あの夜から、数日が過ぎていた。
斎鬼の心には、未だにあの不思議な花の香りの記憶が残っていた。鬼殺隊の剣士が放つとは思えない、温かく優しい香り。それは、飢餓と罪悪感に苛まれる彼の日々において、あまりにも異質なものだった。
気に迷いだと、彼は自らを戒めた。鬼狩りは鬼狩り。人間は人間。決して相容れることのない存在だ。彼らが自分を見つければ、問答無用で頸に刃を突き立てるだろう。それが道理だ。自分は、そうされるべき存在なのだから。
その夜、斎鬼は麓の村近くの森にいた。
近頃、夜になると若い娘が姿を消すという。典型的な鬼の仕業だった。彼は、村を見下ろせる丘の木の上から、静かに獲物が姿を現すのを待っていた。
夜が更け、村が寝静まった頃。一人の娘が、薬草を煎じるためか、家の外にある井戸へと向かった。その一瞬の隙を、闇は見逃さなかった。
井戸の影から、ぬらり、と異形の鬼が姿を現す。蛇のように長い首を持つ鬼だった。鬼が娘に襲いかかろうとした、その瞬間。
「――花の呼吸 弐ノ型 御影梅」
凛とした、鈴の鳴るような声が響いた。
声と同時に、一閃の光が闇を切り裂く。まるで蝶が舞うかのような、優美で、しかし寸分の無駄もない太刀筋が、蛇鬼の頸を正確に捉えた。
ゴトリ、と音を立てて鬼の首が落ちる。胴体は、何が起きたのかもわからぬまま、塵となって崩れていった。
「あらあら」
声の主は、いつの間にかあの鬼の背後に立っていた。蝶の髪飾りをつけた、柔和な笑みを浮かべる女剣士。その隊服は、鬼殺隊の中でも最高位である「柱」の証。そして、あの香りの主……。
斎鬼は息を呑んだ。先日の夜に感じた、あの不思議な花の香りが、彼女から漂ってくる。 女剣士――花柱・胡蝶カナエは、鬼が完全に消滅したのを見届けると、襲われていた少女を逃し、顔を上げた。
その視線は、斎鬼が潜む木の上へと、まっすぐに向けられている。
「そこにいらっしゃるのでしょう?……降りてきてはいただけないかしら」
その声には、敵意も殺意もない。ただ、静かで、透い響きだけがあった。
斎鬼は、逡巡した。かろうじて逃げることはできるだろう。しかし、あの花の香りと、今目の前にいる女剣士の不思議な雰囲気が、彼の足を縫い付けていた。
彼は、音もなく木から降り、カナエから距離を取った場所に降り立った。
カナエは、刀を鞘に収めたまま、静かに斎鬼を見つめている。
「あなたが噂の『同族狩り』ね。私は胡蝶カナエ。あなたは?」
「……」
斎鬼は答えない。ただ、いつでも動けるように、全身の筋肉をわずかに緊張させる。
「あなたは人を襲わない。そして、同族を狩る。……どうして?」
カナエの問いは、純粋な疑問だった。彼女が長年抱き続けてきた、鬼と人は、仲良くできないのかという、答えの出ない問い。その問いに対する、初めての例外が、今、目の前にいる。
斎鬼の喉が、ひりついた。答えなどあるはずがない。贖罪。復讐。そんな言葉が、目の前の穢れを知らない女の前で、ひどく独りよがりで空虚に響いた。
「……お前には、関係ないことだ」
突き放すような言葉とは裏腹に、その視線はカナエから僅かに逸れていた。
「……奴は、俺の獲物だった。それ以上でも、それ以下でもない」
斎鬼が背を向け、この場を去ろうとする。
「待って!」
カナエが、もう一度呼び止める。
「あなた、とても悲しい目をしているわ」
その言葉に、斎鬼の足が、縫い付けられたように止まった。
悲しい目。この女は、俺の顔を見て悲しいと言った。化け物だと、醜いと、そう言うのではなく。
「鬼だって、元は同じ人間だったはずなのに……。もし、あなたのような鬼がいるのなら、私は……」
カナエは、独り言のように、しかし、確かに斎鬼に届くように言った。
「……いいえ。ごめんなさい、独り言よ」
その言葉は、斎鬼にとって、あまりにも予想外のものだった。鬼狩りの柱が、鬼である自分に、何かを期待するような、そんな眼差しを向けている。
斎鬼は、何も言えなかった。この場にいることが、ひどく落ち着かない。彼は、カナエの返事を待たず、夜の闇へと溶けるように姿を消した。
後に残されたのは、静かに佇むカナエと、夜明け前の冷たい空気だけだった。 カナエは、鬼が消えた闇を見つめながら、呟いた。
「……もう一度、話さなければ」