「約束通り、稽古見てください!」
まだ朝だというのに、蝶屋敷に元気な声が響く。回診のため医務室へ向かう途中、アオイはその声に足を止めた。
傷がすっかり治り、しのぶ様からの許可が出たと思ったら、すぐに稽古をせがみ始めた。今も、アオイの視線の先で、斎鬼の周りをウロチョロとしている。
薬箱を持った斎鬼が、無表情でその様子を見ている。助けを求めるように、こちらに視線が流れる。どうしようもないので、首を横に振る。
「薬箱だけ貰っておきます。……手は足りているので大丈夫です」
見捨てられた子犬のような目で、こちらを見つめる。すべてを無視して薬箱を回収し、踵を返す。背後から聞こえるのは、相変わらずにぎやかな声と、ため息ひとつ。しかし、斎鬼の顔に浮かんだ微かに笑みに、アオイは気づいていた。
薬箱を片付けて、冬の冷気が満ちた廊下を歩く。その手には、淹れたばかりのお茶。縁側に向かうと、珍しくしのぶ様が独り座っている。どこか小さいその背中。
「しのぶ様」
この声に、肩が少しこわばる。斎鬼が帰ってきてから、また様子がおかしくなってきていた。カナエ様も、しのぶ様も、あの鬼が居るとすぐにぎくしゃくし始める。
いつも頼り強いその背中の奥にある弱さに、小さく笑みが漏れる。手がかかる人たちだ。こんな時くらい、自分がしっかりしなくては。
「……お茶を淹れました。いかがですか?」
茶碗を受け取る指が、こわばっている。少し遅れて、小さく感謝の声が聞こえた。
しのぶが一口、お茶を口に含む。遠くから聞こえる賑やかな声だけが、沈黙が包む冬の縁側に響く。
「……アオイ、ごめんね」
ほとんど息のような声。しかし、ままならないものをすべて詰め込んだように、重みがあった。
その言葉に、この瞬間だけでも重荷を下ろせるように、精一杯の笑みを浮かべる。しのぶ様のこわばっていた表情が、少し和らぐ。
「あの鬼が頑張ってるのは、わかってるのよ」
茶碗を掴む指が白むほど、強く握りしめている。心の中で何かがせめぎあうように、口を開こうとしては閉じる。しのぶ様が目を閉じ、長い息を吐いた。
覚悟を決めたように目を開き、けれど小さな声でつぶやいた。
「でも、鬼は嫌い。まして姉さんを……」
それから先は続かなかった。悔し気にゆがむその横顔を見つめる。沈黙が、答えのすべてを語っていた。初めて見たしのぶ様の心の弱さが、アオイには見てはいけなかったもののように感じられた。しばらくの沈黙の後、話はおしまいとばかりに、しのぶが立ち上がる。いつの間にか、お茶はなくなっていた。
「さて、仕事をしましょう。お茶、おいしかったわ。ありがとう」
その表情はいつも通り凛としている。しかし、鬼を嫌うはずの瞳に、かすかな影が差す。それに抗い、大事な何かを必死で押し込めるように、無機質な色が塗りつぶしている。
アオイがしのぶの後ろを歩く。変わらぬ小さなその背中。その背に寄り添いながらも、アオイは胸の奥に小さな棘を覚えていた。
重い気持ちのまま廊下を進むと、不意に、鍛錬場の方から木刀の乾いた音と、屈託のない声が聞こえてきた。その明るさが、今の胸には少しだけ眩しい。
***
蝶屋敷の鍛錬場。わずかな呼吸音に合わせて響く、木刀がぶつかる音と、踏み込みの音。一切の声が聞こえない、張り詰めた空間。
数刻にわたって、間断なく繰り返されたその音が、ついに止んだ。
「ぜんぜんダメだ!」
限界とばかりに倒れ込んだ一人の隊士――吉岡。荒い呼吸を繰り返し、悔しそうに声を張り上げる。しかし、その顔には笑みが浮かんでいる。
「……十分だろう」
それは本音だった。継戦能力、集中力ともに高い。あとは、基礎を繰り返すだけだろうと。
だが、斎鬼は思考を脇に置き、痺れが残る手を見つめていた。鬼としての膂力が、明らかに落ちている。以前なら力尽くで捌けていたものが、受け止めきれなくなっている。胸の奥を、焦燥と、それとは正反対の微かな安堵とが同時に駆け巡る。
その奇妙な感覚に蓋をして、吉岡の言葉に意識を戻した。
「いや、実戦じゃダメダメですよ。実際に鬼見ると、やっぱり怖いんですよね」
快活な笑顔に浮かぶ、微かな翳り。遠い何かを見るように、吉岡の視線が宙を彷徨った。その言葉で脳裏によみがえる、無数の断末魔と血の匂い。痛みを飲み込むように、斎鬼が木刀を握り締める。
