昼下がり。指先に残る水の冷たさを振り払い、斎鬼は食器を布巾で拭い終えた。陶器が重なる乾いた音が、静かな昼下がりの台所に響く。だが、彼の意識はとうにここにはない。脳内は、あの巨大な地図盤の上で繰り広げられる無数の死――過去の討伐事案の図化に囚われていた。
まだ過去二年が終わった段階だが、鬼の出没が多い区域は、時期によって異なっていた。今のところ、規則性はない。しかし、その区域にきっと何かがある。
――無惨か、上弦か。
居場所を隠すための囮か。そこに無惨が居るのか。調査が必要だろう。宇髄との修行から鋭敏になった血鬼術を使えば、上弦なら判別可能かもしれない――。
「正治くん!」
自分を呼ぶ声に、思考を打ち切る。カナエが手を振っている。隣に、一人の隊士。こちらを見て小さく頭を下げた。
床が軋む音を聞きながら、駆け足で向かう。カナエが何か企んでいるように、悪戯な笑顔を浮かべている。
「あなたの作戦を考えたのは、この人なのよ」
何を言うのかと思えば。呆れ混じりにため息を吐く。隊士は、目を輝かせてこちらを見ている。
「ありがとうございました!」
まだむずがゆい、純粋な感謝。思わず、斎鬼は自らの手のひらを見つめた。かつて数えきれないほどの命を奪った、この節くれだった手。ただ盤上で駒を動かすだけで、この血で汚れた手が何かを守れるはずがない。最近、それをようやく理解してきたばかりだった。
「……お前の成果だろう」
即座に、ひときわ大きい声が響く。
「違いますよ!ほら、傷ひとつありません!おかげで、妹に心配かけないで済みます」
その後も勝手に感謝の言葉を連ねている。しかし斎鬼の耳には、さっきの言葉が残り続けていた。家族のために、無事で帰る。
満足したのか、ひとつ礼をして、隊士は去っていった。その背を見送り、隣に立つカナエに視線を向ける。何やら不満そうに口を尖らせている。
「……全然驚いてなかったわね。知ってたの?」
その言葉で納得した。吉岡の一件に、深い意図はなかったのだろう。
ため息をひとつ。図上演習の間に足を向けながら、口を開く。
「……吉岡から聞いた」
なんだ、と言いながら、その隣をカナエが歩く。
まるでそこに向かうと約束していたかのように、躊躇いのない歩み。いつの間にか、あの部屋での邂逅が当たり前になっていた。
斎鬼の耳には、隊士の言葉とその温度が残り続けている。胸に残る温かさと、より強固になる決意。血塗られた鬼の手でも、きっとできることがある。
カナエが、嬉しそうな笑みを浮かべてその横顔を見つめていることに、斎鬼は気づかなかった。
肩を並べて歩く。冬には珍しい、肌を撫でるように柔らかな陽気が長い廊下を満たしていた。開け放たれた窓の外から、鈴を転がすような子どもたちの甲高い笑い声が飛び込んでくる。
カナエが窓から顔を出し、何か話している。冬の柔らかな光が彼女の横顔を照らし、結い上げた髪の毛筋を黄金色に縁取っていた。大切なものを見守る、優しい横顔。斎鬼は壁に背を預け、その陽だまりを眺める。日の光がつくる影の輪郭が、彼我を隔てる境界のように見えた。この線をまたげない現実が、心の奥に冷えた雫を落としていく。
戻ってきたカナエが、何やら楽しそうに口を開いた。
「仕事が終わったから、ベーゴマ大会を開くそうよ」
またか、と斎鬼は思った。あの日以来、突発的に開かれるベーゴマ大会。隊士たちも参加するそれは規模が大きくなり、段々と平均の実力が上がってきた結果、勝つのが難しくなっていた。同時に思い浮かぶ、無表情なひとりの顔。
「……カナヲも、参加させたいんだがな」
ベーゴマ大会では勝てても、あのコイントスの勝率はゼロだった。
その言葉に、カナエがふと窓の外を見る。窓から吹き込んだ心地よい風が柔らかく髪を揺らし、その穏やかな横顔が垣間見える。そして、斎鬼に眼差しを向けると、花が咲いたように笑った。
「大丈夫よ。あなたの優しさは、必ず伝わってるから」
その笑顔に、鼓動が大きくなる。今まで感じたことのない温かさが、斎鬼の胸の奥に溜まっていく。理解できないその感覚に、思わず視線を逸らした。笑顔を浮かべたまま、構わず歩き出すカナエ。少し慌てて、その背を追った。
隣から聞こえるカナエの鼻歌。体の芯を凍えさせていた何かが溶けてゆく感覚を覚えながら、廊下を進む。
不意に、思いついたようにカナエが口を開いた。
「今日は、作戦の振り返りかしら?」
この件について、斎鬼の答えは決まっていた。
「いや、過去事例の方が優先だ」
珍しいキッパリとした発言に、カナエが目を丸くする。こういう時は、たいてい何か確信があるときだと、カナエは小さく頷いた。
***
巨大な盤上の前。部屋の空気を、古い和紙の乾いた香りが満たしている。カサリ、と紙をめくる音とともに、地図を広げた二人が膨大な書類を次々処理していた。ここ数週間ですっかり慣れた作業だ。
斎鬼がある地域の報告書に目を通し、眉を顰める。カナエに声をかけようと顔を上げると、一枚の地図が差し出されている。
「カナエ、この報告書は――」
「――それはここよ。斎鬼くん、この鬼の情報、わかる?」
地図上を、大量のマーカーが埋め尽くす。事案の発生場所、鬼の特性、力量や血鬼術。詳細情報が、その横に整然と並べられる。阿吽の呼吸で、書類の山が片付いていった。
数刻にわたって繰り広げられた静かな格闘は、小休止に入っていた。斎鬼は、出来上がった四年分の地図を見比べている。
肩越しに、カナエがその様子を見ている。斎鬼が蝶屋敷の担当区域の地図を広げた、その時だった。
「これ、あなたがいた場所よね」
カナエが指さしたのは、二人が出会ったあの谷。斎鬼が小さく頷く。その場所を中心に、ぽっかりと穴が開いたように、白が広がっている。斎鬼の潜伏区域では、明らかに鬼の出没事例が少ないのだ。
何かに気づいたように、斎鬼が別の地図を取り出す。
「その前は、ここに居た」
二年前の地図。別の区域ではあるが、同様に出没件数が少ない。待ってましたと言わんばかりに、今度はカナエが別の地図を持ち出した。
「じゃあ、ここもそうかしら?」
指し示された区画。斎鬼が記憶を辿るように宙を見つめる。しばらくして、納得がいかないとばかりに、顔をしかめた。
「……いや、ここにはいなかったはずだ。第一、遠すぎる」
二人の視線が交わる。途端に、部屋の空気が真剣勝負のそれに変わった。和紙の擦れる音が連続し、嵐のように四本の腕が完成した地図を漁り始める。四年前から現在へ。求めるは、空白地帯。大量の地図が目にも止まらぬ速さで仕分けされていく。
そしてついに――ぴたり、と二人の指先が、まるで示し合わせたかのように東京近郊のとあるエリアを示す一枚の地図の上で止まった。斎鬼の潜伏場所よりも圧倒的に範囲は小さいが、それでも確かに、空白が出来ている。
舞い上がった埃が、窓から差し込む光に照らされてきらめいている。熱をもった沈黙の中、どちらともなく視線を互いに向け、力強く頷く。言葉はない。だが二人は、それが示唆するものを正確に理解していた。