境界の斎鬼   作:eebbi

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空っぽの剣

 しのぶに敗北してから、斎鬼の日常は一変した。

 

 昼間は、蝶屋敷の鍛錬場でカナエと木刀を交える。夜は、独り裏手の岩場で、昼間の稽古で得た課題と向き合う。自らの剣が、あまりにも『空っぽ』であるという事実。その出発点から、彼は逃げることをやめた。

 

 その夜も、斎鬼は岩場で独り、木刀を構えていた。しのぶが見せた、神速の一突き。カナエが振るう、全てを受け流す円舞の剣。彼女たちの刃には、斎鬼の剣にはない、確かな『意志』の輝きがあった。

 

 ――自らの『意志』とは、何だ?

 

 彼を突き動かす、最も強大な感情。それは、あの日抱いた鬼舞辻無惨への憎悪のはずだ。彼が生き永らえるための、唯一の意味。斎鬼は、その黒く燃え盛る感情の全てを刃に乗せるイメージで、大きく息を吸い込んだ。

 

 衝撃。放たれた一撃は、前方の巨岩を粉々に砕き、空気を震わせるほどの破壊力を生んだ。だが、振るい終えた斎鬼の心を満したのは、達成感ではなく、形容しがたい空虚さと、魂が軋むような『違和感』だった。

 

 何かが、決定的に違う。

 

 確かに強力だ。だが、その力はあまりにも無秩序で、ただ破壊をまき散らすだけ。脳裏に焼き付いているしのぶの、一切の無駄なく一点を穿つ光のような突きとも、カナエの、相手の力を受け流し弧を描く剣とも、あまりにもかけ離れている。この剣の先に、あの領域はない。奥底の何かが、そう告げていた。

 

***

 

 翌日の稽古の終わり。夕暮れの縁側は茜色と黄金色の階調に染まっていた。昼間の熱気はすっかりと引いて、頬を撫ずる風には秋の気配が混じっている。庭先からは、涼やかな鈴虫の音が聞こえ始めていた。

 斎鬼とカナエは、言葉もなく並んで座っていた。カナエがそっと差し出した湯呑の、柔らかな温かさが斎鬼の掌に伝わる。

 

 静寂を破ったのは、斎鬼だった。彼は、庭の萩の花に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。

 

「憎しみを刃に乗せても、駄目だった」

 

 その唐突な告白に、カナエは静かに彼へと視線を向ける。斎鬼は、まるで己に言い聞かせるように、言葉を続けた。

 

「力はあった。だが、振るった後に残ったのは、どうしようもない空虚さだけだ。あれは、無惨が生み出した化け物の力をなぞっているに過ぎない。俺の剣ではなかった」

 

 以前の彼ならば決して口にしなかったであろう、自らの弱さの吐露。カナエは、何も言わずに耳を傾けていた。

 

「お前の剣や、しのぶの一突きには、俺にはない何かがある。……その正体が、分からん」

 

 そう言って、斎鬼は初めてカナエの方へと向き直った。その瞳には、真摯な光が宿っている。カナエは、彼の探求が新たな段階に入ったことを悟ると、慈しむように、そして全てを見透かすように微笑んだ。

 

「そう…。なら、一つ聞いてもいいかしら」

 

 彼女の声は、夕凪のように穏やかだった。

 

「どうしてあの時、私を助けに来てくれたの?あなたの言葉を借りるなら、元下弦のあなたが上弦の鬼に挑むなんて、あまりにも『合理的』ではないわ」

 

 その問いに、斎鬼の動きが止まる。彼の脳裏で、いくつもの理屈が目まぐるしく組み立てられては、崩れていく。

 

「……お前は、鬼殺隊の柱だ。重要な情報源でもある。お前を失うことは、奴の討伐にとって大きな損失になる。そう、判断しただけだ」

 

 それは、彼が必死に探し出した、最も論理的な答えのはずだった。だが、カナエはゆっくりと首を振ると、悪戯っぽく微笑んだ。

 

「本当に、それだけ?」

 

 彼女は、斎鬼の目を真っ直ぐに見つめた。その奥に、僅かな期待が滲んでいる。

 

「あの時のあなたは、今にも死にそうな顔をしていたわ。そんな状態で助けに入ることが、合理的な判断だなんて、私にはとても思えないのだけど」

 

