境界の斎鬼   作:eebbi

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不慣れな律動

 蝶屋敷が寝静まった頃。冬の鋭く冷たい空気の中、縁側には静寂が落ちていた。誰もいない庭。月明かりだけが降るそこを見つめながら、斎鬼は独り、縁側に座っていた。

 その表情から、何かを読み取ることはできない。ただ、致命傷を負った者のように、時折、苦悶に顔を歪めるだけ。

 

 アオイは、その後ろ姿を、柱の陰から覗いていた。手には、淹れたばかりの玉露。

 あの日、しのぶが斎鬼の手伝いを拒絶して以来、毎夜、斎鬼はあの場所で思い詰めている。自分で自分を傷つけているような痛々しい後ろ姿が、アオイの足をここに運ばせていた。

 ――見て見ぬふりは、もうできなかった。

 

 宇髄邸から帰還して以降、あの鬼は変わった。アオイはそう感じていた。こちらを見つめる眼差しの色が変わった。雰囲気が柔らかくなった。蝶屋敷の、目の前の人のために、懸命に何かをしようとしていた。

 だからこそ、あの日の拒絶の時に見えた悲壮な表情が、脳裏に刻まれている。足を、一歩踏み出した。

 

「……これ、どうぞ」

 

 すっかり震えなくなった手で、茶碗を差し出す。斎鬼が驚いたように、こちらを見る。その瞳に浮かぶ、入り混じった、けれど温かい光。彼の茶碗の縁に触れた指先が、かすかに揺れた。

 

 ひとつ頭を下げて、踵を返す。少しの間のあと、背後から掠れた感謝の言葉が聞こえた。アオイは振り返らない。茶の湯気だけが、背中を温めた。

 月明かりだけが頼りの、暗い廊下。私室に向けて、アオイは力強く歩く。あれは鬼だ。それでも、人であろうともがき続けている。ならば。アオイは、ひとつ覚悟を決めた。

 

***

 

 朝日が顔を出し、夜が明けた。翌日――蝶屋敷の医務室から、二つの声が聞こえていた。

 

「ありがとうございます!全然痛くなかったです!」

 

 一切の曇りがない、快活な声。入院中の隊士である吉岡だ。鳴神山の一件で、一躍英雄となった若い隊士だった。

 

「……そうか」

 

 いつも通りの無表情。しかしその声には、安堵するような、困惑するような揺らぎがある。

 

「正治さんが治療するところ、初めて見たかもしれませんね」

 

 その言葉に斎鬼が固まる。脳裏に、今朝の出来事が蘇った。

 

 宇髄邸から帰還してから、朝の掃除や薬草の管理が日課になっていた。今朝も、いつも通り薬室で確認をしていた、その時だった。突然、背後から大きな音。

 ゆっくりと振り返ると、しのぶの姿があった。手には薬箱。鋭い目つきでこちらを射抜きながら、早足で向かってくる。

 

「吉岡さんの治療に使ってください」

 

 絞り出すような声。差し出された箱の取手が、震えるほどに強く握られている。呆気にとられながら、それを受け取った。

 

「……アオイに感謝してください」

 

 血を吐くように呟き、しのぶが去った。残されたのは、沈黙だけ。箱の隙間には、簡潔な手順書が差し込まれていた。その端に、指の跡でできた小さな皴。遅れて真意を理解する。苦渋の決断だっただろう。手の中の薬箱が、重く感じられる。

 薬草の整理を終える。医務室に向かうその足取りは、いつもより軽かった。

 

「――やっぱり、すごいですよ。俺たち、剣を振り回すことしかできませんし。でも正治さんは、こうして命を守れる」

 

 その言葉で、意識が戻った。吉岡は屈託なく笑いながら、包帯を巻いた腕を掲げてみせている。

 斎鬼の胸の奥がわずかに波立つ。守れる。血に塗れたこの手で。その実感は、かつて同族を狩っていた時には決してなかった感覚だった。

 

「……俺は、ただ渡されたものを使っただけだ」

 

 低く答える斎鬼に、吉岡は真剣な目を向ける。

 

「それでも、俺たちにとっては十分なんです」

 

 その純粋な笑みから、視線を逸らす。返す言葉を見つけられない。その胸の内には、否定と共に、微かな熱が灯っていた。

 不意に吉岡が、そういえば、と、内緒話をするように口を開く。

 

「鳴神山の作戦、正治さんが考えたんですよね」

 

 思わず息を呑んだ。一瞬の間のあと、吉岡が続ける。

 

