夜。蝶屋敷の裏手、月光だけが照らす岩場は、斎鬼だけの鍛錬の場と化していた
ヒュッ、と空気を鋭く切り裂き、木刀が振り下ろされる。その一振りは、岩棚の端を容易く削り落とすほどの重さと速度を内包していた。日々の鍛錬と、同族狩りで得た経験は、確かに彼の力を底上げしている。
だが、斎鬼の表情に達成感はない。むしろ、振るえば振るうほど、己の進む道が袋小路であるという確信だけが深まっていく。
数日前の任務の光景が脳裏をよぎった。森に潜んでいた鬼の討伐は、もはや『戦闘』ですらなく、ただの『作業』だった。地形を読み、風を読み、鬼の習性を完全に把握し、完璧な罠へと誘導する。鬼は、斎鬼の姿を一度も捉えられぬまま、死角から頸を落とされた。あまりにも一方的で、鮮やかな、そして――虚しい結末。
自分の『猟場』に迷い込めば、多少の格上でも負けることはない。だが。
「……これが、限界か」
ぽつりと、乾いた唇から言葉が漏れた。 その思考が、忌まわしい記憶の蓋をこじ開ける。
脳裏を灼くのは、不死川実弥の嵐のような斬撃。あれは戦いではなかった。血鬼術による読み、鬼の再生能力、持てる全てのリソースを防御に注ぎ込み、ただひたすらに『生存』していただけだ。一度でも読みを誤れば即死だった、あの紙一重の攻防。反撃の一太刀すら、繰り出すことは叶わなかった。
意識は、さらに深く、冷たい記憶へと沈んでいく。上弦の弐、童磨。虹彩の瞳、氷の扇子、そして血の海に沈むカナエの姿。小細工も、鬼の膂力も、磨いた技術も、何一つ通用しなかった絶対的な実力差。手も足も出なかったという言葉すら生ぬるい、存在そのものを否定されたかのような絶望感。
斎鬼の握る木刀の柄が、ミシリと音を立てる。自分の強さの本質を、嫌というほど理解していた。環境と小細工に依存しすぎている。有利な地形、相手の油断、血鬼術による読み。それらが揃って、初めて成立する脆いものだ。その鬼の再生能力さえも、以前より衰えてきている。
それら全てを意に介さず、純粋な『力』と『技』でねじ伏せる絶対的な強者の前では、自分はあまりにも無力だった。
何か、根本的なテコ入れが必要だ。今のままでは、いつか必ず、同じ絶望を繰り返す。
この行き詰まりが、あの地図版の前での閉塞感と似ている気がした。だとすれば。
「…刀を振るう『心』を知る」
それはきっと、盤上だけではない。
誰に言うともなく呟くと、彼は木刀を静かに納める。そして、カナエがいるであろう屋敷の方へと、その視線を向けた。
***
翌日の昼下がり。縁側では、カナエが穏やかな表情で書物を読んでいた。柔らかな陽光が彼女の横顔を照らし、蝶屋敷には穏やかな時間が流れている。その静寂を破るように、斎鬼が姿を現した。
彼は、カナエの数歩手前で足を止める。一度口を開きかけて、しかし言葉にはならず、乾いた唇を固く結ぶ。昨夜の覚悟が、この陽だまりの前ではあまりにも身勝手な願いに思え、鈍っていくようだった。
意を決し、斎鬼は真っ直ぐに彼女の目を見て、深く頭を下げた。
「カナエ。俺に、もう一度稽古をつけてほしい。お前の花の呼吸を、その刀を振るう『心』を、俺は知りたい」
その言葉に、カナエは読んでいた本を静かに閉じ、驚いた表情も見せずに、全てを見透かしたように穏やかに微笑んだ。
「ええ、いいわよ。あなたがそう言ってくれるのを、ずっと待っていたから」
彼女の瞳には、彼の成長を心から喜ぶ温かさが浮かんでいた。それは、彼が蝶屋敷に来てからずっと向けられていた信頼の色。だがその奥に、ほんの一瞬、どこか縋るような色が宿ったように見えた。
「…すまない」
絞り出すような彼の謝罪に、カナエは悪戯っぽく笑う。
「謝ることじゃないわ。そうね…。稽古は、明日からでいいかしら?」
斎鬼が頷くと、カナエは静かに立ち上がる。
その表情から穏やかな微笑みがふっと消え、瞳が喜びと戸惑いの間で揺れる。やがて、その瞳には深い苦悩の色が差した。彼女の脳裏をよぎったのは、疑いようもなく妹の姿だった。
***
薬湯室の空気は、夜の冷気と、煎じられる薬草の苦い匂いで満ちていた。ガラスの薬瓶が棚に並び、月明かりを吸い込んでは青白い光を放っている。その中で、しのぶは一人、背を丸めるようにして薬研に向かっていた。ゴリ、ゴリ、と硬質な薬草がすり潰される乾いた音だけが、部屋の静寂を削り取っていく。
「しのぶ」
