季節は音もなくその色を深めていた。蝶屋敷の庭では、朝の冷気に降りた霜が白く輝き、ほとんどの葉を落とした楓の枝に残る数枚の葉が、血の雫のように赤く凍てついている。
その静かな移ろいの中で、神崎アオイは、屋敷全体を覆い始めた言葉にならない『変化』を、肌で感じ取っていた。
姉妹の間にあった氷のような緊張感は消え、研究室からは時折、楽しげな声が聞こえる。屋敷には、温もりが戻ってきたはずだった。
――それなのに。何かが、決定的に欠けていた。
昼下がり、アオイは縁側を見た。
いつもなら、そこには二つの影があったはずだった。書状を読むカナエ様と、その隣で、何を考えているのか分からない顔で庭を眺めている、あの男。時折、カナエ様が楽しそうに何かを話しかけ、男が短く、ぶっきらぼうに返す。そんな、奇妙で、けれど確かに温かい均衡。
あの頃、屋敷は『陽だまり』だった。
だが今日、カナエ様の隣にあるのは、冬の陽光が作る空虚な空間だけだ。指先が、誰かの温もりを探すように、宙を彷徨う。
その時だった。カナエ様の手元がほんの僅かに揺れ、湯呑が滑り落ちる。パリン、と。氷が割れるような硬質な音が、やけに広く感じる縁側に響き渡った。
カナエ様は、割れた湯呑ではなく、自らの震える手を押さえ、呆然と床の一点を見つめている。その姿が、アオイの目には、鬼に怯える夜の自分と痛々しいほどに重なって見えた。
カナエ様はお疲れなのだと自分に言い聞かせ、胸のざわめきに蓋をした。あの鬼が去り、しのぶ様が研究にのめり込む今、この広大な屋敷の重圧が、カナエ様の双肩にだけかかっている。戦うことすらできない自分には、想像もつかないほどの心労のはずだと。
だが、一度気づいてしまった綻びは、日を追うごとに広がっていく。仕事中にふと舟を漕ぐことが増えた。空咳が、少しずつ深くなっている。縁側から隊士たちを見守る目が、どこか遠くを眺めるように、虚ろに彷徨う時がある。その小さな予兆を見るたびに、アオイの心の中で暗い予感が育っていった。
ある日の夕刻、洗濯物を取り込むアオイの袖を、三つの小さな手が、後ろからこっそりと引いた。
「あの、アオイさん……」
きよが、不安そうに上目遣いでアオイを見上げる。その指先は、アオイの服の生地を固く握りしめていた。
「カナエ様、私たちのこと、嫌いになっちゃったのかな……」
少女たちの澄んだ瞳が、捨てられるのではないかという純粋な恐怖に揺れている。様子がおかしいことに気づき、日中、勇気を出して話しかけたそうだ。しかし、上の空で、以前のように優しい手のひらが頭に触れることはなかったのだという。
この屋敷の異変は、誰の目にも明らかだった。
アオイは胸を締め付けられながら、無理やり頬の筋肉を持ち上げて笑顔を作った。
「そんなこと、あるわけないでしょう? カナエ様はね、少しお疲れなだけ。みんなのことが、大好きに決まってるじゃない」
しゃがみこんで三人の頭を順番に撫でてやる。だが、自分の袖に残る少女たちの指先の冷たさと、その震えが、アオイの心に重くのしかかった。
温もりが戻ったはずの屋敷の中心で、ゆっくりと光を失っていく主の姿を、アオイはただ見ていることしかできない。鬼に恐怖し、隊士の責務から逃げた自分に、一体何ができるというのか。どうしようもない無力感に、アオイは奥歯を強く噛み締めた。
その夜、せめてできることをと思い、アオイは重湯を盆に乗せ、カナエの部屋に向かった。障子の手前で、中からうなされるような、苦しげな声が微かに聞こえる。
息を呑み、声をかけようとした、その時。
背後の廊下の闇から、静かに影が差した。
「アオイ」
「……しのぶ様」
窓から差し込む月の光が、しのぶ様の顔を青白く照らしていた。その瞳には、言葉にならない不安が、深い湖のように揺らめいている。
「姉さん、何も教えてくれないの」
漏れ出る寂しげな声が、アオイの鼓膜を震わせる。視界が眩んだ。姉を想うその声が、やたらと遠くから聞こえるように感じられた。
***
図上演習の間。壁一面に広がる巨大な地図盤。そこには、夥しい数の死が並んでいる。澱んだ空気は、埃と古い紙、そして芯が燃え尽きる匂いで重い。
斎鬼が蝶屋敷を去ってからも、カナエは何度もこの部屋に足を運んでいた。
駒を並べる。そのたび、隊士の顔が頭に思い浮かんだ。家族のために戦った子。強い憎しみに身を焼いた子。優しく、勇敢だった子。どうすれば、彼らは、彼女らは、生きられたのか。その冷たい駒に指で触れるたびに、彼女の指先から熱が奪われていくようだった。
その日、いつもは息を吐く間もなく駒が並べられ、激論が交わされる地図盤には、何も置かれていなかった。
