境界の斎鬼   作:eebbi

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視線の先に

 冬の冷気が包む早朝。その日、慌ただしい空気が蝶屋敷を覆っていた。

 一人の隊士が背に深い裂傷を負い、仲間に支えられて運び込まれてきたのだ。鬼の爪痕は深く、衣服の下から血が溢れている。

 幸い一命をとりとめたものの、回復には時間がかかりそうだった。

 

 廊下を進む担架の列に、斎鬼は立ち止まった。鉄の匂いが鼻を刺す。ほんのひと月前まで、自分がばら撒いていた臭気。

 その匂いが、胸の奥で過去の光景をほどいていく。血の泥に沈む骸。泣き声も上げられぬまま、崩れ落ちた人々――その記憶を呼び覚ます匂い。

 

 治療室から出てきたしのぶの顔には、疲労と怒りが、深く刻まれている。その横を通り過ぎた斎鬼は、逡巡するように一瞬目を彷徨わせ、しかし意を決したように声をかけた。

 

「……手当を、手伝おうか」

 

 しのぶの鋭い視線が、斎鬼に突き刺さる。

 

「必要ありません。あなたに触れられて安心する人間は……ここにはいません」

 

 言い切った自分の声に、自分でわずかに驚き、肩が硬くなる。だが斎鬼は一歩も退かず、傷の縁を見つめていた。

 

「血の止め方ぐらいは、知っている」

 

 一瞬、しのぶの瞳が揺れた。結局彼は弾かれるように追い出されたが、その場にいた隊士のひとりが、去り際の彼の背中を目で追っていた。

 礼にすぎない――はずなのに、その温度がかえって耐え難かった。

 

 治療室の灯りが落ち着いたころ、廊下に二人の影が残っていた。

 アオイは手に持った薬箱を抱え直し、ためらいがちにしのぶへ声をかける。

 

「しのぶ様。……さっきの斎鬼さん、本当に……手伝いたかったんじゃないでしょうか」

 

 言葉を慎重に選ぶ。それでも、声が小さくなってしまう。しのぶの足が止まり、振り返る瞳が冷たく光った。

 

「鬼がそんなことを思うはずがないわ」

 

 鋭い声。切り捨てるような言葉。

 アオイは息を呑み、それ以上は踏み込めなかった。

 

 けれどそのとき、しのぶの指先がわずかに震えた。

 強く握りしめた薬箱の縁に、爪が白く沈んでいる。彼女自身が、吐き出した言葉で胸を抉られているかのように。

 

「……戻りましょう。まだ処置が残っているわ」

 

 背を向けるしのぶ。その歩みは普段より少しだけ速く、アオイは慌てて後を追った。

 

***

 

 蝶屋敷の一室。先日まで沈黙していたその部屋に、闊達な声が響いている。

 壁面の大地図。その上で忙しなく動く駒。失われた膨大な命の足跡を追う、二人の姿。

 常なら盤上に固定される斎鬼の視線が、その日は違っていた。カナエが駒を動かす。その駒を見つめる瞳。その、向こうの色。それを、じっと見つめている。しかしそれは、戦術のためではなかった。

 

 嵐の中の撤退戦。斎鬼の手が、まるで正解を知っているかのように、躊躇いなく駒を動かす。カナエが柔らかな笑みを浮かべ、ばれないようにそっと息を吐いた。

 ふと、その手が止まった。駒を持った手が、宙をさまよう。

 

「どうしたの?」

 

 視線が重なった瞬間、斎鬼は慌てるように目を逸らす。カナエの顔に浮かぶのは静かな笑み。沈黙が、次の言葉を待つ。

 

「……カナエは、何を見ているんだ?」

 

 絞り出すような、掠れた低い声。意味を測りかね、カナエは小さく首を傾げた。

 しかし、待てども次の言葉は出てこない。斎鬼の瞳には、戸惑いの色が揺れている。ふっとカナエが微笑んだ。

 

「少し、休憩しましょうか」

 

***

 

 昼下がりの蝶屋敷。冬の冷気が肌を刺し、吐息は白く煙る。そんな寒さを打ち払うかのように、訓練に励む隊士たちの声が庭に響く。

 縁側で書状に目を落としながら、カナエはその様子を眺めていた。彼女の心を温めているのは、紙の文字ではなく、人々の生の声だった。

 

 脳裏を過ぎるのは、あの一室で見た斎鬼の瞳。温かさの奥にある、何かを求めるような影。あの視線が何を渇望しているのか、まだ彼女にも答えは出せなかった。

 背後から足音が近づく。最近、この屋敷に帰ってきたばかりの、少し重たい響き。

 斎鬼は無表情のまま、真剣に訓練をする隊士を見ている。その視線が、ふっとカナエに流れた。

 

 心の奥を覗き込むような眼差し。その時、庭がざわめいた。

 隊士の一人が肩を押さえ、蹲っている。

 カナエは思わず駆け寄った。患部はひどい熱を帯びている。無理に体を動かしたのだろう。その目に浮かぶのは、焦り。

 

「大丈夫。ゆっくり、一緒に頑張りましょう」

 