 見透かされている。斎鬼は言葉に詰まり、視線を落とした。

 あの瞬間の自分を思い返す。血鬼術が捉えた、絶望的なまでに濃密な『凶兆』。理屈も、損得も、生存確率も、全てが思考から消し飛んだ、あの瞬間。頭で考えるより先に、体が動いていた。

 

 なぜかなど、思い出すまでもない。脳裏に浮かぶのはただ一つ。

 花の香りを纏う彼女の存在が、この世から消え失せてしまうという、耐え難いほどの喪失感。

 斎鬼は、絞り出すように、呟いた。

 

「……分からない」

 

 その声は、自分でも驚くほどか細く、掠れていた。

 

「理屈では、なかった。ただ……お前が消えるのが、許せなかった。それだけだ」

 

 それが、偽らざる答えだった。その言葉を聞いたカナエの頬が、少し赤らむ。

 

「……そう。…なら、もう大丈夫ね」

 

 カナエの唇に、花が綻ぶような、しかしどこか迷子のような不安の色を帯びた笑みが浮かんだ。その手は、何かを押し殺すように強く握られている。

 

 目の前の彼女が浮かべるその笑顔は、きっと自分が探している『輝き』の正体を宿している。しかし、その姿が胸をざわつかせた。

 

 その会話の翌日、斎鬼は一人、夜の鍛錬に没頭していた。縁側で見つけたばかりの、名付けようのない想いを剣に乗せようと試行錯誤を繰り返す。その様子を、カナエは静かに見守っていた。

 

 カナエの脳裏に浮かぶ、しのぶが斎鬼の木刀を弾き飛ばす光景。奥歯を噛み締める。彼が掴みかけた光の正体を、言葉ではなく剣で示すために、彼女は意を決した。

 

***

 

 昼下がり、鍛錬する斎鬼の元へ、カナエが木刀を手に現れた。

 

「言葉だけでは足りないわ。体で覚えなさい」

 

 有無を言わせぬ光を宿した瞳。斎鬼は即座に首を振った。

 

「駄目だ。お前の体では無理だ」

 

「あら、随分見くびられたものね」

 

 カナエは悪戯っぽく笑うが、その瞳は笑っていなかった。普段は見せない頑なさで、斎鬼の言葉を拒絶するような、強い光が宿っている。これ以上の問答は無意味だと悟り、彼は渋々木刀を構えた。ごく短い時間、軽い打ち合いだけ。それだけは譲れない。

 

 木刀を交えた瞬間から、斎鬼の剣は明らかにためらいを帯びていた。カナエの太刀筋は鋭いが、その奥に潜む身体の脆さを肌で感じてしまう。刃の芯をわざと外し、衝撃を殺すように受け流す。その守りの剣が、彼女の何かを刺激したようだった。

 

 カナエの眉が、不満げにきつく寄せられる。

 

「本気で来なさい!」

 

 叱咤と共に、空気が変わった。斎鬼の脳裏に、あの社での彼女の姿がよぎる。それほどに鋭く、速い踏み込み。まずい、と思った時にはもう遅い。

 だが、その鋭さは、ふっと霧散した。目の前で、カナエの体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 

「カナエ!」

 

 駆け寄って華奢な体を抱きとめる。腕の中は驚くほど軽く、激しい咳と共に、か細い呼吸が繰り返されるだけだった。自らの判断の甘さへの後悔が、斎鬼の胸を突き刺す。

 

 やがて息を整えたカナエが、顔を上げる。彼女の胸の奥に響く、剣士としての誇りが小さく軋む音。それでも、彼を導こうとする師としての光が、痛々しいほどに同居している。

 

 彼の心配そうな瞳を前にして、カナエは安心させるように、力なく微笑む。

 

「ごめんなさい…。やっぱり、もう稽古はつけてあげられないわね…」

 

 その声には、どうしようもない寂しさが滲んでいた。斎鬼は言葉を失う。かけるべき言葉も、彼女の無力さを慰める資格もない。

 腕の中の彼女の、消えてしまいそうなほどの儚さ。無意識に、斎鬼の腕に力が入った。

 

 沈黙の中、二人の視線が交差する。カナエは、彼の瞳の奥に不器用な優しさを見つけると、ふっと息を吐いた。

 そして今度こそ、全ての覚悟を決めた師の顔で、はっきりと告げる。

 

