冬の空気が澄み渡る、昼前のことだった。
蝶屋敷の庭に、けたたましい鳴き声と共に一羽の鎹鴉が舞い降りた。他の鴉と違い、額には派手な意匠の布が巻かれている。主が誰であるかは、一目瞭然だった。
「カァーッ!伝令、伝令!音柱、宇髄天元様より!例の地味な奴、そろそろそっちに着く!派手に出迎えてやれ、とのことだ!派手にな!」
縁側でお茶を飲んでいたカナエの手から、カタリ、と湯呑が滑り落ちた。幸い中身はこぼれなかったが、彼女の心臓は大きく跳ね、澄んだ瞳が驚きに見開かれる。
返事をする間もなく、鴉は「伝えたぞ!派手にな!」と一声鳴いて、再び空へと飛び去っていった。
「……帰ってくる」
小さな呟きに混じるのは、安堵か、不安か、それとも呆れか。斎鬼が無事だという知らせに違いなかったが、本当の安心はまだ先だ。
***
その報せ以来、屋敷にはそわそわとした空気が流れ始めた。主が病んだときの沈鬱とは違う、柔らかな浮き足立ち。
原因はもちろん、この屋敷の主である胡蝶カナエだ。
冬の澄んだ空気を吸おうと縁側に出たかと思えば、一分と経たずに立ち上がり、意味もなく別邸の方へ歩いていく。書状を読んでいても、隊士の訓練に付き合っていても、その視線はチラチラと、何度も門の方へと吸い寄せられていた。
「姉さん」
心ここにあらずといった様子で玄関を見つめる姉の背に、しのぶは声をかける。
「鬼が昼間に、堂々と正門から歩いてくるわけがないでしょう」
カナエの肩が、ピクリと跳ねた。
「彼は関係ないわよ!」
声は取り繕っても、慌ただしく動く手が嘘を暴く。図星のときはいつもこうだ。しのぶは、もう一つため息をつく。
「姉さんがそんな調子だから、みんな落ち着かないのよ。もう」
カナエがはっと周囲を見渡す。苦笑いを浮かべるアオイ、遠くからニヤニヤとこちらを見るすみたち、そして、どこか集中しきれていない隊士たち。
カナエの顔が、みるみるうちに赤くなる。
「し、仕事してくるわ!」
逃げるように自室へ戻っていく姉の背中を、しのぶはどこか優しい目で見送った。お出かけ前の子どものようだ。姉の翳りを吹き飛ばしたのが鬼――その事実に、思わず眉を顰める。あの男に救われてしまう自分が許せない。
それでも。姉がこうして笑っている姿を前にすれば、胸の奥にかすかな温かさが灯ってしまう。
「本当に、厄介ね……」
自分の心を嘲るように、しのぶは小さく吐息を洩らした。
遠くから、綺麗に掃除しようと、なほの気合いが入った声が聞こえる。蝶屋敷はすっかり元気だ。
しのぶが、視線をアオイに向ける。アオイは、慌ただしい主を、苦笑を浮かべて見送っていた。
「アオイ。苦労かけるけど、お願いね。……姉さんがあんな調子だから」
「……はい」
アオイの中に、まだ恐怖はある。だが、あの主の姿を、そして一変した蝶屋敷の空気を思うと、あの鬼がいるのも悪くないのかもしれない。手に持つ洗濯物を、少し強く握った。
***
その夜。カナエは自室の文机に向かいながらも、やはり集中できずにいた。
彼はどんな姿で戻るのだろう。再生は衰えている。傷が増えていないか。あの昏い光は少しでも薄れているのか。蝶屋敷を発った時の瞳を思い出し、冷たい霧に心が覆われる。
窓の外に目をやる。月が、雲に隠れては顔を出す。胸の内もまた、落ち着かずに揺れていた。
時間が過ぎる感覚も失い、ただ月を見ていた。思い浮かぶのは、彼と出会ってからのこと。あの夜の取引。惨劇の夜、私を守ってくれた後ろ姿。そして、彼が蝶屋敷に来てからの日々。そこにいるのは鬼だと言うのに、気づいたら隣にいることが当たり前になっていた。
「早く帰ってこないかしら」
不意に言葉が漏れた、その時。木が軋むような高い音が聞こえた。屋敷の門を開く音だ。
カナエは息を呑み、弾かれたように立ち上がった。屋敷の庭とは異なる、微かな気配。殺気ではない。けれど、どこか張り詰めた、研ぎ澄まされたようなそれ。脳裏を、最悪の可能性が過ぎる。咄嗟に日輪刀を手に取り、駆け出した。
門の前に、人影があった。月の光が雲間から差し込み、その全身を照らし出す。
ボロボロの隊服。無数の傷痕。だが、その体は以前よりも遥かに引き締まり、揺るぎない覚悟を宿している。そして――地獄の底から帰ってきたその瞳には、驚くほど穏やかで、温かい光が灯っている。
「……斎鬼、くん」
喉が詰まる。囁くような、震えた声。
彼が、帰ってきた。私の信じた彼が、私の知らない顔をして、そこに立っている。私が何よりも求めていた、優しい光をまとって。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。張り詰めていた不安の糸が、ぷつりと切れた。
気づけば日輪刀を落とし、カナエは縁側を駆け下りていた。もつれる足も構わずに、ただ彼に向かって走る。
斎鬼の目が自分を捉えて、驚きに見開かれる。彼の唇が、何かを形作ろうと微かに動いた。
「ただいま」
掠れた声だった。けれど、その一言に、幾重にも張り付いていた氷が一気に溶け落ちる。
かつて見たことのないほど柔らかい微笑み。しかしそれが、彼が確かに帰ってきたのだと告げていた。
待ち焦がれた声だった。何よりも望んでいた温かさだった。その一言が、カナエの世界の全てになった。
「――おかえりなさいッ!」
溢れ出した涙で、彼の顔が滲んで見えなくなる。それでも構わなかった。ただ、この腕の中に彼がいる。その温もりだけが、確かな現実だった。