi

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人の証

 その日、地図盤のある部屋にカナエの姿はなかった。

 斎鬼は一人、盤上へと向き合っている。思考を遮るものは何もない。理想的な環境。

 だが、盤上の駒が、ただの色を失った石くれにしか見えなかった。指先が触れるたび、あの日のカナエの涙声が、耳鳴りのように思考をかき乱してくる。

 彼らは駒じゃない。その言葉が、駒を動かそうとする指を縛りつけている。

 

「……っ」

 

 舌打ちともつかない音を漏らし、斎鬼は苛立ちに任せて乱暴に席を立つ。ここにいても無駄だ。その衝動だけが、彼を部屋の外へと突き動かしていた。

 目的もなく冷たい廊下を歩き、火照った思考を無理やり冷ます。ふと足を止めた先は、縁側だった。いつの間にかそこに佇んでいる自分に、はたと気づく。

 秋の柔らかな陽光の中、カナエが一人、どこか遠くを見つめて座っている。その背中は、昨日よりもずっと小さく、儚く見えた。

 

 なぜ、俺はここに来た。

 衝動の源泉を問われ、彼の思考が必死に答えを探し始める。そうだ、戦術盤だ。あれは一人では完成しない。俺は、そのために来たんだ。

 

 斎鬼は彼女の前に静かに立つ。だが、いざその小さな背中を前にすると、用意したはずの言葉が喉の奥でつかえて出てこない。

 何か言わなければ。喉が乾き、言葉が張り付いて出てこない。肌を刺すような沈黙に耐えかね、彼は鎧をまとった。

 

「お前の力が、必要だ」

 

 絞り出す声は、自分でも驚くほど硬く、他人行儀に響いてしまう。

 カナエがゆっくりと顔を上げた。その瞳にまだ残る悲しみの色を見て、斎鬼の中で必死に組み上げた理屈が音を立てて崩れていく。

 思わず視線を逸らしてしまう。ぼそりと、鎧の下に隠していた本当の言葉がこぼれた。

 

「……昨日は、悪かった。すまない」

 

 長い沈黙。やがて、張り詰めていた空気を溶かすように、カナエがふっと息を吐く。その唇に、花が綻ぶような、どこか安堵したような笑みが戻った。彼女は、彼の不器用な言葉の裏にある、本当の心を正確に理解している。

 

「……ええ、私も、ごめんなさい。私たちの仕事は、まだ始まったばかりだものね」

 

 カナエは静かに立ち上がると、研究室の方へ視線を向ける。

 

「さ、部屋に戻りましょうか。私たちの『仕事』が、待っているわ」

 

 その声には、もう何のわだかまりもない。斎鬼は、無言で一つ頷き、彼女の半歩後ろを歩き始める。

 欠けていた駒が、再び盤上に戻る。二人の静かな戦いは、確かな絆の上で、再び始まろうとしていた。

 

***

 

 世界が、一枚の地図盤の広さまで収縮していた。

 部屋の空気は澱んだ埃と、夜通し灯された蝋燭が芯まで燃え尽きる匂いに満ちているはずだが、斎鬼の鼻はとうにその匂いを認識することをやめている。彼の五感は、盤上の駒と、その下に眠る無数の死の記録を読み解くためだけに研ぎ澄まされていた。

 

「……ここでも、か」

 

 乾いた唇から漏れた声も、自分のものだという実感がない。指が、盤上の一点をなぞる。夜啼峠、殉職者五名、水の呼吸。脳内で、悲鳴と血の匂いが渦を巻く。指は滑るように別の地点へ。廃炭鉱、隊の半壊、水の呼吸。まただ。法則性は、ある。だがその核心を覆う霧が、どうしても晴れない。

 

「斎鬼くん?」

 

 音。思考の邪魔をする、外部からのノイズ。盤上の緑の印――風の呼吸の軌跡を追う。なぜこの隊は生還できた?何が違った?

 

「斎鬼くん、聞こえてる?」

 

 ノイズが近づいてくる。思考の糸が乱される。苛立ちに眉根を寄せた、その時。肩に、ふわりと温かいものが触れた。

 びくり、と斎鬼の体が跳ねた。収縮していた世界が、急速に元の広さを取り戻す。蝋燭の燃え滓の匂い。積み上げられた報告書の山。そして目の前に、困ったように微笑むカナエの顔があった。

 

「……カナエか」

 

「ええ、カナエよ。もう夕餉の時間。少しは休まないと」

 

「……すまない。考え事をしていた」

 

「知ってる。でも、そのせいで倒れられたら、迷惑かなって」

 

 カナエが悪戯っぽく笑い、斎鬼の隣に食事を置く。その時、部屋の隅の薬棚の方から、カタン、と硬質な音が響いた。 しのぶだ。いつからそこにいたのか、彼女は二人には背を向けたまま、黙々と薬瓶の整理をしている。その背中は、姉と斎鬼の存在を拒絶しているようだった。

 