「だから、聞いて。私の花の呼吸はね、元を辿れば水の呼吸から分かれた枝葉なの。きっと、あなたはまず、水の呼吸を知るべきよ」

 

 その言葉は、彼女が自らの限界と引き換えに差し出した道標であり、斎鬼が進むべき道を照らす、新たな光となった。

 

***

 

 その夜、冨岡への接触を決意し、一人鍛錬場で最後の調整を行っている斎鬼の前に、その男は現れた。

 

「――てめェ、何か派手なことを企んでるらしいな?」

 

 声は、すぐ真上から降ってきた。だが、彼の血鬼術は、その男がそこに現れるまで何の『兆し』も捉えていなかった。あり得ない。背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走る。

 岩場の上に月を背負って立つ人影。その鍛え上げられた体躯と、自信に満ちた響きは一人しかいない。あの夜の、あの危機に現れた男。

 音柱、宇髄天元。

 

「……何の用だ」

 

「用があるのはてめェの方だろうが」

 

 宇髄は軽やかに岩場から飛び降りると、斎鬼の思考を弄ぶように、言葉を続けた。

 

「蝶屋敷の書庫に入り浸っては過去の記録を漁り、元花柱と夜な夜な地図盤を囲んで密会。次は水柱にでも接触するつもりだったか?ご苦労なこったな」

 

 ――筒抜け、か。

 この男は、不死川の激情とも、カナエの慈愛とも違う。こちらの思考の二手三手先を読み、盤上の駒として楽しんでいるかのような、底知れない気配。 おそらく、逃げ道はない。小細工も通用しない。ならば――。

 

「……話を聞く気があるのなら、ついてこい」

 

***

 

 埃と古い紙、蝋燭の芯が燃える匂いが、部屋の空気に沈殿している。宇髄は、壁一面を覆う巨大な地図盤を見上げ、感嘆とも嘲笑ともつかない息を漏らした。

 

「なるほどな。こいつは派手に面白い。蝶屋敷の奥に、こんな地味な司令室があったとはな」

 

 斎鬼は答えず、盤上に散らばる駒の一つを指し示した。それは、過去に鬼の襲撃によって壊滅した部隊の最後の位置を示す駒だった。

 

「この部隊は、全滅する必要はなかった」

 

 自らの仮説の核心だけを、短く告げる。

 

「呼吸は“個性”ではなく“道具”だ。鬼と地形によって、鑿や鉋のように使い分ける」

 

 斎鬼は駒をいくつか滑らせ、本来あり得たはずの布陣を再現してみせる。宇髄は黙ってそれを見ていた。最初の頃の不遜な光が瞳から消え、元忍びとしての鋭い分析の色が浮かび上がる。

 鬼殺隊の根底を覆しかねない、あまりに合理的で、革命的な発想。その価値を、宇髄は瞬時に理解した。

 

 宇髄は楽しそうに喉を鳴らすと、斎鬼に向き直った。

 

「そのド派手な計画、俺も一枚噛ませろ。取引といこうじゃねえか」

 

 彼の瞳が、獲物を見つけた獣のように細められる。

 

「まず一つ。お前の立てる作戦は、俺の担当区域で試験運用させてもらう。いいな?」

 

 有無を言わさぬ響き。斎鬼が黙って頷くと、宇髄は満足げに続けた。

 

「俺の嫁たちの命は、何よりも重いんでな」

 

 その言葉に、斎鬼はわずかに目を見開く。目の前の男の、意外な人間性。その一瞬の隙を突くように、宇髄は第二の条件を突きつけた。

 

「二つ目だ。他の奴らへの根回しは、俺がやってやる。その代わり、この情報網の統括は俺が貰う。元忍びの俺が適任だろう?」

 

 組織の未来における主導権。合理的かつ、野心的な提案。いずれにせよ、この男の情報網がなければ、将来的には破綻する仕組みだ。斎鬼には、断る理由も権利もなかった。

 彼は目の前の男の揺るぎない瞳を見つめ返し、静かに、そして深く頷く。

 

 蝶屋敷の最深部。そこで、鬼殺隊の未来を左右する、危険な密約が交わされたのだった。

 

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