境界の斎鬼   作:eebbi

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残響

 昨夜、山の方から微かに響いた爆ぜる音が、カナエの耳にこびりついていた。言い知れぬ焦燥が、胸の奥を焼く。

 幾度となく聞いた音。仕掛け人が誰か、わからないはずがなかった。

 あの日、あの街で接触してきた男――宇髄天元。その接触は計算通りで、あの時は、それが斎鬼の野望を、そしてカナエ自身の夢を前進させると確信していた。

 

 ――どうして、今なの。

 斎鬼が、ようやく意思の欠片を見つけた。それを掴むために、その大きな一歩を踏み出した今。あの瞳に宿る致命的な危うさを、その奥の光で塗りつぶさないといけないのに。

 あの爆発音。二人が戦ったことは疑いようがない。最悪の可能性が、喉の奥に引っかかる。

 

 朝。アオイやすみたちの明るい声が、遠い世界の音のように聞こえる。焦燥感に駆り立てられるまま、斎鬼の部屋へと向かっていた。

 障子の前に立つ。いつも通り、ただ名前を呼ぶだけ。たったそれだけが、やけに遠い。

 

「斎鬼くん、起きてる?」

 

 返事がない。だが、部屋の中に気配を感じる。嫌な想像が、じわじわと心に広がっていく。

 

「斎鬼くん……?」

 

 障子を開ければいい。そうすれば、きっとこの胸騒ぎは杞憂に終わる。だというのに、障子にかけた手は、石になったかのように動いてくれない。

 結局、カナエはその扉を開けられず、逃げ出すように踵を返した。

 

 昼下がり。昨日と変わらず穏やかな風が吹く縁側で、カナエは書を読んでいた。しかし、その頁はめくられず、文字の上を目が滑るだけだ。

 思考は、昨夜の出来事に支配されている。

 カナエが知る限り、宇髄天元という男は手段を選ばない。合理的で、利用価値を示せば、それ相応の舞台を用意するだろう。斎鬼が鬼殺隊で居場所を創るためには、あの男の力が必要だと、カナエは考えていた。

 

 しかし、戦闘が起こった。図上演習の利用価値だけなら、戦いは不要なはず。ということは、それ以外の価値を感じているということ。今の斎鬼にとっては、劇薬になりうるものだった。

 

 思考するカナエの耳に、足音が届く。ここ数ヶ月で蝶屋敷に新しく加わった、少し重く、大きい音。

 その音が近づくたび、心の中が冷たくなる。彼の口から出るであろう言葉を、聞きたくなかった。すぐ近くで足音が止まる。

 顔を上げるために、いつもより大きな力が必要だった。カナエの目に映る、手当てされたばかりの無数の傷と、それを遥かに上回る疲労と消耗が刻まれた斎鬼の姿。

 

 一瞬、息が詰まった。

 彼が纏う空気からは、蝶屋敷に馴染んだはずの陽光の香りは消え失せ、代わりに鉄錆の匂いと、冷たく湿った匂いがした。出会ったばかりの頃の、あの悲しい目をしている。

 

「それは……!」

 

 駆け寄ろうとしたところで、斎鬼が手で制した。彼の瞳に昏い覚悟が宿っている。カナエがもっとも恐れていたその光が、明らかに大きくなっていた。

 彼が口を開くまでの時間が、永遠のように長く感じられる。

 

「宇髄に、稽古をつけてもらうことにした」

 

 その言葉に、思考が止まる。指先から力が抜け、読んでいた本がぱさりと滑り落ちる。その乾いた音だけが、やけに大きく耳に響いた。

 ほんの一拍の沈黙ののち、声が漏れた。

 

「……やっぱり」

 

 絞り出した声は、ほとんど吐息だった。掴みかけた光が、指の隙間からこぼれ落ちていく。昨日まで胸の奥にあった、この危うさをようやく拭えるという希望が、砕ける音が聞こえた。喉に小さな棘が刺さったように声が出ない。

 

「今の俺のままでは、何も守れない」

 

 斎鬼の言葉に、カナエは唇を噛み締める。昨日だったら、その言葉は至上のものだった。だが、その目で、その言葉は、聞きたくない。その道だけは歩ませてはいけないと、直感が告げていた。

 

「……だめよ。彼の稽古は、あなたには危険すぎる」

 

 斎鬼の瞳は揺らがない。ただ無言で、その意志を伝えている。昏い意思。違う。私が気づいてほしかったのは、こんなものではないのに。悔しさに、カナエの手が固く握られる。

 昼下がりの縁側を沈黙が包む。斎鬼は目を逸らさない。

 

 ふっと、息を吐く。受け入れるしかない。だが、せめてこれだけは。

 

「……分かった。でも、約束して。あなたを、見失わないって。ただの戦うための道具にだけは、ならないで」

 

 カナエには、その真意が伝わるかなど、もはやわからなかった。だが、懇願にも似たこの願いが、楔になってほしいと祈っていた。

 斎鬼は何も答えない。ただ、カナエの目を真っ直ぐに見つめ返すと、一度だけ、力強く頷く。そして、何かを振り払うように踵を返し、去っていった。

 その背中を見送る。強く握りしめられていた己の拳から、何かを諦めるように、ふっと力を抜いた。

 

***

 

 斎鬼が蝶屋敷を発った夜。

 その日も、薬湯室の空気は、夜の冷気と煎じられる薬草の苦い匂いで満ちていた。

 月明かりがガラスの薬瓶に差し込み、青白い光を放っている。その中で、胡蝶しのぶは一人、背を丸めて顕微鏡を覗き込んでいた。彼女の世界は、レンズの先にある小さな硝子の円盤――シャーレの中に収縮している。

 

