境界の斎鬼   作:eebbi

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契機

 胡蝶カナエは、夜の闇に息を潜めていた。

 

 彼女がこの峻険な峠道にいるのは偶然ではない。先夜に接触した異質な鬼――『斎鬼』。その存在が、脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。以来、蝶屋敷の情報網を使い、彼の目撃情報を独自に追っていた。人を守り、同族を狩る。鬼殺隊の理念を根底から揺るがしかねないその矛盾を、柱として放置することはできなかった。

 

 数日にわたる追跡の末、ついに捉えたその鬼は、しかし、カナエの予測とは全く違う行動に出た。

 

 眼下の街道で、商人たちを乗せた一台の馬車が、岩のような巨躯の鬼に道を塞がれている。古典的で、あまりにありふれた惨劇の序章。カナエが日輪刀の柄に手をかけた、その時だった。黒い影が、月光を背負って舞い降りた。斎鬼だ。

 

 彼は商人たちを庇うように岩鬼の前に立ちはだかる。その背中は、カナエがこれまで斬ってきたどの鬼とも異質だった。

 

「なんだ、テメェは。邪魔するなら、お前から喰ってやる」

 

 岩鬼の咆哮が、夜気を震わせる。斎鬼は商人たちに鋭く叫んだ。

 

「逃げろ!麓の村まで止まるな!」

 

 商人たちは、二体の鬼の出現に怯えながらも、慌てて馬車を返し、闇の中へと消えていく。その背後で、泥臭い戦いが始まった。

 

 カナエはすぐには動かなかった。ただ、木の上から冷静に戦況を見つめる。

 

 人を喰らわぬという彼の性質上、その力は岩鬼を圧倒するには足りていない。真正面からぶつかる愚を避け、ひたすらに攻撃を捌き、受け流している。だが、それは単なる時間稼ぎではなかった。

 

 カナエの目に映るその動きは、驚くほど知的だった。岩鬼の巨体と単純な攻撃パターンを瞬時に見抜き、巧みに、そして意図的に特定の方向へと誘導していく。あえて致命傷にならぬ一撃を受け、その巨体を僅かに怯ませては進路を修正させる。背中を爪で裂かれ、腕を砕かれる。再生はしているようだが、その顔は苦痛に歪み、呼吸は荒い。それでも、その瞳の光は揺るがない。

 

 やがて、岩鬼は斎鬼に追い立てられる形で、道が大きく湾曲する崖際へと追い詰められた。そこは、足場が悪く、巨体を思うように振るえない、この峠で最も危険な場所。

 ――罠。

 カナエは、斎鬼の戦い方に戦慄した。それは、鬼の持つ膂力や異能に頼ったものではない。地形を読み、相手の心理を読み、自らの消耗さえも計算に入れた、極めて高度で知的な『戦術』。まるで、熟練の猟師が獲物を追い込むかのように。

 

 状況を完全に理解したカナエは、迷わなかった。柱としての責務は、人々を脅かす鬼を斬ること。そして、眼下で繰り広げられる戦いもまた、その例外ではなかった。

 彼女は、岩鬼の背後へと音もなく舞い降りる。まるで、斎鬼が作り出したその一瞬の隙を、初めから知っていたかのように。

 

「花の呼吸、肆ノ型・紅花衣」

 

 一陣の風が吹き抜け、岩鬼の頸が、鮮やかな太刀筋と共に宙を舞った。追い詰められ、体勢を崩していた岩鬼に、反応する術はなかった。

 

「なっ……!?」

 

 何が起きたのかもわからぬまま、その巨体は塵となって消えていく。

 脅威は去った。

 斎鬼は役目を終えたと判断し、すぐさまその場から退避しようとした。目の前にいるのは、鬼殺隊の最高戦力である柱。彼にとって自分もまた、斬られるべき鬼なのだ。

 だが、満身創痍の体は、彼の意思に反してよろめく。

 

「待ちなさい」

 

 背後から、凛とした声がかけられた。

 彼の足が止まる。逃走を諦めたのだろうか、彼は警戒を解かぬまま、ゆっくりと振り返った。カナエは、日輪刀を鞘に収め、静かに斎鬼を見つめていた。その瞳に、殺意はない。ただ、測りかねるような深い色が揺れているだけだった。

 

「……やっぱりあなただったのね」

 

「……」

 

 束の間の静寂。破ったのは、斎鬼だった。

 

「……斬らないのか?」

 

 掠れた声で、彼が問う。

 

「俺は鬼だ。お前の、鬼殺隊の敵だろう」

 その言葉には、斬られて当然だという諦観と、そうしない自分への苛立ち、そして、死を覚悟した者だけが持つ、乾いた響きがあった。

 カナエは、彼の問いには直接答えなかった。ただ、自らの心に生まれた、決して無視することのできない巨大な矛盾と向き合っていた。

 

「ええ、その通りよ。鬼は斬るべき存在。……でも、その斬るべき鬼が、命を懸けて人を守っていた。私には、その理由がわからないの」

 