やがて、呼吸を整えた吉岡が勢いよく立ち上がり、まっすぐな目で斎鬼を見つめる。
「自信がつけば何とかなると思うんで、全部教えてください!」
「……わかった。俺も、聞きたいことがある」
剣筋、戦闘の組み立て、読み。カナエと宇髄から叩き込まれたそれらを、惜しみなく伝える。吉岡からは、水の呼吸の感覚、これまでの任務のことを教わった。一つひとつ真剣に実践する姿が、言葉では説明のつかない温かさを斎鬼の胸に落とす。
和気藹々としたその様子を陰から覗く、カナエの柔らかな視線と、しのぶの鋭い視線。笑う若者を見守る眼差しに、温かさと不安が交錯していた。
***
その日も、研究室の灯りだけが闇に浮かんでいた。あの日以来、この部屋にはまた凍えた空気が戻り始めていた。
しのぶの耳に届くのは、規則正しく時を刻む時計の音と、ガラス器具が立てる硬い音だけ。相も変わらず、しのぶの目に、この部屋は空虚に映っていた。
あれから、研究は順調に進んでいた。最終調整は必要なものの、鬼の細胞を殺せる調合は三種類になり、細胞の増殖を著しく阻害する薬も開発できた。
しのぶの薬匙を握りしめる手に力が入り、手が白む。自分の鬼を殺す力は増している。だというのに――。
思考の渦を破るように、入り口がノックされた。息を吐き、心を落ち着かせる。しかし、部屋に入ってきた顔を見て、再び胸の中が荒れ狂う。
「何か用ですか?」
思わず語気が強くなる。そこではっと気づいた。今日は、組織の採取の日だと。それにまた心が乱れる。薬匙を荒く置く音が響く。
「……今日は、やめておくか?」
顔を上げ、斎鬼の顔を見る。眼差しに滲む、心配そうな色。それが姉の目と重なる。胸をかきむしられる思いに、言ってはいけない言葉が、零れ落ちてしまう。
「……あなたじゃなければ良かったのに」
口から出た言葉に、自分の胸が深く抉られる。それでも、せめてもっと違う鬼だったら、正しい憎しみを持ち続けることができたという気持ちが、抑えられなかった。
斎鬼の顔を見ないように、視線を落とす。少しの時間だけ耐えればいい。そう念じて、すべてを心の奥に押し込む。
「採取しましょう」
斎鬼が小さく頷き、いつものベッドに横たわった。しのぶが白衣を羽織る。消毒をし、止血剤を準備。メスを手に取り、いつも通り、この鬼の組織を採取する――。
手が、止まる。無機質な照明が、そこにあるはずのないものを照らし出していた。再生能力を持つ鬼ではありえない、ピンク色の生々しい傷痕。先日の鍛錬で負ったであろう無数の傷が、再生せずに残っている。カチン、とメスを持つ手が震え、金属の皿に触れて乾いた音を立てた。息が、できない。
メスを下ろそうとする体を心がとどめるように、腕が動かない。刃先に灯りが跳ね、斎鬼の瞳の奥の揺れが一瞬だけ映った。また、姉と重なる。
――目の前の存在は、本当に鬼なのか。
「やめて」
か細い声が漏れる。それだけは、疑問を持ってはいけないことだった。もし受け入れてしまったら、自身を支える柱が決定的に壊れてしまう。
「……やはり、今日はやめておこう」
斎鬼の目がこちらをじっと見つめる。温かな瞳。唇を強く噛み締める。視界がぼやける。
耐え切れず顔を逸らし、メスを置いた。斎鬼は何かを言いたげに口を開こうとして、しかし何も言わず部屋を出ていった。
呆然と、未だ震える手を見つめる。鬼は憎い存在。斎鬼からとれる組織は、まぎれもなく鬼のもの。ならば、好きにすればいいはず。それなのに。
「しのぶ、どうしたの?」
姉が入り口から顔をのぞかせている。慌てて顔を逸らす。今の顔だけは、見られたくなかった。
ふわりと香る優しい花の匂いと、優しい体温。この温かさが、さっき見たあの眼差しと重なった。縋りたいのに、自身の輪郭を溶かしていくようで、怖い。
「……私じゃ、頼りないわよね」
「そんなことない!」
姉の弱々しい声。それだけは、否定しなくてはいけなかった。
自分を包む腕が、少し震えている。私の弱さが、意地が、また姉を傷つけている。目を固く閉じ、手を強く握りしめる。
「……いつか」
ぽそりとつぶやく。
「いつか、ちゃんと話すから。今は……ごめんなさい」
こんな言葉でも、この腕の震えを止められたらいい。頭上で、安堵したかのように息を吐く声が聞こえた。
――その「いつか」が、大きな転機となることを、二人はまだ知らない。