背後からかけられた声に、しのぶの手がほんの一瞬、止まった。だが、彼女は振り返らない。再び、薬研を挽く音が、先程よりも少しだけ速く、そして強く響き始めた。
カナエは、入り口の柱にそっと背を預ける。肺に残る古傷が、冷たい空気を吸い込むたびに、微かな痛みを訴えているように感じた。
「あなたに、頼みたいことがあります。これは、蝶屋敷の主人としての、命令です」
ゴリ、という音を最後に、しのぶの手がぴたりと止まった。訪れた沈黙が、薬草の匂いを一層濃くさせる。 彼女がゆっくりと振り返る。その顔に表情はなく、瞳は磨かれた黒曜石のように、何の光も映していなかった。
「命令…ですか」
その声は、まるで遠い場所から聞こえてくるかのように、温度がなかった。
「あなたに、斎鬼くんの稽古相手になってあげてほしいの」
一瞬の沈黙。次いで、しのぶの唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。それは、笑みと呼ぶにはあまりにも冷たい、刃物のような形だった。
「……姉さん。何を、言っているの。父さんと母さんを殺した、あの忌まわしい化け物の同類。それを…私が?」
胸中に渦巻く感情が、彼女の握りしめた乳棒の柄を軋ませる。カナエは、その痛みを全て受け止めるように、真っ直ぐに妹を見つめ返した。
「ええ。その通りよ」
カナエは一歩、妹へと踏み出す。
「でも、あの人は…必要なの。鬼舞辻無惨を滅するために。…そして、しのぶ。あなたを守るためにも」
その声が、静かに、重く、薬湯室の空気を支配した。しのぶは、何かを言い返そうとして、唇を固く結んだまま俯いた。肩が、微かに震えている。
「お願い、しのぶ。私はもう、あの子を強くしてあげられないの」
懇願するような響き。それは、命令などではなかった。
姉の言葉が、必死でかき集めた憎しみでつくった心の壁を、容赦なく突き崩していく。
長い、長い沈黙が落ちる。乳鉢に残った薬草の匂いだけが、二人の間に漂っていた。
「…姉さんは、いつだってそうだ」
しのぶはふっと、諦めたように細く息を吐いた。顔を上げた時、その瞳からは先程までの激情が消え、冷たい湖面のような静けさが戻っていた。
「…分かりました。任務として、お受けします」
「しのぶ…」
「ただし、これは稽古ではありません。査定です。彼が私の剣について来られないなら、それまでのこと。…姉さんは、ただ黙って見ていてください」
彼女はそう言い切ると、カナエに背を向け、再び薬研へと向き直った。その背中が、これ以上、話すことはないと、何よりも強く伝えていた。
***
夕暮れが蝶屋敷の庭を茜色に染め上げていた。普段は隊士たちの声が響く鍛錬場も、今は水を打ったように静まり返っている。 向かい合うのは、木刀を構えた斎鬼としのぶ。数歩離れた縁側では、カナエが息を呑んで二人を見守っていた。
「始め」
カナエの静かな声が、開始の合図となった。
先に動いたのはしのぶだった。シュッ、と空気を切り裂き、繰り出されるのは流麗な花の呼吸の型。その剣筋はかつてカナエが振るったものと寸分違わず、しかしそこには花のような穏やかさはなく、ただ相手を拒絶するような冷たい鋭さだけがあった。
斎鬼は、その太刀筋を紙一重でいなす。彼は攻めなかった。ただひたすらに、その完璧な型を目に、体に焼き付ける。一つ一つの動きが次の動きへと繋がり、力が淀みなく循環していく。自分の力任せな剣とは、何もかもが違った。
数合打ち合った後、しのぶがふっと距離を取る。
「遊んでいるんですか?それとも、これがあなたの全力ですか」
その声には、明らかな侮蔑の色が滲んでいる。
挑発。斎鬼はそれに乗った。彼は花の呼吸の模倣を捨て、重心を低く落とす。斎鬼の動きが、一変した。
型を餌とした不規則な踏み込み、獣のようなフェイント、再生を前提とした捨て身の突進。その予測不能な動きに、しのぶの完璧な型がわずかに乱れる。
その時、カナエの眉が微かに動いた。 今の、しのぶの体捌き。斎鬼の突進を受け流した一瞬の重心移動。それは、花の呼吸のそれではない。より速く、直線的で、無駄を削ぎ落とした動き。
見覚えがあった。夜更けの鍛錬場で、あの子が独り、誰にも見せず繰り返していた突きの鍛錬。あの時の動きだ。花の呼吸の合間に、ほんの僅か、あの夜の動きの『欠片』が混ざり始めている。
カナエの背筋に、ぞくりと鳥肌が立った。しのぶはただ、花の呼吸を振るっているのではない。斎鬼という未知の剣を前に、無意識にか、あるいは意図的にか、己が研鑽してきた新しい動きを織り交ぜている。
