境界の斎鬼   作:eebbi

28 / 61
渇望

 無数の墓標が記された、地図盤の前。依然として、張り詰めた空気が部屋を支配していた。

 斎鬼が提示した革命的な戦術。その価値を認め、協力を約束したはずの男――宇髄天元は、最後に斎鬼の全身を値踏みするように射抜いた。肌を粟立たせるような、鋭い視線。

 

「計画は派手に面白い。だが、一つ致命的な欠陥がある」

 

 静かな部屋に、自信に満ちた声が響く。蝋燭の炎が、男の挑戦的な笑みを妖しく照らし出した。

 

「……何だ」

 

「実行するてめェ自身が、弱すぎることだ」

 

 一瞬、息が止まる。自らの胸に突き立てていた刃の柄を、無遠慮に蹴り込まれたような、臓腑を抉る衝撃。視界の端が、赤く染まる。

 

 ――怒りを覚える権利など、俺にあるはずがないだろう。

 あまりにも冷たい事実が、胸の奥で燻っていた熱を一瞬で凍てつかせた。

 己の未熟さなど、誰よりも一番理解している。その未熟さが、どれだけの命を摘み取った?どれだけの幸福を奪った?あの夜、耳にこびりついた断末魔の叫び。せめてその命に報いるために、この身を地獄の業火で焼くのだ。そうしなければ、この取るに足らない命の罪は償えない。

 斎鬼は、その全てを、一度の深く静かな呼吸と共に腹の底へ沈める。再び顔を上げた時、その瞳から感情の色は消え失せていた。

 

 目の前の男は、全てを見透かしたように不敵に笑う。

 

「だから、取引の追加だ。てめェが水柱のところへ行く前に、まず俺がてめェを叩き直す。その地味な戦い方を、派手に使える本物の術にな。異論は認めねぇ」

 

「断る」

 

 思考より先に、言葉が滑り出た。脳裏を過ぎるのは、しのぶの一撃。あの澄んだ身のこなしも、自身のすべてを賭した重さも、今の自分の木刀にはない。

 今一度、『基本』に積み重ねられてきた重みを知らねばならない。それは、カナエが身をもって教えてくれたことだ。

 宇髄の眉が、面白そうにピクリと上がる。

 

「俺に足りていないのは、基本だ。カナエとの約束でもある」

 

 あの時カナエが見せた、寂しさと覚悟が入り混じった瞳。それに、報いなければ。

 

「ハッ、約束ねぇ」

 

 宇髄が、心底面倒くさそうに息を吐く。手近な駒を指で弄びながら、彼はしなやかに立ち上がった。月明かりが差し込み、背負った日輪刀の柄が鈍く輝く。

 

「話にならねぇな。言葉で言っても無駄か。……来いよ」

 

 有無を言わさぬ迫力が、言葉と共に叩きつけられる。張り詰めていた部屋の空気が、質量を増したように重くなった。

 

「てめェのその小細工が、本物の前でどこまで通用するか、試してやる。裏手の岩場だ」

 

 斎鬼がわずかに息を呑むと、宇髄は鼻で笑った。

 

「……届かねぇもんに手ぇ伸ばすその目、気に食わねぇ」

 

***

 

 裏手の岩場——と言っても、蝶屋敷からは山道をしばらく下った先、谷間にある滝壺の近くだった。

 轟々と流れ落ちる水音が夜気を震わせ、全ての音を呑み込む。

 

 ここは、斎鬼の庭だ。幾度となく足を運び、岩の配置、風の流れ、地面の湿り気まで、そのすべてを把握している。多少の格上程度では、負けるはずがない。

 

 ――だが、相手は柱だ。

 産屋敷邸での一戦が蘇る。圧倒的な暴力。目で追うことすら叶わない剣技。読みを誤れば、次の瞬間には頸が飛ぶ薄氷の戦いだった。

 あれと、同格。カナエにも、不死川にも、一太刀とて届かなかった。それほどまでに、絶対的な実力差がある。だが。

 

 ――為すべきことを、為すだけだ。

 この男の真意はわからない。だが、何かを試されていることだけはわかる。

 