「三年前の討伐事例は……」
報告書を見ながら、出没箇所にマーカーをつけていく。部屋に山積みされた報告書の数を見ると、待ち受ける途方もない道のりが感じられる。
正面の席を見る。昼夜問わず、いつもそこにあった背中。ぽっかりと開いた椅子が、心に空いた穴のようにもの悲しい。
耳を澄ませば、今も聞こえてくるようだ。盤上に駒を置く、乾いた音。問いを返す、感情の読めない低い声。定石を覆す奇手を語る、静かな熱。
だが、今はただ、報告書の紙が擦れる音と、自分のため息だけが響いている。
彼が去ってから、この盤はただの墓標の羅列にしか見えなかった。一つの事案に対して、最適解に辿り着けない。思考が袋小路に迷い込むたび、空の椅子が彼女の無力さを嘲笑うかのようだった。
ならばと三日三晩考え続け、至った結論。それは、鬼の出没を予測することだった。
鬼殺隊の人員不足と場当たり的な対応の遠因には、鬼の出現を予期できないことがある。斎鬼はそれを自身の血鬼術と隠の哨戒によって補おうとしているようだが、もしかすると、過去に法則性があるのではないかと、カナエは考えていた。
「きりがないわね……」
過去の資料をすべて地図に落とし込む。言うだけなら簡単だが、そもそも、限定したエリアの事案を抜き出すことだけでも骨が折れる。じっくりやるしかない。そう頭ではわかりながら、焦燥感がぬぐい切れなかった。
逃げるように盤上から顔を上げ、静かに立ち上がる。椅子が床を擦る乾いた音が、やけに大きく響いた。
翌日。昼下がりの縁側。
庭では、アオイが治療中の隊士たちの機能回復訓練に付き合っていた。活気のある声が、冬の澄んだ空気に響いている。未来ある子供たち。つらい思いをしただろうに、それでも希望を抱いて真っすぐに進んでいる。命を懸けても守りたい、大切な居場所。
だが、心の奥で言葉にならない何かが疼く感覚が不快だった。それから目を背けるように、柱に背を預ける。忘れてしまった遠い日の記憶をなぞるように、全集中の呼吸をゆるやかに行った。
――刹那。背中に、氷の杭を打ち込まれたような激痛が走る。
あの夜の、氷が砕ける音。無慈悲に振り下ろされる扇子。
古傷が、忘れていたはずの死の記憶を呼び覚ますように、悲鳴を上げた。違う。今、痛いのは、本当にこの背中だけだろうか。
遠ざかっていくしのぶの背中。宇髄邸へと向かう斎鬼の、あの昏い瞳。守りたいと願った二人が、自分の手の届かない場所で傷ついていく。その無力感が、氷の棘となって心の奥に突き刺さる。
鋭い息が喉に詰まり、視界が白く点滅した。堪えきれずに漏れた咳の音に、庭のすべての音が止まる。隊士たちと、アオイや子供たちが、息を呑んでこちらを見つめていた。
心配をかけてしまった。その顔に、あの日、守れなかった若い隊士の面影が重なった。
心配させないように、精一杯の力で微笑んだ。
――私はもう、あのころとは違う。
自分を支えていた“柱”としての輪郭が、冬の陽光の中でじわじわと溶け、剥がれていくのを感じた。
***
その夜、カナエは夢を見た。
音のない夜の街。虹彩の瞳だけが、こちらを見ている。
体が、凍り付いて動けない。
風。鉄錆の匂い。
パリン、と氷が砕ける音。
空虚な笑み。扇子。悲鳴。
何度も、何度も、殺される。
「……っ!」
悲鳴とともに目を覚ますと、寝間着が冷たい汗で肌に張り付いていた。闇の中で、自分の荒い呼吸の音だけが響く。
きっかけは、しのぶの研究室で聞いた、ガラスが割れる音。それ以来、毎夜、夢の中で殺される。震える手で隣を探っても、触れるのは冷たい夜の空気だけ。
震える腕で必死に抱きしめる。冷たさは、消えない。
あの惨劇から目を覚ました時に見た、しのぶの覚悟を決めた目。その奥に揺らめく、深い憎悪。斎鬼が蝶屋敷を発つときに見せた、昏い瞳が重なる。
優しいあの子は、私のために怒り、憎しみに身を焼こうとしている。あの人は、私の夢のために、自らを道具に変えようとしている。
柱として戦えなくなったことに、焦りを覚えていたことは否定できない。そして、その穴をふさぐために、二人に重い荷を背負わせてしまった。それが、二人を傷つけてしまった。その無力感が、頭の片隅にこびりついて離れない。
――これ以上は、背負わせちゃいけない。
夜の静けさが部屋を満たしている。以前より柔らかくなった手を見つめた。もう、刀を振るえないこの手で、できることは。
大切なものをこれ以上取りこぼさないように、手を固く握る。
「……そうね、手紙」
せめて、過酷な稽古に挑む彼が孤独に飲まれないように。彼が、芯にある優しさを見失わないように。祈りを込めて、筆を執った。