 だが、その音も、今の斎鬼にとっては思考を遮る雑音の一つに過ぎない。意識は、盤上の地獄へ。先ほど切れかけた思考の糸を手繰り寄せる。そうだ、夜啼峠の水の呼吸。カナエが何か言っていた。優しい子だった、と。責任感が強く…。

 

「――仲間を守るための、『受け』の動き」

 

 無意識に、思考が声になっていた。

 

「水の呼吸は、防御や持久戦に長ける。だからこそ、味方を守るための『受け』の動きに繋がりやすい。結果、消耗し、鬼の術中に嵌る…」

 

「逆に、風の呼吸は苛烈な連続攻撃で、敵に反撃の隙を与えない。守るより、殺られる前に殺る。そういうことでしょう?」

 

 声。今度は、しのぶか。いつの間に戻ってきた。いや、まだ部屋にいたのか。斎鬼の思考は、彼女の存在を重要ではない情報として切り捨てていた。だが、その言葉は違う。思考を加速させる、重要なヒントだ。

 

「だが、それだけじゃないはずだ」

 

 斎鬼は返す。

 

「もっと根源的な…身体への負荷、筋肉の動き、酸素の消費量。流派によって、戦い続けるための『燃費』が、根本的に違うんじゃないか?」

 

 燃費。その言葉に、しのぶの気配が動いたのが分かった。薬瓶の棚から離れ、こちらへ向き直る気配。その瞳が、初めて自分を『憎悪の対象』以外の存在として捉えているのを、斎鬼は肌で感じた。

 

***

 

 夜の空気が、熱を持った脳を冷やしていく。 斎鬼は一人、縁側に座っていた。月は雲に隠れ、庭の木々が深い影を落としている。虫の音が、世界の輪郭を静かに縁取っていた。

 

 不意に、すぐそばで衣擦れの音がした。見れば、いつの間にかカナエがそこにいる。昼間の快活な笑顔は鳴りを潜め、その横顔は月明かりのない夜の闇よりもなお、深く沈んでいるように見えた。彼女は斎鬼の存在に気づいているのかいないのか、ただ虚空を見つめている。

 

 その寂しげな姿に、胸がざわつく。血気術が、錆びた鉄が軋むような不快な音を鳴らし続けていた。

 斎鬼は何も言わず、彼女の隣に腰を下ろす。言葉は無用だと思った。ただ、そこにいる。肩が触れ合わない、絶妙な距離。だが、それだけで十分だった。

 

 どれほどの時間が過ぎただろうか。ぽつり、とカナエが呟いた。

 

「…しのぶとね、喧嘩したのよ」

 

 いつぶりかしらね、とおどけて見せる。だがその声は、夜気に溶けてしまいそうなほどか細く、震えていた。斎鬼は答えず、ただ静かに耳を傾ける。

 

「しのぶはね、しのぶ自身が思ってるより、ずっとすごい子なの。……まだ父さんと母さんと暮らしてた頃に、薬を作ったーなんて言って、嬉しそうにしてたことがあったのよ。どうやって作ったのか聞いてみたら、独学だって。すごいでしょ?」

 

 嬉しそうな声色。だが、表情は暗い。

 

「…今じゃ、私がまったく理解できない毒を作ろうとしてる。……誇らしいの、本当に」

 

 カナエが、何かを思い出すように、自分の手を見つめている。

 

「あの夜から、しのぶの手が冷たいの。あんなに暖かかったのに…。私の力が足りないから、その分をしのぶが背負わないといけなくなってる。…しのぶには、戦いなんて忘れて、誰よりも幸せになってほしいのに」

 

 堰を切ったように、言葉が溢れ出す。それは、斎鬼という無言の器に、抱えきれなくなった感情を注ぎ込むようだった。

 

「しのぶに手を払われたとき、何が起きたのかわからなかった。あの子のために刀を振るって、あの子の幸せを守るんだって、ずっと思ってたのに。なんで、こうなったんだろう」

 

 言葉を選ぶ余裕は、とうに失われていた。

 

「…でも本当は、そうすることで、自分の無力さから、私が救われたかっただけなのかもしれないわね」

 

 自己嫌悪が、彼女の声を湿らせる。いつも凛として、太陽のように笑っている彼女の、初めて見る弱さだった。鬼である自分にさえ、常に変わらぬ優しさを向けてくれた彼女が、今、たった一人で迷い、傷ついている。

 

「あなたと出会ったことに、後悔はない。あなたがここにいてくれることは、本当に嬉しいの。でも、私のその判断が、夢が、しのぶを苦しめてる。…私が、あの子を追い詰めてしまった」

 

 とうとう、言葉は嗚咽に変わった。華奢な肩が、小さく震える。

 雲間から月が顔を出し、彼女の濡れた頬を白く照らした。

 

「…私、どこで間違ったのかしら」

 

 斎鬼は、衝動的にその肩に触れそうになる指を、強く握りしめて堪える。慰めの言葉など持っていなかった。彼にできるのは、ただ一つ。この嵐が過ぎ去るまで、隣で静かに座っていることだけだった。

 

 やがて、未だ止まらない涙を拭いながら、ふっと力なく笑った。

 