斎鬼が勝機と見て、懐に深く踏み込んだ、その刹那。
しのぶの纏う空気が、完全に変質した。彼女の構えが、見たこともない低い姿勢へと沈む。呼吸音が、ヒュッと細く、鋭いものに変わった。
技の名を叫ぶ声はない。ただ、しのぶの姿が霞み、次の瞬間には斎鬼の眼前へと肉薄していた。放たれたのは斬撃ではない。切っ先ただ一点に、全速度と体重を乗せた、神速の突き——。
乾いた破裂音が、夕暮れの静寂に響き渡った。
斎鬼の右手から、木刀が弾き飛ばされ、宙を舞う。何が起きたのか理解できぬまま、彼の喉元には、しのぶの木刀の切っ先が寸分違わぬ精度で突きつけられていた。
鍛錬場に、沈黙が落ちる。
縁側で見ていたカナエが、息を呑んだまま固まっていた。夜な夜な見ていたあの『欠片』が今、一つの完成された『型』として目の前にある。
まだ、粗はある。しかし、呼吸、歩法、筋肉の連動、その全てが、カナエの知らない理で組み上げられていた。
妹の孤独な努力の結晶。そして、自分のもとから巣立っていく覚悟の証。カナエの胸に、驚きと、誇らしさと、少しの寂しさが、熱い塊となって込み上げてきた。
呆然とする姉を一瞥し、しのぶは静かに木刀を引いた。その顔に、勝者の高揚感はない。
「査定は、終わりです」
彼女は斎鬼ではなく、カナエに向かってそう告げた。そこには、無機質な響きだけがあった。
「力だけでは、速さの前では無意味。覚えておくといい」
しのぶはそれだけを吐き捨てると、弾き飛ばされた木刀には目もくれず、斎鬼に背を向け、屋敷の奥へと去っていった。
***
彼は振り返り、静かに自分を見つめているカナエに問いかけた。
「…カナエ。お前の目に、俺の剣はどう映った」
その声は、敗北を認めた者の、静かで真摯な響きを持っていた。
「…その前に、あなたに聞かせてほしいの。あなたの目に、今のしのぶの突きは、どう映った?」
カナエの瞳は、何か大切なものを見極めようとしているかのように、真剣だった。
斎鬼は一瞬戸惑ったが、脳裏であの神速の一突きを再生する。
「…速い突きだった。だが、まだ力任せで、呼吸も浅い。なのに俺の読みと反応を、速度と精度が上回った。…いや、何かが上回らせたんだろうな」
カナエは頷き、今度は斎鬼の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの剣は…そうね。いつも、正しい。あなたは、剣を振るう一瞬一瞬、常に考えているのでしょう?どうすれば効率的か、どうすれば生き残れるか、どうすれば目的を達せられるか…」
それは問いというより、確認だった。斎鬼は、当然のこととして頷く。
「ああ。思考を放棄すれば、死ぬだけだ」
カナエが小さく頷く。
「でも、しのぶの最後の一突きは違った。あの一瞬、きっとあの子は、何も考えていなかったと思うの」
その言葉に、斎鬼の眉が微かに動く。
「…憎しみも、焦りも、悔しさも…あの子の中にある感情の全部を、ただあの切っ先の一点に叩きつけただけ。あれは…思考じゃない。もっと別の、どうしようもない何かが振るわせた剣よ」
思考ではない、何か。そうか。そこにあったのは、ただ己の全てを賭けて相手を穿つという、純粋で、あまりにも凝縮された『意志』だけだ。
「……あの時と同じか」
ぽつりと、斎鬼の口から声が漏れた。脳裏に過るのは、不死川の最後の一撃。彼は、己の木刀に視線を落とす。
「俺の剣には、『意思』がない。あるのは、借り物の型に、都合のいい理屈だけ。だから…」
斎鬼は、顔を上げた。その瞳には、進むべき道を見出した者の、静かで強い光が宿っていた。
「だから、あの剥き出しの意志に、負けた」
それは、彼が初めて、自らの限界を認めた瞬間だった。その覚悟を受け止め、カナエは、ようやく心からの優しい微笑みを浮かべる。
「…あなたの戦術盤には、まだ駒が足りなかったのね」
「ああ。だから、やはり知らなければならない」
斎鬼の声は、もはや揺らいではいなかった。
「呼吸の戦術的価値だけではない。その刀を振るわせる『意志の源泉』を。…そして、俺が刀を振るう、本当の理由を」
「ええ。…でも、きっともう、あなたの中に答えはあるはずよ。だから大丈夫」
確信をもった瞳で、斎鬼を見つめる。
斎鬼が、驚いたように固まる。カナエは、その旅路の始まりを祝福するように、強く、そして優しく頷いた。