境界の斎鬼   作:eebbi

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空の器を満たすもの

 夜の闇が、鉄と血の匂いを吸って重く澱んでいた。

 宇髄邸の庭は、もはや庭ではなかった。抉れた大地、無残に裂けた岩、そして原型を留めぬまでに破壊された木々。それは、一方的な蹂躙の跡地だった。

 

 爆風と衝撃。それが、斎鬼の世界の全てだった。

 まず、音が死んだ。鼓膜が破れるほどの炸裂音の後は、ただ水底のような耳鳴りだけが続く。

 次に、光が死んだ。閃光で灼かれた網膜は、明滅する残像しか映さない。

 匂いが死んだ。鼻腔を焼く火薬の匂いが、他の全ての感覚を塗り潰していく。

 最後に残った皮膚感覚さえ、絶え間ない斬撃の痛みで、もはやどこを斬られたのかも分からなくなっていた。

 五感が死んだ暗闇の中、宇髄の斬撃だけが、確かな死として体を貫いた。

 

「――終いだ、地味ッカス」

 

 意識の外から響いた呟き。それが、壮絶な乱打の、最後の『一打』だった。

 腹部にめり込む衝撃で体がくの字に折れる。肺から命がごっそりと押し出され、視界が明滅した。叩きつけられた背骨が悲鳴を上げ、泥の冷たさが、灼けつくような傷の熱を無遠慮に奪っていく。

 

「……今日はここまでだ」

 

 見下ろす宇髄の瞳に、感情はない。ただ、完璧な破壊を終えた職人のような、冷徹な満足感だけが浮かんでいた。

 

「次の日が沈む頃には、本当の地獄を見せてやる。せいぜい、派手に震えて眠るこったな」

 

 その言葉を最後に、庭を支配していた圧倒的な気配が消える。後に残されたのは、泥と血にまみれた斎鬼と、耳鳴りのように反響する、自らの無力さだけだった。

 

***

 

 よろめきながら自室に戻る道すがら、障子の向こうから灯りが漏れる部屋があった。中からは、穏やかな話し声と、薬草を煎じる匂いがする。

 

「あらあら斎鬼さん、またこんなにボロボロにされて……」

 

「須磨、泣かないの。手当ての邪魔でしょう」

 

「でも、まきをさん…!」

 

 宇髄の嫁たちが、斎鬼のために夜食と薬湯を用意してくれていた。その光景は、地獄のような稽古の中の、唯一の日常だった。

 

「…すまない」

 

 差し出された握り飯を、黙って口に運ぶ。味は、しない。だが、その米のひと粒ひと粒に込められた温かさが、凍てついた胃の腑にじんわりと染みていくようだった。

 ふと、蝶屋敷の食卓が脳裏をよぎった。カナエが無理やり口に押し込んできた、あのおはぎ。あの時も味はしなかった。だがそこには、不器用な姉妹が織りなす、ぎこちなくも確かな温もりがあった。

 

 ――その関係も、俺が壊したんだがな。

 

 あの夜のカナエの涙。自分を責める言葉の数々。違う。あの場所に入り込んだ異分子が生んだ歪みが、その関係を壊したのだろう。

 ここに来てから、何度も繰り返した自問自答。自分の存在価値。結論はいつだって、『道具』として利用価値を示すことだった。だというのに、その在り方を酷く寂しく感じる。

 

 ごちゃごちゃな感情と思考を断ち切るように、頭を振る。手当てを受けながら、斎鬼はぼんやりと思った。俺は、あの穏やかな場所に、焦がれているのかもしれない。

 

 治療が終わり、夜の静寂が包む廊下を、ぼろぼろの体を引きずって歩く。血の匂いが漂う自室。文机の上に何かが置かれていた。

 待ち望んでいた、蝶屋敷からの手紙。

 この地獄で唯一、彼が焦がれる場所からの便り。

 

 血と泥で強張った指先が、その薄い和紙に触れるのを躊躇させる。汚してはならない、と。だが、その逡巡さえもどかしく、手紙を手に取った。

 

 陽だまりの匂いがした。

 指が、綴られた文字の連なりをゆっくりとなぞる。アオイのこと。三人の少女たちのこと。他愛もない失敗談。陽だまりのような言葉たちが、荒れ狂う心のささくれを、一枚一枚撫でていくようだった。

 

 ふと指先が、ある文字の払いをなぞる。そこだけ僅かに、筆の勢いが死んでいる。まるで、手の震えを無理やり押さえつけたかのように。

 そして、最後の一行。紙の繊維が、僅かに毛羽立っていた。水滴が落ち、乾かぬうちに慌てて拭った跡。

 

