肉の削げる音がした。
それは、始まりに過ぎなかった。
月明かりだけが照らす、水飛沫に濡れた岩場。斎鬼という存在を、経験を、矜持を、根こそぎ否定され続ける日々の、まだ入り口。心が砕ける音は、この先に待つ本当の地獄に比べれば、まだ優しいものだったと、彼はやがて知ることになる。
小賢しい知恵など、何の役にも立たなかった。
息を殺しての奇襲。それは衣擦れの音を聞きつけたという一言で、児戯のようにいなされた。間断ない爆破による聴覚の飽和は、爆風の唸りそのものがこちらの位置を教える道標となった。
聴覚が駄目なら嗅覚だと、刺激の強い薬草を焚いて五感を潰しにかかっても、嘲笑うかのように、煙の中から伸びてきた腕に叩き伏せられた。
鬼としての膂力と、かつてカナエに教わった花の呼吸。あらゆる餌を散りばめた刃は、しかし、赤子の手を捻るようにいなされ、木刀は何度も乾いた音を立てて宙を舞った。その度に体にめり込む強烈な打撃の痛みよりも、心が砕ける音の方が、よほど大きく響いていた。
そして、五日目。
万策尽きた斎鬼に残された最後の策。――空間を潰す。
池の中心に、斎鬼は“音の棺“を築いた。
水底には、泥と苔を敷き詰めた吸音床。池の縁には、微かに揺らぐ霧と水膜。頭上からは、香の煙がわずかに流れ込み、風の流れを変えている。微細な水膜が高周波を反射し、霧と香が低音を吸収することで、音は、構造的に閉じ込められる。
すべてが、音の行き場を奪っていた。
宇髄の世界が鈍る。聞こえてくるはずの反響が、まるで何かに吸い込まれたように返ってこない。
「面白い発想だ。五感、全部を逆手に取って、俺を騙す気だったんだろうが――」
宇髄の右手が、背の刀へと伸びる。
「……“気配”ってのはな、そんな浅いもんじゃねぇんだよ」
風も、音も、匂いもない。だが、その空白にすら、“違和”はある。
宇髄が抜刀した瞬間、空気が断ち割られた。その一閃は、水面を貫き、空間の歪みを裂く。
“音の棺”が砕け散り、水が弾け、斎鬼の姿が露わになった。咄嗟に反応し、水飛沫の中から斎鬼が飛び出す。だが、その動きすらも手首を掴まれ、容易く封じられた。
「俺が聞いてんのは単なる音じゃねぇ。空間に響く『音の設計図』そのものだ。一部が変われば、全体が歪む」
身動きが取れない斎鬼の髪を掴み、宇髄は顔を覗き込むようにして言った。
――無様だな。
己の知恵も、力も、経験も、この男には届かない。
「何度でも言うぞ。反吐が出る」
宇髄の声から、楽しげな響きが消えた。
「てめぇの戦い方は、どこまでいっても小賢しいだけだ。泥に這いつくばってでも勝ちをもぎ取る執念。それがてめぇには微塵もねぇ。この程度か? 諦めるのか? 派手に期待外れだ」
その言葉が、斎鬼の心の最後の砦を、粉々に打ち砕いた。体から力が抜けていく。世界から色が消え、音が遠のく。
――陽だまりの匂い。『カナエ様みたい』と、笑い声がする。
俺は鬼だ。あの場所に居てはいけない存在だ。
――『お前は、本当に優しい子だねぇ…』。囲炉裏の火に照らされた母が、愛おそうに目を細める。
家族を、人を喰らって『優しい』など、ありえない。
――血の海に沈むカナエの姿。『……あなたを、見失わないで』。
……ああ、そうだ。それでも俺は、約束した。
蝶屋敷を出る前にカナエが見せた、悲壮な光。カッと、絶望の闇の中で炎が燃え上がった。
思考が灼けつく。宇髄の動き。斎鬼の動き。一手、二手先を読む。常にそうだ。それが己の戦い方。生き残るための術。
だが、"生き残る"では不十分だ。カナエは死を覚悟していた。守るために、命を懸けていた。
価値のない生に縋る臆病者。思考を捨てれば。五感を捨てれば。この臆病な自分を、殺せば。あの陽だまりに、帰れるだろうか。
いや、帰らねばならない。
「くだらない」
「あ?」
地の底から響くような、尋常ならざる声。
「……血鬼術も、思考も、技も。臆病者の俺にはお誂え向きだ」
斎鬼は、自らのこめかみに指を当てる。頭の中で騒ぐ思考も、血鬼術が伝える感情の濁流も、五月蠅くて仕方がない。
「――邪魔ならば、捨ててしまえばいい」
次の瞬間、彼は何の躊躇もなく、その指を自らの眼球へと突き立てた。