 戦いの始まりに、合図はなかった。

 先に仕掛けたのは斎鬼だ。夜の闇に息を潜め、小石をわざと転がす。滝壺の轟音だけが響く森の中、しかし計算された鋭い音が響く。

 宇髄の意識が、音のした方角へ一瞬向いた。その死角から手斧を放ち、同時に自らは音を立てて土を蹴り上げ、反対側へ回り込む。一息吸い込む。湿った岩肌を足指が掴み、踵に水気が吸い付く。骨が軋むほどの膂力を脚に込め、爆発的な速度で急接近し、獣じみた軌道で刃を振るった。

 刃先が、宇髄の頸を捉える。

 

 ――もらった。確信が胸を打った、その刹那。

 

「遅ぇ」

 

 背後から低い声。次の瞬間、斎鬼の身体は無造作に地面へ叩きつけられていた。視界が揺れ、肺が衝撃で鳴る。いつ動いたのかすら、理解できない。

 宇髄は振り向きもせずに鼻で笑った。

 

「お前が動く前に、お前の筋肉は“これから動く”って鳴いてやがる。全部聞こえてんだよ。心臓の鼓動も、足裏の重心もな」

 

 戯言を聞いている暇はない。痛み軋む身体を叱咤して立ち上がり、今度は地形を利用する。音が聞こえるというなら、音と音の隙間を縫うまで。岩を蹴り、枝をしならせ、三次元的に襲いかかった。だが――。

 

「チッ、地味な悪あがきだ」

 

 宇髄の指が閃く。壮絶な炸裂音と共に、視界を白が洗い流した。同時に、世界から音が消える。

 耳鳴り。焼け付く視界。体勢を立て直すより早く、首筋に冷たい刃の感触。徐々に戻った視界に、息一つ乱れていない宇髄の顔が映った。

 この状態から、どう仕掛けるか。思考を回すが、一片の隙すらない。動いた瞬間、頸が断ち切られるだろう。

 

 沈黙の中、宇髄の視線がふと、遠い過去を見るように揺れた。

 

「俺はな、守るもんがあるから、泥に這いつくばってでも勝ちをもぎ取ってきた」

 

 その声は、底知れぬほどに冷たかった。その瞳の奥に一瞬、昏い光が陽炎のように揺らめく。どこか見覚えのある光。血鬼術が、不協和音を奏で始める。

 

「てめェのその小綺麗な戦い方は、ただの自己満足だ。……それで何を守れる?——あの女一人すら守れなかったてめェが」

 

 ――守れなかった。

 その言葉が、斎鬼の胸の奥でずっと燻っていた激情を呼び起こす。

 それは、斎鬼自身が四六時中、己に浴びせ続けている断罪の声そのものだ。喉までせり上がっていたその叫びは声にならず、代わりに灼熱の塊となって胃の腑を焼く。

 脳裏に灼きつく光景。鉄錆の匂い。己の無力さ。守りたかった存在が、血の海に沈んでいく。あの夜、己の家族を貪り、たやすく無数の命を奪った時と、何も変わらない。同じ無力。同じ結末。

 

 地面に突いた膝が、鋭い岩の角に乗り上げ激痛が走る。

 血の匂い。耳の奥に残る爆音の残響。世界の全てが、自分の無力を嘲笑っているかのようだった。

 くだらない、価値のない塵芥。何も変えられず、ただ過去を繰り返すだけの木偶の坊。人の未来を奪わない分、塵の方がいくらかましだろう。

 

「黙れ」

 

 それは、誰に向けたものか。渇望が、焼け野原のような心の奥から立ち上った。

 理性が焼き切れ、憎悪が全身を支配した。再生能力に任せて強引に立ち上がり、傷だらけの身体で再び宇髄に躍りかかる。小細工も戦術もない。ただ、目の前の男を破壊するためだけの、剥き出しの暴力。

 

「お前に、何がわかる」

 