 ――涙。

 直感的にそう思った瞬間、腹の底から、灼熱の塊がせり上がってきた。宇髄の刃に抉られたどの傷よりも深く、鋭い痛みが胸を貫く。

 俺の弱さが、俺の覚悟の足りなさが、彼女を独りで泣かせている。

 

 衝動的に、筆を執っていた。

 

***

 

 どれだけの時間そうしていただろうか。目の前の真っ白な和紙が、まるで彼の心を映す鏡のように、その空虚さを突きつけてくる。

 

 言葉が出てこない。

 戦術盤の上では神の如く采配を振るい、鬼の心理を読み解き、必勝の策を構築してきた。だが、たった一人の、傷ついた心を救うための言葉が、何一つ見つからない。それが、己が空っぽであることの証左のようだった。

 何度も書きかけては、その度に和紙を握り潰す。彼の足元には、無力さの象徴のように、紙くずの山が築かれていった。

 

「…格好つけなくたっていいのよ」

 

 いつの間にか背後に立っていた雛鶴が、静かに呟いた。

 

「ただ、あなたの本当の心を、そのまま筆に乗せてあげれば。例えば、そうね……。今、一番伝えたいことはなに?」

 

 その言葉が、斎鬼の心の迷いを、すっと晴らしていく。

 伝えたいこと。

 

「一緒に、おはぎを食べたい」

 

「…ふふっ、なら、そう伝えてあげたら良いのよ」

 

 彼は新しい紙に向き直ると、もう迷わなかった。蝶屋敷の笑い声、温もり、柔らかな花の匂い。体の芯から湧き出てくる熱に身を任せて、言葉を綴る。

 出来上がったのは、不器用で、飾り気のない、しかし心の全てを込めた言葉だった。

 

 いつも、再び立ち上がるための支えとなってくれたことへの、無骨な感謝。必ず帰るという、血の滲むような誓い。

 そして、最後に書き添えたのは、子供じみた、しかし何よりも切実な願い。

 

 ――帰ったらまた一緒に、しのぶのおはぎを食べよう。

 

***

 

 世界が夜の静寂に包まれる頃、斎鬼は再びその場所に立つ。

 彼の表情から、迷いは消え失せていた。目の前に立つ宇髄の気配が、これまでとは比較にならぬほどに研ぎ澄まされているのが分かる。これが、最後の試練。

 

「……いい顔になったじゃねぇか。だが、感傷に浸る暇はねぇぞ」

 

 宇髄が日輪刀を構える。

 

「俺の『譜面』は、完成すれば誰にも止められねぇ。お前が俺に一太刀でも浴びせたきゃ、その完成前に、俺の音を読み切れ」

 

 戦いが始まった。

 それは、嵐だった。宇髄の奏でる斬撃の交響曲。全ての攻撃が寸分の狂いもなく連携し、一つの完璧な『譜面』となって斎鬼を襲う。かわしても、受け流しても、次の一音が必ず死角から襲いかかり、体に新たな傷を刻んでいく。

 読めない。あまりにも複雑で、あまりにも速い。

 

 ――それがどうした。

 痛みも、焦りも、無力さも、カナエの涙に比べれば塵芥だ。それが障害となるのなら、すべて捨て去れ。

 世界が、閉じていく。

 

「反撃しねぇと、終わっちまうぞ!」

 

 終わり。そうなればきっと、あの陽だまりで、また彼女が独り涙を流す。

 形にならない何かが、胸中で激しく渦を巻いている。

 

「守るんだろう」

 

 斎鬼の口から、息が漏れるように出た言葉。何を言っているのか、もはや自分自身でも分かっていなかった。襲い掛かる攻撃も、周囲を包む爆音も、思考も、五感も。何もかもがうるさい。

 

「――終幕だ」

 

 宇髄の双眸が、斎鬼を射抜く。必殺の一撃が放たれる。

 万事休す。そのはずだった。

 

 ――ついに、斎鬼の世界から雑音が消えた。

 俺は鬼だ、という諦め。贖罪のために死なねば、という呪い。お前には無理だ、という過去の自分の声。すべてが凪いでいく。ただ一つ、心の中心で燃えるのは、涙の滲んだ手紙の、あの陽だまりの匂い。

 

 宇髄の呼吸、踏み込み、重心、その音だけを感じる。攻撃の軌道が、鮮明に見えていた。

 彼は防御を捨てた。自らの体を囮に、宇髄の刃を懐深くに引き込む。そして、一点。刃が通過するであろう、ただ一點に向けて、己の全てを乗せた日輪刀を突き出した。

 