 彼女は、純粋な疑問として問いかけた。その声は、柱としての威厳ではなく、一人の人間としての戸惑いに満ちていた。

 

「どうして、人を守るの?」

 

「……贖罪だ」

 

 彼は、血反吐を吐くように、それだけを言った。自嘲が、その短い言葉に深く刻まれている。

 

「俺は、人を喰った。だから、鬼だ。鬼ならば、斬られるべきだろう?」

 

 それは、あまりにも潔く、そして、あまりにも悲しい答えだった。鬼殺隊の理念。仲間たちの死。両親を奪われた日の記憶。その全てが、目の前の鬼の頸を刎ねよと、彼女の中で叫んでいる。だが、彼女が見た光景が、その絶対的な正しさを、根底から揺さぶっていた。

 

「ええ、鬼殺隊ではそれが当たり前の理屈よ。そう教えられ、そう信じて、私も刀を振るってきた。でも、あなたは人を守った。自分の命を懸けて」

 

 彼女は、心の底からの疑問を口にした。

 

「教えてほしいの。あなたにとって、人と鬼を分けるものは、一体何?」

 

 その問いに、彼は答えられなかった。だがその沈黙は、雄弁に諦観を物語っていた。鬼である自分は救われる資格などないと。

 カナエは静かに、しかしはっきりと首を振った。

 

「いいえ。あなたは、そう思っているかもしれないけれど」

 

 静かな声だが、森の空気を震わせるほどの、強い意志がこもっていた。

 

「自分の命を危険に晒してでも、誰かを守ろうとするその心は……紛れもなく、人のものよ」

 

 その言葉に、彼の肩が、ほんのわずかに震えたのをカナエは見逃さなかった。数年間、誰からも肯定されることのなかった彼の存在を、彼の戦いを、目の前の鬼狩りが、肯定した。

 

「……何を、言って……」

 

「鬼は斬るべき存在。それが鬼殺隊の、そして私の務め。隊士たちは皆、鬼を憎んでいるわ。……ええ、私もよ。鬼に家族を殺されたのだから」

 

 カナエは、静かに続けた。

 

「でも、あなたを見ていると、分からなくなる。私の信じてきた正しさが、揺らいでしまう」

 

 彼女の言葉は、鬼殺隊の柱としての責務と、一人の人間としての感情との間で引き裂かれる、魂の叫びだった。

 斎鬼は、何も言えずに立ち尽くす。

 

 カナエは、決意を固めたように顔を上げた。この矛盾から目を背け、彼を殺すことは、もはや彼女の魂が許さない。かといって、このまま見逃すことも、柱としての責務が許さない。ならば、道は一つしかない。

 

「あなたの戦いを、もう少し見届けさせてもらえないかしら」

 

 それは、問いかけの形をとった、有無を言わさぬ宣言だった。彼女は一歩、彼に近づく。

 

「私ね、夢を見ているの。いつか、鬼と人が手を取り合える日が来るかもしれないって……。馬鹿げた夢だと、みんなに笑われるけれど」

 

 彼女は、自嘲するように微笑んだ。だが、その瞳はどこまでも真剣だった。

 

「あなたのような鬼がいるのなら、その夢は、ただの絵空事ではないのかもしれない。だから、お願い。あなたのことを、もっと教えてほしいの。あなたが何に苦しみ、何のために戦うのか」

 

 情に訴える、あまりにも無防備な言葉。柱としてあるまじき、感傷的な願い。

 斎鬼は、その言葉に応えず、後ずさるように一歩距離を取った。彼の目に宿るのは、戸惑いと、そして明確な拒絶の色だった。

 

「……馴れ合うつもりはない」

 

「ええ、分かっているわ。だから、これは『取引』よ」

 

 カナエは、彼の拒絶を織り込み済みとでも言うように、続けた。

 

「あなたは、あなたの目的のために同族を狩り続ける。私は、それを追う。あなたが鬼の情報を私にくれるなら、私は、あなたが鬼殺隊の他の剣士に斬られないよう、手を回しましょう。……あなたにとって、悪い話ではないはずよ」

 

 それは、彼女の純粋な願いを、彼が受け入れられるであろう唯一の形――『利害の一致』という無機質な言葉に包み直した、不器用な歩み寄りだった。

 斎鬼は、しばし黙考した。鬼殺隊の柱と手を組む。それは、孤独な贖罪の道を歩むと決めた己の信念に反する。だが、無惨を討つという大義の前には、もはやそんな矜持は無意味だった。この女の提案は、彼の目的を達成するための、最も確実な近道に違いなかった。

 

「……勝手にしろ」

 

「取引成立ね」

 

 鬼と柱という決して交わるはずのない二つの存在が、互いの目的のために、初めて手を取り合う瞬間だった。孤独な戦いを続けてきた二つの魂が、奇妙で、危険な鎖で繋がれた夜だった。

 

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