 しかし、その全てを以てしても、宇髄の双眸から笑みを消すことすらできなかった。

 渾身の一撃を、まるで子供の腕を掴むかのように日輪刀の腹で受け止めると、そのまま刃を滑らせ、手首をいとも容易く絡め取る。

 

「これがてめェの“本気”か。……本当に、反吐が出る」

 

 乾いた音とともに、日輪刀が宙を舞う。手首を捻り上げられ、抵抗しようと踏みしめた足は、宇髄の足払いでいなされる。

 身じろぎ一つできない。完全な敗北だった。

 

「立てよ。これで終わりか?その程度かよ、てめぇは」

 

 その嘲るような響きに、腹の底が煮えくり返る。だが、脳裏に過ぎった思考で、冷や水をかけられたように静まり返った。

 

 ――この程度、なんだろうか。

 何のために立つのか。それは、あの夜に、身を焼くような絶望の中で誓った贖罪のはず。決して許されることはなくとも、それを為さねばならない。無惨を討ち、惨劇の連鎖を止め、光と共に消える。それが、無様に生きながらえる理由だったはずだ。

 あの岩に放った、憎悪を込めた一撃。純粋な暴力。だが、そこに込められた『意思』は、ひどく空虚に感じられた。

 

 贖罪のために生きるのか、生きるために罪を償うのか。それさえも、わからなくなっていた。

 眩む。立ち上がるために、腕に力を込めた。だが、心の開いた穴にすべて吸い込まれるように、立ち上がることができない。戦う理由、生きる理由、その導になっていたはず誓いが、虚しく立ち消えていった。

 

「俺は、何のために……」

 

 意識を失う直前、陽だまりのような声が、名前を呼んでくれた気がした。

 

***

 

 周囲が明るくなってきたことで、斎鬼は意識を取り戻した。宇髄は、いつの間にかいなくなっていた。

 朝日が昇る前に、戻らなくては。直感が、生存を命じる。

 

 ――なぜ。

 今の自分が、生きながらえる理由がどこにある。無力で、意思もなく、無意味な暴力を振るうことしかできない化け物。

 あの地図盤の前でいくらご高説を垂れようとも、その本質は空洞だった。カナエに心を教えられても、中身も、器もない。

 それでも、日陰を目指す足が止まらなかった。生きることも、死ぬこともできない臆病者。その、なれの果て。

 

 蝶屋敷が見えてきた。斎鬼の鼻腔に、わずかに藤の花の香りが届く。温かい、陽だまりの匂い。

 本来そこに存在してはいけないはずの異分子。あの暖かさの中に存在してはいけない化け物。しのぶが向ける憎悪の視線。アオイが見せる恐怖の表情を、斎鬼は思い出していた。

 いつの間にか勘違いしていた。利用価値があるから、ここに居るだけ。それがなくなれば、自分など不要物だ。

 いつかの社で聞いたカナエの夢が、脳裏によみがえる。鬼と人の共存。あの夢の実現のために、ここに居るはずだった。

 蝶屋敷の穏やかな日常。庭で遊ぶ子供たちを見つめる、カナエの優しい瞳。オンボロでも、爪痕くらいは残せるだろう。

 

「せいぜい、役に立ってから死ね」

 

 もはや、お題目など何でもよかった。力も、意思も、存在理由もないのなら。せめて、あの陽だまりを守る『道具』くらいにはなれ。

 ぼろぼろの体を引きずって、自室に戻る。ろくな荷物もない、虚ろな部屋。己の心を映す鏡のようだった。

 

 部屋の外から声が聞こえ始めた。すみたちが起きたのだろう。

 笑い声。希望に包まれた、明るい声が響く。奪って、奪って。その数を数えることからすら逃げた自分が、きっと聞いてはいけない声。

 障子を隔てた向こう側が、踏み入れてはいけない別世界のように感じられた。

 

 足音が近づいてくる。カナエだろう。いつもより、少し速足だ。

 

「斎鬼くん……?」

 

 その声に、わずかな不安が滲んでいる。だが、その不安を拭う資格すら、今の自分にはないのではないか。

 斎鬼は、己を呼ぶ温かい声に、終ぞ答えることができなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。