 甲高い金属音と、肉を裂く鈍い音が、同時に響く。

 斎鬼の肩が深く抉られた。だが、彼の刃もまた、宇髄の日輪刀を弾き、その頬を浅く切り裂いている。

 譜面が、乱れた。

 

 しばしの静寂。やがて、宇髄が愉快そうに破顔した。

 

「……ハッ、派手にやってくれるじゃねぇか」

 

***

 

 縁側に、二つの影が並んでいた。月の光が、血と泥に汚れた二人を静かに照らしている。

 先に口を開いたのは、宇髄だった。

 

「斎鬼。お前は、何のために戦ってる」

 

 問いは、静かだ。だが、その瞳は斎鬼の魂の奥底まで見透かすように、鋭く光っている。

 

「贖罪だ」

 

 いつしか熱を持たなくなっていた、己に課した唯一の存在理由。それを、間を置かずに答えた。

 だというのに、自身の心が一番、その理由を否定している。この言葉を口にするたびに、心の奥底にこびりついたあの陽だまりの思い出が、それを否定してくる。

 

 考え込む斎鬼を、宇髄は心底つまらなそうに、鼻で笑う。

 

「こんなもんは考えることじゃねぇ。それにな……」

 

 月明かりに照らされる、その鬼の横顔。宇髄にはそれが、まるで迷子の子供のように見えた。かつて、己が捨ててきた兄弟たちの姿と、どこか重なる。

 

「死んで詫びるなんてのは、戦いじゃねぇ。ただの自殺だ。お前は死に場所を探してるだけだろ。そんな奴はな、『道具』以下だ」

 

 その言葉が、刃となって斎鬼の胸に突き刺さる。空っぽな臆病者には、お似合いな言葉。

 

「……お前も、それが違うってわかってんだろ」

 

 見透かされたような、絶対的な確信を持ったその言葉に、一瞬息が詰まる。

 不意に宇髄の目が、何かを思い出すように遠くを見つめた。

 

「俺にもいたぜ。死ぬことだけが役目だと思ってた、地味な奴らがな」

 

 滲むわずかな怒り。だが、その怒りが誰に向いているのかは推し量れない。

 宇髄の双眸が、斎鬼を鋭く射貫く。訴えかけるような、強い光。

 

「気づかねぇ間に大事なもんを殺して、それに引きずられて死ぬなんざぁ、俺はごめんだ」

 

 宇髄の瞳が、見たことのない色を宿している。しかしそれは、斎鬼自身が一番見てきた色のように思えた。

 形にならない熱いものが、空っぽの心に流れ込んでくる。

 

「今、生きてんだろ?だったら、生き汚く足掻いて、守りてぇもんのために戦う方が、よっぽど派手で美しいだろうが」

 

 自信と確信を含んだ、強い声色。それは、彼が選び取ってきた生き方そのものだった。

 足掻いてでも、守る。思い浮かぶ、あの惨劇の夜、血に塗れながら、それでも立っていたカナエの姿。全てを賭けて、大切なもののために足掻く。

 

 ――確かに、あの姿は美しかった。

 自分が守れなかった、無力の象徴。だが、あの血の海の中心に立つ彼女の姿が、柱としての矜持とただ一人の姉としての覚悟を宿したあの姿が、強く輝いて見えた。

 斎鬼の目に、明るく強い光が灯る。それを見計らったかのように宇髄は立ち上がると、斎鬼の胸に、彼が書いた手紙を押し付ける。

 

「その手紙の女か、何だか知らねぇが、よく聞け」

 

 紙一枚とは思えぬ、確かな重みが心臓に響く。

 

「てめェが探すべきなのは、死に場所じゃねぇ。――てめェが命を懸けて、『帰る場所』だ」

 

 初めて、宇髄の瞳に穏やかな色が宿った。

 一瞬の静寂。次の言葉を、決して聞き逃すなと告げられるような感覚。

 

「……さっさと生きて帰れ。派手にな」

 

 息が詰まる。贖罪のための死という、過去に縛られた呪い。無理やり器を満たすことで、何とか保ってきたそれが、音を立てて解けていく。

 カナエの言葉の本当の意味を、彼は今、地獄を知るこの男を通して、ようやく理解していた。

 

 全てを終えた斎鬼が、宇髄邸の門をくぐる。

 

「達者でな」

 

 短い言葉に見送られ、彼は静かに一礼すると、振り返らずに歩き出した。

 その瞳に未だ滲む、昏い覚悟。しかし同時に、守るべき場所へと向かう、温かく、そして力強い光を宿していた。

 

 脳裏に浮かぶのは、涙の跡が滲んだ、あの手紙。

 早く帰りたい。帰って、話がしたい。

 歩くだけで精一杯だったはずの足が、気づけば走り出していた。

 

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