境界の斎鬼   作:eebbi

37 / 61
意思の境界

 駒を置く乾いた音が、絶え間なく響く。この日、斎鬼とカナエは、管理区域に出現した鬼の対応策を検討していた。

 

「鬼の特性を考えると、このルートを通るべきだろう」

 

 斎鬼の表情は変わらない。三つの駒を、山道から逸れた獣道へと淡々と動かす。

 

「ええ。……でも、ここの分岐は、その陣形だと危険だわ」

 

 カナエは、取り戻せない喪失を思い出すように眉をひそめながら、斎鬼が動かした駒を見つめる。やがて、駒を持ち、近くに救援部隊を配置した。それに、反論はない。

 検討は淡々と進む。斎鬼が最適解を見つけ、カナエがリスクを潰す。二人の作戦会議は、いつもこうして進む。

 

 駒が動くたびに最適解とリスクが補われ、やがて盤上に作戦図が完成していった。今は、部屋には資料をめくる音だけが響く。

 

「よし、作戦を伝えてくるわね」

 

 斎鬼が小さく頷くのを確認し、カナエが部屋を出ていった。それを見送り、視線を地図盤に流す。そして、ひとつの駒を手に取った。それは、先ほどカナエが置いた救援部隊の駒。

 命を表すその重み。それを見つめる、悲しげな眼差し。指先で弄ぶ駒の冷たさが、不意に、血に濡れた赤子の産着の重みと重なった。脳裏を灼く鉄錆の匂い。この手で殺した家族の顔が、彼の思考を苛む。

 駒を顔の前に掲げる。時折、顔をしかめながら、思索に耽っている。長い沈黙の末、何かを諦めるように大きな息を吐いた。

 

「どうしたの?」

 

 いつの間にか戻っていたカナエが、小さく首を傾げていた。斎鬼の珍しい様子に、少し眉尻が下がっている。

 斎鬼の目が宙をさまよう。言葉を探しているような、躊躇っているようなしぐさ。駒を眺めながら指で弄び、不意に視線をカナエに向ける。

 

「……カナエは、いつも皆の心配をしているな」

 

 あまりにも唐突な言葉。カナエが苦笑を浮かべる。真意を理解しようと、天井を見上げる。斎鬼は、バツが悪そうに視線を盤上に落とした。

 しばらくして、静かな部屋に小さな笑い声が響いた。カナエが屈託のない笑みを浮かべている。

 

「もう、そういうことね」

 

 顔を伏せたまま、斎鬼が視線をちらりと上げる。カナエの眼差しに、かすかに影がさす。

 

「……みんな、私の宝物なの。だから、傷ついてほしくないだけよ」

 

 その笑顔の奥に隠された痛みを、斎鬼は見逃さなかった。カナエの瞳の奥、決して消えない悲しみの影を見つめる。

 二人を沈黙が包む。少しの間の後、納得したように斎鬼の視線が緩んだ。その脳裏に浮かぶのは、駒を見つめる、カナエの眼差し。胸の奥から湧き上がる衝動が、その想いに応えたいと叫んでいた。

 

「……カナエが守りたいものなら、俺も守ろう」

 

 その言葉に、カナエの目が見開かれる。わずかにためらい、そして瞼に喜びを浮かべた。

 

「もう、十分やってくれてるけど。……でも、ありがとう」

 

 二人はしばし、無言で盤上を見つめていた。互いの呼吸が聞こえるほどの心地よい沈黙が、二人を一つにしていた。

 やがて、どちらともなく顔を上げ、視線が交わる。言葉はいらない。誓いの意味も、覚悟も、そして芽生えたばかりの温かな感情も、すべてがその瞳の中にあった。

 カナエが、すっと視線を逸らした。その頬にかすかな赤みが差している。気恥ずかしさを誤魔化すように、カナエが声を上げた。

 

「そういえば、これ!手伝ってほしいのよ」

 

 慌てて取り出されたのは、大量のマーカーが貼られた地図。斎鬼が続きを促すように視線を向ける。

 

「鬼の出没位置をまとめてるの。何か見えてきそうでしょ?」

 

 斎鬼が躊躇いなく大きく頷く。斎鬼が手に持っていた駒が、どこか優しい音を響かせ置かれた。それが合図となり、大量の報告書が次々と地図に落とし込まれる。そこから見えてくる可能性に、手が止まらない。だがそれ以上に、地図を挟み交錯する二人の時間が、何よりも重さを持っていた。――その地図の線が、やがて運命を左右するものになるとも知らずに。

 

 ***

 