「…ごめんなさい。こんな話、楽しくないわよね」

 

「……」

 

 斎鬼は、初めて口を開いた。

 

「カナエは、優しい」

 

 あまりにも短い、飾り気のない言葉。だが、その一言に、彼は万感の思いを込めていた。カナエが、はっとしたように彼を見る。

 

「優しすぎる。だから、一人で全てを背負おうとする。…俺には、その痛みは分からない。だが、カナエもしのぶも、間違っていないんだと思う」

 

 それは、理屈ではなかった。奥底から溢れ出るそれを、伝えなければならないという衝動。常には凪いでいる彼の瞳が、その時だけは確かな熱を帯びていた。

 カナエの瞳を見つめる。これから放つ言葉が、その心に伝わるように。

 

「少なくとも俺は、お前に救われてる」

 

 カナエの瞳から、再び一筋の涙がこぼれ落ちる。だが、それは先ほどまでの絶望の色とは違う、温かい光を帯びた雫だった。

 

***

 

 カナエが自室へと戻った後も、斎鬼はしばらく縁側から動けなかった。彼女から聞こえた錆びた鉄の軋む音。その乱雑な響きの余韻が、彼の内に渦巻いていた。

 やがて、彼は導かれるように、再びあの地図盤のある部屋へと戻る。 部屋の空気は変わらない。だが、盤を見る斎鬼の目は、以前とは全く違っていた。

 

 作戦のほころび。本来、無傷で成功させられるはずが、軽傷を負って帰ってくる。一つひとつは、小さなことだ。だが、それがいつか致命傷になる絶対的な予感が、頭を埋め尽くす。

 

 彼の指が、夜啼峠で殉職した水の呼吸の隊士の駒に、そっと触れた。カナエは言っていた。責任感の強い、とても優しい子だった、と。きっと彼は、鬼の幻聴の中で、仲間の悲鳴を聞いたのだろう。それが罠だと頭で分かっていても、心が、魂が、仲間を見捨てることを許さなかった。それは戦術的には『間違い』だ。だが――。

 

 脳髄の奥底で、あの夜の記憶が灼熱の鉄のように蘇った。

 

 産屋敷邸の庭。風柱、不死川実弥が放った、魂そのものを刃に変えた嵐。殺意だけではない。母を手にかけ、弟に拒絶された、凍てつくような孤独と絶望。彼の激情は、ただの怒りではなく、守れなかった家族への慟哭だった。

 

 誰もが持っている叫び。俺はそれを知っているはずだった。

 この盤の上で死んでいった名もなき隊士たち一人一人に。不死川に。カナエに。きっと、かつて人間だった頃の自分にも。守りたい誰かがいて、譲れない意地があって、理屈では説明のつかない、どうしようもない想いが。

 

 ――カナエに、あれだけ言われたのにな。

 あの日のカナエの怒りを思い出し、自嘲の笑みが漏れる。

 不意に全く別の記憶が、彼の心に光を灯した。 いつだったか、この化け物である自分に向けられた、カナエの真っ直ぐな言葉。

 

『自分の命を危険に晒してでも、誰かを守ろうとするその心は……紛れもなく、人のものよ』

 

 そうか。俺はずっと間違っていた。この盤を神の視点で眺め、駒を効率的に動かすことだけを考えていた。違う。俺が知るべきは、駒の心だ。カナエが教えてくれた、人が人であるための証。

 

「何のために刀を振るうのか。この身を持って、知らなくてはいけない」

 

 産屋敷邸での、あの死闘のように。

 その言葉に、部屋の隅の暗がりから、小さな影が動いた。しのぶだ。彼女は薬瓶の整理を終え、ずっとそこに座って斎鬼の様子を窺っていたのだ。

 

 斎鬼は、初めて彼女の存在をはっきりと認識した。しのぶはゆっくりと立ち上がると、彼のそばに歩み寄る。その瞳には、鬼への憎悪とは別の、冷徹な分析の色が浮かんでいた。

 

「…でしたら、話が早いのは宇髄さんか冨岡さんかと」

 

 しのぶは、真っ先に思い浮かぶ姉の姿をあえて無視し、感情のない声で告げた。だが、その言葉は、迷路の中で出口を探していた斎鬼にとって、最も的確な道標だった。

 

「宇髄さんは…まあ、面白がるでしょうね。冨岡さんは…そもそも何も言わないから、拒みもしないでしょう。あなたのその奇妙な研究にも、耳を貸すかもしれないわ」

 

 斎鬼は、しのぶを真っ直ぐに見つめた。彼女の瞳の奥には、鬼への変わらぬ憎悪と、姉への複雑な想い、そして、ほんの僅かな研究者としての好奇心が、冷たい炎のように揺らめいていた。

 

「…感謝する」

 

 短い礼の言葉を最後に、斎鬼は地図盤へと向き直る。彼の脳裏では既に、次の一手を打つための新たな盤上が、静かに構築され始めていた。

 




ご感想やご指摘をいただきながら書いていると、一緒に作品を作っているみたいで、とても楽しいです。
本当にありがとうございます。
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