「カナエ様にこっそり聞きました。……皆には黙ってますよ」

 

 その言葉に、息をふっと吐く。カナエにも何か意図があるんだろうと、飲み込む。

 その時、背後の戸口から小さな足音が響いた。

 

「正治さん」

 

 顔を出したのはアオイだった。手には薬箱。

 

「……次の患者さん、お願いします」

 

 淡々とした声音。しかしその横顔には、どこか緊張を解いた色が差していた。

 

「あ、傷治ったら稽古見てください!」

 

 背後からの大きな声に、小さく頷く。

 うるさいと叱るアオイの声を聞きながら、斎鬼は静かに廊下を歩き出す。

 

 薬箱の重み。茶碗の温度。屈託のない笑顔。その一つひとつが、胸の奥で凍てついていた何かを、静かに溶かしていくようだった。これまでどれだけの命を狩っても、ただ虚無が広がっていただけの心が、今は不慣れな熱を持って鈍く痛む。

 

 拒絶されることに慣れきった心臓が、不意に別の律動を刻み始める。この温もりを知ってしまえば、きっと失うのが恐ろしくなる。だというのに。

 どうしてこんなにも、息苦しいほどに嬉しいのか――その理由を見つけられなかった。

 

***

 

 薬室の片隅。最新鋭の研究機器が集まったそこに、灯りが灯っている。

 乳鉢で藤の花を擦る音。ビーカーと薬匙がぶつかる音。温度のない音が、淡々と部屋に響く。

 顕微鏡から見える、直径数ミリの硝子の円盤。それが、しのぶの世界のすべてだった。凍てついた目が細胞を睨む。

 

 試薬を添加する。その表面がわずかに泡立ち、形を崩していく。しのぶは瞬きをすることなく、鉛筆を走らせる。

 

「血液濃度〇・二五。反応時間、二十一秒。破壊率六割」

 

 数字と条件が紙面に並ぶ。

 別の試験管を手に取り、同じ手順を繰り返す。

 温度を調整し、配合順序を変える。どの組み合わせが最も効率的に細胞を崩すか――それだけが、彼女の頭の中を満たしていた。

 

 結局、血液だけで毒を吸収させることは叶わなかった。誘導はできても、毒を吸収する機構がないかのように停滞するのだ。

 この壁を越えるために、しのぶは太陽に目をつけた。日光、日輪刀。共通するのは太陽の光。直感的に、光屈性の植物を利用できるのではないかと考えた。

 鬼を殺すのは太陽。ならば、太陽に近いものを利用する。

 

 その予想は当たった。そして、候補はすでに三つに絞られていた。

 あとは比較するだけ。しのぶの手は淀みなく、鼓動のように一定の速度で動き続ける。

 

「血液濃度〇・一五。反応時間、八秒。破壊率七割」

 

 やがて、顕微鏡の中で、ひとつの候補が他を圧倒する結果を示した。

 まず、血液を滴下する。藤の花の成分を加熱した後、幼葉鞘の抽出物を順に重ねた時――鬼細胞は一瞬で変性し、完全に壊死した。

 

 鉛筆の先が止まる。成果は出た。肺に溜まっていた空気を出しきるように、長い息を吐いた。

 だが、ようやく1種類だ。ここから、さらに手札を増やす必要がある。それに、実戦で注入する方法も。今回の手法がうまくいったということは、おそらく――。

 その時。背後から、柔らかい声が届いた。

 

「……お疲れさま、しのぶ」

 

 振り返る。そこにはカナエが立っていた。その顔を見ると、凍てついた心がほどける。いつも通りの、大好きな笑み。

 

「姉さん。……毒、完成したわ」

 

 カナエの目が大きく開く。すぐに、花が咲いたような笑みが浮かんだ。

 

「すごいじゃない!……さすがしのぶだわ」

 

 カナエの手が肩に触れる。そこから伝わる熱が、心に深く染み込む。気が緩んだらお腹が空いてきた。ちょっと休憩と、席を立つ。

 

「何か食べたいわ。姉さんも食べる?」

 

「そうねぇ……」

 

 姉の言葉を聞きながら部屋を出て、台所へと歩く。しかし、思考はすでに次に向いていた。これから、組織での実験、いずれは生体での実験が必要になる。

 ――自分が生み出した毒で、鬼が崩れ去る。

 その光景を想像する。そうしていれば、何も考えなくて済んだ。窓から差し込む月明かりが、しのぶの顔を照らす。その口元には、脆く、昏い笑みが浮かんでいた。

 

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