指先に、生々しい弾力と、それを突き破る柔らかな感触が伝わる。ブツリ、と鈍い音が頭蓋に響いた。脳を直接掴んで捩じ上げられるような激痛。鼻の奥に、鉄の匂いがツンと広がった。
「てめェ、何を……!」
宇髄の驚愕の声が響く。掴んでいた斎鬼の髪から、思わず手が離れた。
ユラリと立ち上がる。地を這うような声で、斎鬼は叫んだ。
「血鬼術も、思考も、五感も、俺を縛るすべてを捨てる。その上で、もう一度、お前に挑む」
血を流しながら立つその姿は、常軌を逸していた。だが、その虚ろな眼窩から放たれる狂気にも似た光に、宇髄は一瞬動きを止め、そして、獰猛な笑みを浮かべた。
「……ハッ、面白い。派手にイカれてやがる」
彼は、構え直した斎鬼に向き直る。
「いいぜ、乗ってやる。てめェのその地味な覚悟が、本物かどうか。この俺が、骨の髄まで見極めてやる」
本当の『稽古』が、今、始まろうとしていた。
***
道場に、風を斬る音が響く。
何度も握り潰され、ささくれ立った木刀の柄が、血と汗で滑る。一振りするごとに、手の皮が裂け、肉が抉れる。
それは、宇髄が課した〝罰〟だった。
「思考した者は、斬る」
神出鬼没に現れた宇髄は、そう言い放った。
「ただし、斬るのは俺じゃねぇ。てめぇ自身が、てめぇの弱さをだ」
その言葉が、この地獄の始まりだった。
宇髄は去り際に、いくつかの理不尽な課題を残していく。それは、斎鬼に残された旧い生存本能――「思考し、予測する」という悪癖を炙り出し、絶つための儀式に他ならなかった。
ある時、宇髄は道場の床に砂を撒き、こう言った。
「この砂の上に、俺が小石を一つ落とす。お前は、その石が落ちた場所を、ただ感じろ。考えんじゃねぇ。肌で、骨で、空間の響きの変化だけを捉えろ」
斎鬼は神経を研ぎ澄まし、全身の感覚を床に広げる。
やがて、遙か遠くで、空気が微かに揺れた。砂の一粒が、重力に引かれて落ちる、その予感。
――来た。
だが、これは陽動か? 本命は、俺の背後から――。
思考がよぎった、その瞬間。
空気を裂く鋭い音と共に、斎鬼の額に凄まじい衝撃が走った。宇髄がいつの間にか指で弾いた小石だった。斎鬼の意識の外から、予測も思考も置き去りにして、それは正確に急所を穿っていた。
「思考したな」
地獄の底から響くような、冷え切った声。
「てめぇは、俺の小石が『陽動』かもしれねぇと考えた。その一瞬の思考が、全身の感覚を濁らせ、俺の本当の殺気を見失わせた。ドブみてぇに臭ぇその癖が抜けるまで、ひたすら振り続けろ」
これは、ただの素振りではない。宇髄が認める、たった一つの『澄んだ音』を奏でるまで、終わることは許されない。
痛みも、疲労も、どうでもよかった。斎鬼の世界から、宇髄の姿も、道場の景色も消え失せる。ただ、脳内で渦巻く『雑音』と、それを振り払うかのように繰り返される剣の風切り音だけが存在していた。
一振り。違う。もう一振り。これも違う。まだ、雑音が混じっている。
血と汗にまみれ、意識が朦朧とする。自身の輪郭が薄れていく感覚。
無意識に呟く。
「すべて、捨てろ」
その時。
もはや何も考えられなくなった斎鬼の腕から、まるで身体の一部が抜け落ちるかのように、木刀が滑り落ちた。
ヒュッと、これまで聞いたこともないほど、鋭く、澄み切った一音が響く。
顔を上げた斎鬼の前に、いつの間にか宇髄が立っていた。
「……派手に無様だが、今のは悪くねぇ音だった」
***
治療を終え、斎鬼は泥に沈むような足取りで部屋へ戻る。潰した片目はまだ世界を歪ませ、視界の端に残るのは赤黒い残像ばかりだった。
机に、一通の封。蝋の封を指先でなぞった瞬間、薬草と陽光の匂いがした。
痛みも疲れも忘れ、震える指先で封を裂いていた。不自由な片目で文字を追う。
アオイが今日も元気に仕事をしていること。なほが「正治さんはいつ帰ってくるの」と尋ねてきたこと。しのぶが研究室に籠もりきりなこと。
ただの近況。穏やかな日常の断片。陽だまりの温もり。
その文字を、指でなぞった。紙のざらつき。墨の滲み。思い浮かぶ、手紙を書くカナエの姿。
ふと、縁側に座っている気がした。
隣にはカナエがいる。子供たちの笑い声がする。しのぶが呆れたようにため息をつき、アオイが困ったように笑っている。カナヲが、じっとこちらを見ている。