 その言葉に、隊士の表情がやわらぐ。やがてアオイに連れられ、治療に向かう背中を見送った。

 縁側に目を向けると、斎鬼がこちらをじっと見ている。その目には、言葉にならない何かが宿っていた。

 カナエは、斎鬼の瞳を真正面から受け止めた。彼はきっと、変わろうとしている。胸に温かさが広がる。

 

 不意に、一人の隊士が斎鬼に声をかけた。木刀を見せながら、ぎこちなく言葉を探している。

 斎鬼の目が、躊躇うように泳ぐ。だが、ひとつ息をつくと、構えを取りながら説明を始めた。

 しばらくして、「ありがとうございます」と大きな声が響き、隊士が去る。斎鬼は呆然と、その背中を目で追っていた。

 ――その声は、確かに彼に向けられた、温度を持った言葉だった。

 

 奪い続けた鬼に、感謝される権利はない。斎鬼の胸が一瞬だけ軋んだ。受け止め方を知らない感情。その響きが、かえって心をざわつかせる。

 

 カナエはその様子を見つめながら、胸の奥で小さく安堵の息を吐いた。けれど同時に、斎鬼の横顔に沈む影が気になった。温かさに戸惑い続ける彼を、このまま放ってよいのか――そんな問いが、胸に芽生えていた。

 

***

 

 一日の終わり。しかし、図上演習の間の灯りは消えていなかった。

 そこにいたのは斎鬼。常なら、盤上を見渡している視線が、盤上の一点――ひとつの駒へと吸い寄せられていた。

 駒の温度を測るように、指で弄ぶ。しかし、求めたものが見つからず、表情は晴れない。

 

 入り口からがたりと音がする。振り向くと、しのぶの姿があった。険しい表情で、こちらをまっすぐ見ている。

 その目に映るのは、疑念か、焦燥か。

 

「あなたが何を考えているのかは知りませんが」

 

 一瞬の間。その眼差しが、鋭く斎鬼を射抜く。

 

「姉さんに何かしたら許しません」

 

 それだけ言い放ち、しのぶが去る。扉が大きく鳴り、静けさだけが残った。

 見上げた窓から見える満月。夜空の中に、切り取られたように浮かぶそれが、自分と重なって見えた。

 

 自分なりに工夫はした。カナエの視線の先にある何か。それを知りたくて、たくさん考えた。だが、やはり異物はどこまで行っても異物でしかない。

 駒を置き、斎鬼は部屋を出る。背中を照らす月光が、長い影を伸ばした。その影の先に、自分の居場所はない――そう痛感しながら歩を進める。

 

 冷えきった、灯りのない廊下を一人歩く。ふと、風が動く。ありもしない鉄の匂いが、鼻先だけで立ち上がった。赤子の鳴き声。家族の断末魔。

 気づくと、いつもの縁側に来ていた。誰もいないそこに、ひとり腰を下ろす。吐き出した息が白く凍り、夜空に溶けて消えていく。

 

 陽だまりを守る。帰る場所。宇髄の言葉を反芻する。それは本心であるはずなのに、ほかならぬ自分自身が、その在り方を受け入れられていない。

 鬼。異物。拒絶されるべきもの。こびりついた思考が、どうしても離れてくれない。それでも、この陽だまりに縋ってしまう。

 

 カナエの視線の先にあるもの。あの温かい瞳の奥が分かれば、何か変われるのではないかと思っていた。

 斎鬼が、遠い目をして、月を仰ぐ。その背中が、あまりにも小さい。

 

 音もなく、隣に誰かが座った。ぴくりと斎鬼の肩が動き、横を見る。

 そこにいたのは、カナエだった。その瞳は、空に輝く満月を見上げている。月明かりに洗われた横顔は読めない。それでも、まつ毛の端だけが、ひときわ沈んで見えた。

 

「月が、きれいね。あなたと初めて出逢ったときみたい」

 

 出逢いの夜の冷たさと、差し出された温もり。気づけば、たくさん貰いすぎた。

 カナエの手が、失った何かを思い出すように、一瞬だけ震える。反射的に、隊服をカナエにかけていた。

 

「……ありがとう」

 

 柔らかな色を湛えたカナエの双眸が、斎鬼を包む。

 その手には、一通の手紙。指先が、折れ目の癖をそっと確かめる。

 

「あなたの手紙、とっても嬉しかった」

 

 カナエの傍らに、おはぎが二つ。

 

「約束だから。しのぶにつくって貰ったの。一緒に食べましょう」

 

 おはぎを一口。味がしない甘さが、不思議とほどけていく。

 

 ――俺は、何か返せているんだろうか。

 異物でも、忌むべき鬼でも。カナエがこの屋敷を包むのと同じ温もりを、いつか。

 今、自分を見る優しい瞳。蝶屋敷の全員に注がれる、その温もり。それの正体を、どうしても知りたかった。

 

 二人だけを切り取って、冬の夜は深まっていく。その姿を屋敷の奥から窺う影が二つ。対照的な光を宿した眼差しに、二人は気づかない。

 消えていたはずの灯りが、薬室の隅でまたひとつ点った。

 

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