 そこにあるのは、斎鬼から採取した鬼の細胞と、彼女が心血を注いで完成させた高濃度の藤の花の毒。しかし、レンズ越しに見える光景は、しのぶの心を苛立たせるには十分だった。

 鬼の細胞は、確かに毒に蝕まれ、増殖を著しく阻害されている。だが、死なない。細胞膜が、まるで意思を持っているかのように毒を異物として認識し、全力で拒絶、排出しようとしぶとく抵抗を続けている。

 

「ダメね……。これではただの忌避剤。再生を遅らせるだけで、殺しきれない」

 

 誰に言うでもなく、ささくれ立った声で呟く。どうすればこの鉄壁の抵抗を乗り越えて、細胞の核まで毒を届けられるのか。その答えが見つからないまま、時間だけが過ぎていく。

 苛立ちと焦燥が、手元を狂わせた。試験管が手から滑り落ち、甲高い音を立てて床に砕け散る。

 一瞬、怒りで視界が赤く染まった。無理やり片付けようとして、指を切ってしまった。鋭い痛みと共に、赤い血が流れる。この鬱屈とした心もすべて、これと一緒に流れてしまえばいいのに。意味のない願望が、浮かんでは消える。

 

 ――何をやっているんだろう、私は。

 遅々として進まない研究。意地を張って姉を傷つけて、成果は何もない。憎い鬼に手を差し伸べられて、その手を取るしかなかった自分。結局、優しさに甘えていたあの頃と何一つ変わっていない。

 

 その時、入り口からがたりと音がした。そこにあったのは、カナエの姿。何かの本を抱えている。その顔に浮かぶ少し怯えたような表情が、妙に胸に引っかかった。

 カナエの視線が、指の切り傷を捉える。

 

「しのぶ、大丈夫!?」

 

「――大丈夫だから!」

 

 ヒステリックな声。言いたくないのに出てしまう強い拒絶。喉がきしむ。後悔で胸が痛んだ。しかし、そんなことお構いなしに、足音が近づいてくる。

 

「傷痕が残ったら大変。きれいな指なんだから」

 

 姉の手が優しく指に触れる。こんな態度の自分にさえ、その優しさは絶えない。ただ意固地になっているだけ自分が、余計に惨めに思えた。

 温かい手が、自分の指を丁寧に治療していく。そこから伝わる温度が、凍てついた心をじんわりとほどいていくような感覚。

 

 沈黙が二人を包む。手から伝わる久しぶりの温もりが、心に染み渡る感覚を、ただ逃したくなかった。

 ぽつりと、しのぶが口を開く。

 

「研究が、進まないの」

 

 気づいたら、弱音がこぼれていた。藤の花の毒を抽出できるようになった喜び。それが上手く効かない焦り。鬼を殺す毒を創るために、斎鬼に頼るしかない惨めさ。一人で抱えきれなくなっていた感情が一度こぼれ出したら、もう止められなかった。

 まとまりのない、支離滅裂な独白を、姉は何も言わず、静かに聞いている。今は、その無言が嬉しかった。

 

 言葉が尽き、薬湯室に静寂が落ちる。

 

「……しのぶは、すごい子よ」

 

 静かな、しかし心の奥まで響くような、凛とした声が鼓膜を揺らす。

 

「私には、毒なんて作れないもの。それに、この前の型。すごくきれいだったわ」

 

 伏せていた顔を上げ、姉の目を見る。真っ直ぐに、優しい色を湛えた双眸が、自分の心の奥底まで見つめていた。

 マメで硬くなった手が、しのぶの頭をなでる。ずっと私を守ってくれた手。

 

「頑張ったのね。私、しのぶのことが誇らしいわ」

 

 その言葉が、温もりが、しのぶの中で凝り固まっていたものを溶かしていく。喉の奥で何かがせり上がり、視界が滲む。ずっと張り詰めていた指先から力が抜け、握りしめていた薬匙がカラン、と乾いた音を立てて床に落ちた。流れ落ちる涙が、止まらなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

 ようやく言えた一言。余計な意地を張りすぎた。これを言うために、ひどく遠回りをしてしまった。

 体が、温かい腕に包まれる。頭の上から、姉の柔らかな声が聞こえてくる。

 

「……いいえ、私が悪いの。しのぶの頑張りを、気持ちを、否定しちゃいけなかったのよ。……ごめんなさい」

 

 耳に届く鼓動が、少し早まった。腕に、少し力が入っている。覚悟を決めるように浅く息を吸う音が聞こえると同時に、カナエが口を開いた。

 

「しのぶには、今でも戦わないでほしいと思ってる。……こんな思い、しのぶにはしてほしくないもの」

 

 姉の手が、上弦の鬼につけられた傷痕をなでる。その手が震えていた。また、やり場のない怒りが膨れ上がる。

 しかし、見上げた先にある、自分を見つめる瞳が不安げに揺れていることに気づいて、心の奥の激情がしぼんでいく。

 

「でも、しのぶは優しいから。そうやって怒ってくれる。……だから、私も覚悟を決めるわ」

 

 視線が、先ほどまでしのぶが操作していた顕微鏡に向く。

 その横顔には、どこか悲壮さが滲んでいるように見えた。

 

「――毒を、完成させましょう」

 

 わずかな違和感に蓋をして、しのぶは強く頷く。

 ふっと温もりが離れた。名残惜しさを感じながら姉を見ると、先ほど持っていた本を取り出している。

 

「じゃあ、仲直りの証として、これ。あとで一緒に見ましょう?」

 

 おどけたような声とともに渡されたのは、最新の研究機器のカタログ。普通では手に入らない、とんでもない額の機器が所狭しと並んでいる。

 これは、つまり――。

 

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