口の中に、感じないはずのあんこの甘さが広がる。
はっと我に返る。
そこは血と鉄の匂いがする、殺風景な部屋だった。口の中に甘さはない。ただ、潰れた眼窩が鈍く痛むだけだ。
だが、掌の中には、確かにあの陽だまりの温もりが残っていた。
言葉にならない衝動に、思わず息を詰める。
存在してはいけない異分子。利用価値があるから、あの陽だまりに身を置ける。ただそれだけの『道具』が、抱いてはいけない感情のはずだった。
それでも、あの空間から疎外されることが、恐ろしくてたまらない。
彼は手紙を静かに畳み、掌で包み込む。その薄紙の温もりが、地獄の中で唯一の陽光のように、魂の底で静かに燃え続けていた。
***
その夜も、薬湯室の奥に新設された研究室の灯りだけが、蝶屋敷の闇の中に煌々と灯っている。
「すごいわね、しのぶ!」
その灯りの下、見たこともない設備に目を輝かせ、カナエがはしゃいでいる。しかし、その明るさに少し違和を感じていた。
新しく運び込まれてきた、舶来品の最新式顕微鏡。精密な実験を可能にするガラス器具の数々。鬼の細胞を培養するための、温度管理された棚。分厚いカタログの中から、二人でうんうん唸りながら、何とか選び出した設備だった。
「……姉さん、はしゃがないで。壊れたらどうするの」
ため息をつく。とはいえ、これで大人しくなる姉ではない。案の定、マニュアルを読みながらピーピーとなる音に、どうしたらいいのなどと大騒ぎしている。
それを横目に、しのぶは顕微鏡へと視線を向ける。機材は姉が準備してくれた。試料もいつでも用意できる。あとは、実験をするだけ。
しのぶの頭の中には、一つ仮説があった。姉と再び心を通わせたあの夜、自分の指から流れる血を見た時の、ただの思い付き。
――血を、毒に混ぜる。
鬼の細胞が持つ藤の花の毒への忌避感と、鬼の醜い本能、どちらが勝るか。検証する価値は十分にある。
彼女の脳裏に、以前シャーレの中で血の匂いに狂喜した鬼の細胞のイメージが、鮮烈にフラッシュバックした。
レンズの先に、斎鬼から採取した組織を置いたシャーレを設置する。顕微鏡のレンズを覗いた。格段に上がった分解能のおかげで、これまで捉えられなかった組織内の細胞一つひとつを観察できるようになっていた。
繊細に調整した藤の花の毒を、その組織片へと垂らす。
いつものように、その毒を避けるように、鬼の細胞が移動し始める。何度も見た、つまらない光景。
ならばと、採取した血液を用意する。慎重にかき混ぜ、それを一滴、シャーレに垂らした。
飢えた鬼の細胞が蠢く。姉をあんな目に遭わせた、この醜い本能が、一滴の血へ我先にと殺到させる。そして、憎むべき毒ごと喰らおうとした瞬間――。その運動が止まり、結局、毒を食らうことはなかった。
だが、しのぶの目に映る細胞の動きは、毒から逃げ回っていた時とは確かに違う。まるで、捕食するか迷っているかのような動き。濃度か、順序か、温度か。いずれにせよ、誘導因子が必要な可能性は高い。
そうすると、藤の花以外の毒でも使えるかもしれない。あの鬼が言っていた、上弦が毒に適応する可能性を考えれば、種類と作用機序は多いに越したことはない。例えば、稀血の成分を分析して――。
思考を打ち切るように、ふっと一息つく。しのぶの口元に笑みが浮かんだ。
「やっぱり、簡単にはいかないわね」
そう言いながらも、しのぶの心は高揚していた。斎鬼の細胞、血液、毒。これらを組み合わせれば、きっと道は開ける。姉の笑顔を守るために。そして、全ての鬼をこの世から消し去るために。いつの間にか後ろにいたカナエが、しのぶの表情を見て微笑む。
「しのぶならできるわよ」
安心する笑み。だが、そういって見つめる姉の目の下に、隠しきれていない隈が見えた。胸が、小さくざわつく。
「……これ、私も見ていいかしら?」
瞳には純粋な好奇心が浮かんでいた。しのぶは小さく頷き、席を譲る。また、すごいだの、これは何だの、大騒ぎしている。
ひとつため息を吐き、様変わりした部屋を見渡した。新しい機材、以前にもましてきれいになった床や壁。しかし、何より変わったことは、凍てついていたこの部屋に、再び温もりが帰ってきたことだった。