 冬の寒さが深まった夜。白熱した図上演習が終わった後も、斎鬼の胸には言葉が残響していた。その熱を切らすまいと、木刀を振るう。カナエの言葉が、あの誓いが、彼の剣筋を常より洗練されたものへと変えていた。

 宇髄との修行で骨の髄まで染みついた、無心の素振り。しかしまだ安定しないそれを、ひたすらに追い求めていた。

 数えることさえ忘れ、素振りを繰り返す。木刀を握る手のひらに血が滲んだ。痛み、苦しみ、それさえも切り捨てる。意識が遠のき始めたその時、ヒュッ、と、求めていた音が聞こえた。同時に腕が限界を迎え、木刀を落とす。拾う力すらない。

 

「……治療するわ。こっちに来て」

 

 駆け寄ってきたカナエの瞳が、不安げに揺れていた。

 縁側に座る。温かい手が、丁寧に薬を塗っている。その優しさに、斎鬼は心の奥底にあった疑問をこぼしてしまった。

 

「……カナエは、どうして皆が大切なんだ?」

 

 カナエの手が止まる。顔を上げ、視線が交わった。月明かりに照らされたその表情の奥は読み取れない。

 痛みをこらえるように、カナエの唇がこわばる。伝えるべきかを迷うように、口を開こうとしては閉じる。

 雲が月明かりを遮り、二人の表情が闇に溶ける。冬の寒さが肌を刺す。風で揺れる木々の音が、やけに大きく聞こえた。

 互いの指が、温かさを求めるようにわずかに動く。

 

 「……母さんが、ね」

 

 ぽつりとこぼれた言葉。宝物を抱きしめるような、柔らかい声色。しかし、声の震えがその奥の痛みを伝えてくる。

 

「どんな命にも、幸せになる使命があるんだって、いつも言っていたのよ」

 

 薬を塗っていた指先が、小さく震えている。こちらを見つめる眼差しに、大切なものが永遠に失われてしまったこと、それが繰り返されることへの恐怖が滲んでいる。

 

「……でも、時々わからなくなるの」

 

 その言葉のあとには、何も続かない。斎鬼は手の痛みも忘れ、ただその手を握っていた。忌むべき鬼の手だとしても、震える心に少しでも安らぎを与えられるように。カナエが、力なくその手を握り返す。

 

「……ありがとう」

 

 小さく、か細い声。斎鬼が小さく頷く。

 凍えた心。肌を刺すような、冬の冷たい空気が二人を包む。しかしそこには、確かな温もりがあった。

 

***

 

 ――すべての命に、幸せになる使命がある。

 柱の陰から聞いた姉の言葉が、しのぶの胸の中で反響している。これまで、聞いたことのない話だった。

 

 脳裏を過ぎる、手を握られた時の安堵した顔。一度も自分に見せたことのない、弱々しい横顔。あの鬼にだけ見せる、特別な表情。

 姉が、鬼に依存している。その事実が、しのぶの心を氷のように冷たく、そして鋭利に研ぎ澄ませていく。

 

 夜の凍えた廊下を速足で歩く。斎鬼は、人であろうともがき続けている。あの日、アオイに言われた言葉がよぎる。

 そんなこと、しのぶにだってわかっていた。でも、わかっていたって、どうにもならないことだってある。辿り着いた研究室の扉を、乱暴に開け放つ。

 視界に入るのは、小綺麗な部屋。規則的な音だけが支配する、無機質な空洞。空っぽなその様に吸い出されるように、次々と記憶がよみがえる。うなされる姉が、何も教えてくれなかった夜。あの惨劇から目を覚ました時の、あの存在を心配する表情。縁側で、肩を並べて座る二人の姿。

 

 いつも、そこに居るのはあの影。視界がゆがむ。奥歯が砕けそうなほど、強く噛み締める。

 視界の端に映る、月光にきらめく紫の液体。ついに手に入れた鬼を殺す力が、ここにある。

 

 ――すべての命に、幸せになる使命がある。

 

「うるさい」

 

 そんなもので、何が救える。奪われたんだ。奪ったっていいだろう。私には、これしかないんだ。

 激情のままに、試料を掴む。いつもなら一滴の揺れも許さない正確な手つきが、今は憎悪に震えている。しんと静まり返った部屋で、ビーカーに試薬を注ぐ音が、やけに乱暴に響いた。冷たい金属音が、彼女の激情を嘲笑っているかのようだ。無機質で冷たい空気の中に、彼女が調合している藤の花の毒の、甘く、しかしどこか不吉な香りが、微かに漂っていく。

 胸の奥で暴れまわるすべてに蓋をして、顕微鏡を覗き込む。冷たいガラス越しに映るのは、姉を取り戻し、命を壊すための世界だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。